第五話 強き者たち

 洞窟の奥は、まるで海底の底に取り残されたかのように薄い青光に満ちていた。

 湿った空気が肌に貼りつく。天井から滴る水の音が、静まり返った空間にぽたり、ぽたりと落ちていく。


 その中央に立っていたのは――異様な光景だった。


 石柱。

 だが普通の岩ではない。まるで“地図”そのものが石になったかのような、複雑なラインを刻みつけた柱。

 その表面には淡い光を帯びた紋様が浮かび、渓谷や河川の形を思わせる線が脈動している。


 そしてその柱に――。


「……っ……!」


 ライリーが両腕を絡め取られ、捕らわれのまま意識を失いかけていた。顔は青白く、唇は震えている。


「ライリー!!」


 ハンナが駆け寄ろうと、一歩踏み出した瞬間だった。


「……近寄るな」


 低い、空気を震わせるような声。

 石柱の裏から、黒い影が滑り出してくる。形は人間のようだが、輪郭は曖昧に揺れ、顔と呼べるものはどこにもない。黒い靄が集まって人の形を保っているだけの、不気味な存在だった。


「この子は……良い“記録具”だ。地理を知る者は珍しい。……もっと図を描いてもらう」


 その声音には感情がない。ただ淡々とした事実の列挙だけがある。


「お前……ライリーの“地図”を吸っているのか?」


 テオの声は冷静に聞こえたが、内心では全身が冷え切るほどの戦慄を覚えていた。

 ここで彼を失わせるわけにはいかない。


「この地は動く。揺れる。形を変える。記録が必要なのだ。……私が“青い谷”を守るために」

「守る……? でもライリーをこんな……!」


 怒りが隠せない声だった。

 影はそんな彼女に、顔がないくせに、まるで首をかしげるような仕草を見せる。


「あなたたちには分からない。青の谷を踏み入れる者は皆、地を乱し、魔を呼ぶ。だから私は――地図を描かせ、侵入者を迷わせる」

「……迷わせる、か。地理の天才であるライリーを?」

「とても良い。“ここにあるべき地形”を描いてくれるから」


 影の足元の紋様がうねり、まるで生きているかのように地面を変形させていく。


「テオ……地面が……!」

「地形操作の魔法か……面倒なのに当たったな」


 足元が盛り上がり、次の瞬間には槍のように尖った岩となって伸びあがる。まるで“地形”そのものが敵として牙を剥いているかのようだ。


「さあ……ここで眠りなさい。あなたたちの地図も、いただきます。そしてここからは……返さない」


 黒い腕が伸び、空気ごとねじ曲げるような渦が二人に迫る。


「ハンナ!」

「任せて!」


 ハンナは足元の岩を蹴り、楔を壁に打ち込むと、まるで弾丸のような速度で影の背後へ回り込んだ。

 着地と同時に石柱へ渾身の蹴りを叩き込む。


「ぐっ……これ、硬い!」


 しかし石柱は青々と輝き、衝撃を丸ごと吸収してしまった。


「そう……彼の知識は甘美だ」

「どういう意味よ!」

「全ては地形にある」


 足元の地面が歪み、蛇のように蠢いたと思えば、ハンナめがけて無数の岩槍が襲いかかる。

 ハンナは瞬時に身を翻し、影の攻撃を紙一重でかわした。だが数が多すぎる。


「クソッ……こんなやつ、どう攻略すれば……」


 焦燥が胸を締めつける。

 超集中を使っての知識があるはずなのに、この存在はテオの知らない“穴”だ。


 ――ならば、未知を読み解くしかない。


 そう思った瞬間、ハンナが息を整えて言った。


「……ライリーの地図で強化されてるなら」

「なら?」

「“地図を間違えれば”強化は解ける!」

「な、なにっ!?」


 テオが驚きの声を漏らすより早く、ハンナは壁面へ走った。

 そこには渓谷の精密なライン――ライリーが描いた“真の地形”が刻まれている。


「わざと間違える!」


 床に落ちていた石片を拾い、一気に偽の渓谷のラインを書き加える。


「やめろ――!」


 影が腕を伸ばすが――。


