第四話 谷の守護者

 ハンナは巨体のバル・ガロを一度地に伏せさせた――そう思っていた。しかし、背後で軋むような音がして振り返る間もなく、黒い影が跳ね起きて襲い掛かってきた。


「こいつ……まだ……!」


 咆哮が森を震わせ、バル・ガロは獣とは思えぬ速度で駆け抜ける。巨体が木々を押しのけるたび枝葉が激しく舞い散った。


「ならまた殴り倒してあげる!」


 ハンナは高速移動の魔法を展開し、青い閃光となって迫る。だが――


「手応えが……ない!?」


 拳が空を切る。確かに当たったはずの瞬間、バル・ガロの姿が揺らぎ、次の瞬間には横から蹴りが飛んでいた。


「がっ……!」


 ハンナは樹に叩きつけられ、荒い息を吐いた。


「魔法か……!」


 バル・ガロは魔物――魔法を使えて当然だ。しかし、視覚上は確かに命中しているのに手応えがない。残像か、分身か、それとももっと厄介な術か。


「残像? 分身? それとも、もっと別の……」


 ハンナは痛む身体を押して再び高速移動。周囲を巡りながら、目ではなく違和感で動きを読む。試しに楔を連射するが、やはりすべて空を切った。


「まずい……何もわからない。このままじゃ……」


 焦りが喉に張りつく。そこへ――


「ハンナ!」

「ハンナ姉さん!」


 駆けつけたのはテオとライリーだった。


「そいつの魔法は位置ズレだ! 実際に見える姿と位置がズレている! 音で索敵しろ!」

「音……なるほど……」


 ハンナは樹上へ跳び乗り、目を閉じた。魔族特有の聴覚が研ぎ澄まされる。


 草木をかき分ける、低く湿った音――それはバル・ガロがテオとライリーへ向かう音だった。


「そこッ!」


 ハンナは楔を放ち、それを別の楔で引き寄せて軌道を操る。音の位置だけを頼りに、見えない“真の位置”を狙い定めた。


 命中。バル・ガロの巨体が宙に跳ね上がり、ハンナへ吸い込まれてくる。


 ハンナは竜の拳を握りしめた。


「はあああッ!!」


 轟音とともに、鬼のような一撃が叩き込まれる。今度こそ手応えがあった。


 バル・ガロは地面へ崩れ落ち、完全に沈黙した。


「やった……やったわ、テオ!」

「ああ、よくやった」

「さすがね! よくあいつの魔法がわかったわね? それに小さいやつも倒したの?」

「凄いよ、テオ兄さんは! 華麗に子分を倒しちゃうんだもん」

「へえ〜見たかったわ~」

「やめろよ、気恥ずかしい」


 テオは照れたように頬を掻いた。


「よし、この騒ぎを聞きつけて他の魔物が来ても面倒だ。移動しよう」


 三人は渓谷へ向けて歩き出す。






「うわっ!? すごい渓谷……なんで密林の先にこんなものが……」


(ライリーの驚きに、ハンナも大きく目を見張る)