「させない!」


 ハンナの拳が空気を裂き、影の腕を吹き飛ばした。影が霧のように散る。


 次の瞬間。


 ――ビシリ、と乾いた音。


 地図台に走った亀裂が瞬く間に広がり、石柱の光がふっと消える。


「……う、うう……」

「ライリー!!」


 ハンナは即座に駆け寄り、ライリーの体を抱き留めた。

 温かい体温が戻りつつある。


「なぜだ……なぜ乱す……!」


 影は悲鳴のような声を上げた。


「この子にとっては地図は大切なものなの。好き勝手に変えていいものじゃない」


 その声には怒りだけでなく、守ろうとする優しさがあった。


「でも……それ以上に地形の方が勝手に変わるのは話が違うんじゃない?」


 影が狂ったように叫び、洞窟全体が大きく揺れ始めた。まるで地形が悲鳴を上げているかのようだ。


「ここは……もう保てない……!」

「崩れるぞ! 全員出口へ走れ!」


 天井から岩が降り注ぐ。

 三人は瓦礫をくぐり抜け、必死に洞窟を駆けた。


「ライリー、しっかりして! もう少しで外よ!」

「……ごめん……僕……気づいたら……」

「謝るな。お前が悪いわけじゃない」


 テオは強い声で言った。

 未来のライリーはもっと強い。だからこそ――ここで折れさせるわけにはいかない。


 出口が見えた。

 最後の巨大な岩が落ちてくる瞬間、三人は洞窟を飛び出した。


 背後で轟音が響き、洞窟が完全に崩落していく。


「はぁっ……はぁっ……生きてた……」

「ライリー、大丈夫か?」

「……うん。テオ兄さん、ハンナ姉さん……ありがとう」


 薄く笑うライリーの顔を見て、ようやく三人は肩の力を抜いた。


「よし。なら、次は――」


 テオは崖下を見下ろし、遠くに広がる光景を見据えた。


「“青の谷”が、もう近い」


「行きましょう。ライリーが無事なら、それでいいわ」

「うん!」


 陽光の差し込む出口を背に、三人は次の冒険へと歩き出した。







 谷底の道は、岩肌の隙間から冷気が吹き抜けていく、細長い峡谷だった。頭上には切り立った崖がのしかかり、陽光は細い帯のように地面を照らしている。

 洞窟での戦いの余韻がまだ残っているのか、湿った砂利を踏みしめる足音さえ、三人には少し重く響いた。


 だが歩きながらも、ハンナは何度も後ろを振り返る。肩が小さく跳ね、そのたびに髪が揺れた。


「どうした?」


 テオが問いかけると、ハンナは小さく首を横に振った。しかしその瞳は落ち着かず、どこか怯えの影を宿している。


「う、ううん。その……誰かにつけられてる気がして」

「なんだと?」


 テオとライリーも足を止め、谷の奥を振り返る。風が吹くたび岩壁が唸るような音を立てるが、人影はどこにもない。


 一本道。隠れる場所はないはずだ。


「さすがに気の所為だろ」

「でもなんか……背筋がゾワゾワするの……何かよくない物に見られてるような気がして……」


 ハンナの声は震えていない。しかし、その不安は言葉の端々から滲んでいた。

 少女特有の直感か――それとも、洞窟の番人との遭遇が残した余韻か。


「またあの影みたいな青い谷の番人がいるとでも?」

「わからないけど……」


 ハンナは再び背後を見た。谷に反響する風の音が、まるで誰かが笑っているようにも聞こえる。


「……敵なら排除しとく必要があるな」


 テオが一歩、前に出る。その足取りは迷いがなく、むしろ獲物を見つけた狩人のようだった。


「追われて先を越されたら手柄が横取りだ。ここで見つけて片付けるのがいいだろう」

「ぼくは見つけさえすれぱいいから気にしないけど……」

「私も別に……冒険ができれぱそれてよかったから」

「……お前らなあ……さすがに無私にも程があるだろ。莫大な賞金と、土地の所有権だぞ?」


 呆れ混じりに言うテオに、ハンナがくすっと笑った。


「テオこそ、意外と俗っぽいわねえ」

「俺はそもそもそれ目当てでここにいるんだよ」


 そんな軽口を交わしていたそのとき――。


「お話中ごめんなさいね〜。やっと追いついたわ」

「!? 誰だ!?」


 突然、岩陰から男がぬるりと姿を現した。

 体は大柄で、筋肉質。だが動きは妙にしなやかで、腰をくねらせる癖のある仕草をしている。

 男は自信と余裕をまとった笑みを浮かべていた。


「アタシはリアム・エヴァンス。あなたたちをずっとつけさせてもらってたわ。この先ね、鉱脈は」


 その言い方にはまるで“勝手に盗み見ていたけど何か?”という図太さがあった。


「おやおや犯人が自分から名乗り出てくるとは……バカなのかそれとも――」


 テオは目を細める。


「俺たち全員を始末できる自信があるのか」


「ウフッ、後者だと言ったら信じるかしら?」


 冗談めいた声色とは裏腹に、リアムの周囲には肌が粟立つほどの“殺気”が漂っていた。

 ただの開拓者ではない。


「どうする……? 正直、かなりヤバそうだけど……」


 ハンナが小声で言った瞬間、リアムがにっこりと微笑んだ。


「アラ……? アナタ、ハンナ・E・エドワーズじゃない?」

「っ!? どうして……」


 ハンナが一歩後ずさる。

 リアムはひとつ肩をすくめ、まるで噂話をするかのように続けた。


「お父様も有名人だけど、アナタもなかなかお転婆娘だって聞いてたから。アラ〜こんなところまで来ちゃって〜」

「え? なに? どういうこと?」とライリーが戸惑う。

「……こいつ、今の開拓時代を作ったオズワルド・E・エドワーズの娘なんだよ」


「ええっ!? あ、おの大貴族の!?」


 ライリーが目を点にする。


「アラ、教えてなかったの?」

「だって……色眼鏡で見られると思って……」

「アハハ! 可愛いわねぇ」


 リアムは楽しげに笑ったが、目の奥は笑っていなかった。


「なら、イチバンはアタシに譲ってくれない? アナタたちには必要ないでしょ?」

「俺には必要なんだよ」


 テオが前に出た。

 視線は鋭く、リアムを真っ直ぐに見据えている。


「お前らは先に青い谷に行け。すぐに追う」

「えっ? でも……」

「こいつはここで片付けないといけない……そんな気がする」


 テオは銃を抜き、構える。

 ハンナは迷ったが、そっと楔――鱗の一片を差し出した。


「これであなたを導くから、迷わないと思うわ」

「助かる。行け」


 ハンナとライリーは渋々走り出し、谷の奥へと消えていった。


 残された二人。

 冷たい空気が張りつめ、砂利がひとつ転がる音さえ響く。


「アラ……ただの人間のくせにアタシに勝つつもりかしら? 少し痛い目を見せてあげないといけないようね」


「痛い目を見るのはどっちか……すぐにわかる」


 テオが撃つ。

 銃声が峡谷に響き――だが次の瞬間、銃弾は鋼鉄のような翼に阻まれた。


「!? アーマーホークの翼か? お前、アーマーホークの魔族なのか?」

「ウフッ、アタシのことが知りたかったらもっと仲良くなることね」


 そしてリアムも銃のようなものを取り出し、引き金を引いた。

 テオはほとんどを避けたが、わずかに一発だけ肩に食い込む。


「なんだ? 大したことな――」


 言いかけて、テオは硬直する。

 肩に刺さっていたのは、銃弾ではなかった。


 ――吸血虫。


 肉に食らいつき、瞬く間に血を吸い、腹を膨らませていく。

 その重さに引きずられ、テオは片膝をついた。


(こいつ……なんなんだ……!?)


 息が乱れ始め、視界がわずかに揺れる。

 対するリアムは余裕の笑みを浮かべたまま。


「アラアラ……まだまだ、これからよ?」


 その声は甘く、しかし底冷えのするような残酷さを含んでいた。

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