「やっぱり、もう地図は役に立たないんじゃ……」

「そんなことはない。地獄が異常なだけだ。自分を信じろ」

「テオ兄さん……」

「そうよ。ライリーがいなきゃ、ここまで来られなかったわ。この先はアドリブで行きましょ」

「いい案だ。地図を書き直しながら進もう」


 高台を見つけ、ライリーは渓谷全体を慎重に観察しながら地図を引き直していく。


「ここから先はさらに厳しくなるけど……」

「承知の上よ!」

「青い谷が近付いている証拠だと思いたいな」


 切り立った岩壁の上を、三人は慎重に進む。

 足を滑らせれば即落下死――そんな道の途中、不自然な穴が現れた。


「なんだ……この穴」

「危険そう?」

「魔物の巣穴とかかも……」

「無視して進むか? だが、正直休めそうだからありがたいが」

「……僕も、さすがに気を張りすぎて疲れたよ」


 魔族であるハンナは体力が多くケロッとしているが、人族であるテオとライリーは少しぐったりしている。落ちたら即死の精神的影響もありそうだ。


「私は大丈夫だけど……人族にとってはかなり疲れるのかもね。ここらで休みましょう」


 洞窟の中には、生き物の気配はなかった。

 ただ、どこか“留守にしているだけ”のような、妙な静けさがあった。


「警戒しつつ、休むぞ」


 テオの言葉に各々落ち着ける体勢を取るのだった。






 焚き火の明かりに照らされ、ようやく三人の呼吸が落ち着く。


「ふぅ……やっと落ち着いたわね。ライリー、地図ずっと描きっぱなしだったんでしょ? 少し休んだ方がいいんじゃない?」

「……うん。ちょっと眠いかも」

「眠れ。交代で見張る。こんな場所で無理しても意味がない」

「……ありがとう、テオ兄さん」


 ライリーは壁に寄りかかり、すぐ寝息を立てた。


「やっぱり疲れてたのね。すぐ寝ちゃった」


 ライリーはまだ子供だ。体力もまだまだなのだろう。


「だがそれで言うなら箱入り娘のお前も、疲れてるだろ?」

「私は、ほら、魔族だし。それに、冒険を夢見て結構身体鍛えてたから」

「なるほどな」


 適当な雑談で時間が流れる。


 焚き火の炎が小さくなり、洞窟により深く影が落ちる。


「……変ね。外、すごく静か」

「静かすぎる、だな。ここは魔物の巣穴ではないのか……?」

「来るなら来なさいよ……って気にもなるけど」


 そのとき、テオがハッと顔を上げた。


「……ライリーは?」

「え? そこに――」


 振り返る。

 ――いない。


「いない!? なんで……!」

「起きたのに気づかなかった……?」

「あり得ないわ。私、寝てなんて――」

「……聞こえる。外で何か動いてる音だ」

「あの子、外に出たっていうの……?」


 二人は洞窟を飛び出した。青く薄暗い外気が肌を刺す。


「足跡がある。あいつ、この絶壁を一人で伝って行ったのか――」


 そこまで続いていた足跡が、急に途切れた。


「……ここで途切れてる?」

「いきなり痕跡が消えるなんて……そんなことあるか?」

「ライリー!?」


 呼べども返事はない。反響するハンナの声と、それ以外は沈黙だ。


 崖際を進むと、視界が開けた広い岩場へ出た。


「……あっ、ライリー!」


 ハンナが駆け寄ろうとした瞬間――


「おい、ハンナ!」


 テオが彼女のフードを引き、強引に後ろへと引き倒した。


 直後、ライリーの回し蹴りが空を裂く。


「えっ!? ら、ライリー!? どうして?」


 振り向いたライリーの顔は、笑顔を貼り付けたような不気味な表情だった。


「ちょっ……! なにこれ!?」


「なんだ!?」


 ライリーは目を見開き、狂人のように二人へ襲いかかる。


「ライリー、やめて! 私たちがわからないの!?」

「明らかに様子がおかしい……何かに取り憑かれてるのかも……」

「っ!? そういう魔法の魔物?」

「おそらく……」


 襲ってくる“友”に手出しができず、二人は崖の方へじりじりと追い詰められていく。


「一旦拘束するしかない。お前の魔法でライリーを捕まえられるか?」

「ええ、やってみる!」


 ハンナは楔を放つ――が、


「!? またさっきのやつみたいな魔法!?」


 楔はライリーをすり抜けた。


 テオが足元を撃ち抜くが、弾丸も同じだ。


「厄介だな……こいつ、正体もわからなければ魔法の特性もわからない……」

「テオでもわからないの……!?」

「見たことも聞いたこともない……誰も来たことのない青い谷に近づいた証拠なんだろうが……厄介すぎる……!」


 ライリーの影が、笑顔のままゆらりと揺らいだ。



 テオとハンナは攻撃の通じないライリーに追い詰められていた。


「どうするのよこれ……! 攻撃が全部すり抜けるなんて……!」

「……妙だ」


 テオは後退しながら一瞬だけ周囲の音に意識を向けた。風の音、樹葉の揺れる音、偽ライリーの足音。そして――。


「ハンナ、こいつ……“音がない”」

「音がない?」

「足音はあるけど、呼吸音がしない。心臓の鼓動もだ。つまりこれは――魔法で作られた影だ」


 テオが銃口を地面に向け、乾いた音とともに土埃が舞う。


「ハンナ! 洞窟の奥から“本物のライリーの声”がした!」

「えっ!? でも姿がないのに声だけって――」

「だからこそ囮だ! 本命は洞窟の奥に囚われてる!」


 偽ライリーが二人に飛びかかる。


「伏せろっ!」


 テオが引き金を引くと、銃声によって生まれた衝撃波の風圧が偽ライリーを掻き消し、煙のように消散した。


「あれで消えるの!?」

「ただの幻影だ。攻撃力もない。ただの足止めだ」

「……ライリーが危ない!」


 ハンナは全身の筋肉を収縮させ、一気に洞窟へ全力疾走する。テオも続いた。

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