赦すわ
埃の染みついた薄暗い廊下の中で、ワンピースの白だけが鮮明に光って見える。
「希子さん。どうしてダビドにつらくあたるんだ。言う事を聞いてくれる男なんて周囲にいくらでもいただろ。なぜダビドに当たり散らすんだ⁉︎」
「あら、赤ちゃんのパパは誰でもいいわけじゃないのよ? ダビドこそ、わたしにふさわしい人なんだから!」
振り向くと、肩越しに黒髪が翻った。希子さんは背中の後ろで手を組み、頬を紅潮させて、もじもじと恥じらいながら切り出す。
「ダビドって……ちょっと悪くてかっこいいじゃない? ほかの人にはぶっきらぼうでも、わたしと赤ちゃんには優しいダーリンなのよ。わたしが『こうだったらいいわ』って思ったこと、すぐにやってくれるの。おねだりもプレゼントも赤ちゃん作りも全部全部! 世界で一番優しいのは、わたしのダビド!」
彼女は大きな瞳を愛おしそうに細めた。恥じらいに頬を染めつつも、純情少女らしくうっとりとしている。
そして、胸の前で手を組み優しく微笑んだ。
「銀色の髪に綺麗なおめめ! ジョン・ミルナーみたいに男らしくてたくましくて、肩幅も広くて背も高くて、何を着てもかっこいいわ!」
映画の登場人物を引き合いに出して語った。
確かに、彼は絵的には目を引く。だが見た目に反して中身は驚くほど単純で、思慮が浅く、素朴さと野蛮さが紙一重だ。
「それに……ダビドがわたしを見つめる目、ロマンティックな海色なの。あの青、わたしの赤ちゃんのおめめに欲しいわ。産まれてくるのが楽しみ!」
もはや唖然として声も出ない。
羞明をもたらす淡い碧眼。それはダビドが島の異物である証で、複雑な出自や疎外感とも結びついていた。けれどその瞳は、希子さんにとっては可愛い赤ちゃんを作るためのカスタムパーツなのだ。生きている人間を遺伝子カタログの商品のように扱っている。
だんだん希子さんの声が上擦っていく。
「それに彼は、わたしと同じ夢を持ってたんだから。運命の王子さまが、わたしをママにしてくれて、一緒にあたたかなおうちを作ってくれるの! 赤毛のアンとか、若草物語みたいによ!」
陶酔した語りに、言葉では表現しえない生理的な嫌悪感がよぎった。
語られているのは、恋に夢中になった小学生の甘美な幻想。打算や悪意はない。けれど同時に、現実感も倫理観もない。
ふと、わたつみの地下病棟に置いてあったドールハウスとお人形を思い出した。この廃教会はまさにドールハウスであり、ぼくとダビドは希子さんが所有するお人形だ。ここに生身の人間は必要ない。ダビドは恋人・父親・王子様の役を与えられ、ぼくは親友・賢者様の役を与えられて、希子さんが主役のおままごとをさせられている。
しかしダビドは現実を生きる人間だ。小学生の空想に沿い続けることはできない。そんな時希子さんは激怒し、泣き、脅し、暴力をふるい、あらゆる手段で彼を傷だらけの中学生から王子様に引き戻そうとする。お人形に意思があって勝手に動きはじめるなど、異常事態だから。
「初恋の人と毎日一緒に暮らせて本当に幸せよ。女の子に生まれて本当によかったわ」
ぼくはようやく、気力を振り絞って口を開いた。
「……きみは、ダビドについて何もわかろうとしていないじゃないか。ダビドが頭の中でどんな風に考えて、何に悩んで、何に苦しんでいるのか、少しでも考えたことはあるのか?」
「知っているわよ。硝子島の皆がダビドを虐めて苦しめてきたんでしょう? ひどいわよね!」
彼女は義憤の調子で口を尖らせ、それから猫に似た大きな瞳を無邪気に輝かせた。
「だから、わたしの愛で優しく癒してあげたのよ。彼、わたしといる時だけは癒される、わたしを愛してるって言ってたわ!」
メロドラマの台詞を読み上げているかのようだ。惚気話が延々と続くばかりで全く会話が成立しない。ぼくだって、邪神に人間の言葉が届くとでも思っていたのだろうか。
すると彼女はぼくを見上げ、小首を傾げて可憐に微笑んだ。
「あなたは、ダビドにそう言われたことはあるかしら?」
無邪気な問いかけが、痛烈な勝利宣言のように響いた。勝ち負けの問題ではないのに、どうしようもなく悔しかった。癒しどころか、体育倉庫の一件の後では、ぼくたちの間に友情があったのかどうかすら分からない。
彼女は確信している。ダビドは、自分を心配する両親や幼馴染より、自分に癇癪をぶつける希子さんを選ぶ。だからこそ、ぼくは立ちすくむしかできない。
すると希子さんは冷たく囁く。
「ダビドだけじゃないわ。誰も、あなたのことなんていらないのよ。無能な人殺し」
「……そ、れは……」
心臓に短剣を突き刺されたかのように、一瞬にして呼吸ができなくなった。毎日心の奥で響いていた自責の声を正確に突きつけられ、痛いほどに胸が締め付けられる。ただの悪戯だと理解しているはずなのに、彼女の言葉が本物の傷を抉って、無視できなかった。
目の前がぐにゃりと歪む。父さん、母さん、旭くん、ダビド、美保さん……あらゆる人々の顔が脳内をよぎる。自分が傷つけてきた、あるいは傷つけてしまったかもしれない人々の顔。復讐の失敗や家族との陰惨な関係を思い出さざるをえない。
細く白い指が、長い髪の毛を弄んでくるくる回る。絹糸のように滑らかな黒髪。
すると嘲るように歪んでいた口元が、次の瞬間には天真爛漫で愛らしい笑みに変わった。
「いやね、からかっただけよ! 怒らないでね。わたし、あなたのこと大好きなんだから!」
華奢な体が抱きついてきて、甘えるように頬を擦り寄せてきた。ふわりとやわらかく広がる蓮の香り。
まるで獲物を仕留めた直後に喉を鳴らしてすり寄ってくる猫。遊びのつもりで、本当に何の意味もなく他人を傷つけて、その自覚もない。
目の前の子供を振り払えばいいと分かっているのに体が動かない。体ではなく心が完全に縛り付けられているからだ。自分がどんな表情をしているのさえかもわからなかった。
ぼくは気づいている。目の前にいるのは子を
なのに。なのにどうしてぼくは、こんな状態になってもなお、希子さんの抱擁に安らぎを見出してしまうのか。世界中のどこよりも、ずっと。
冷えた廊下に、甘やかな声だけが響いた。
「この世界で谷崎真理はよそ者よ。何の役にも立たない、誰も理解できない、人間の死体が大好きな一人ぼっちの男の子」
金色の瞳が上目遣いで見上げてきた。
「でも、わたしはあなたのこと赦すわ。そのままのあなたが好きよ。わたしの特別な親友は世界でただ一人、あなただけ」
冷えた頬を、一筋の雫が伝っていく。
希子さんは確かに世界を破壊する邪神かもしれない。けれど、こんな世界など壊れてしまえばいいと最初に望んだのは、彼女ではなく、ぼく自身のほうだ。
愛しい子供のために倫理観を融かした。献身と激情によって大量殺人に手を染めた。堕落の果てに辿り着いた真実は、心の底に秘めていた欲望と、自分は異常者であるという確信だった。
幼少期から異常な躾を受けて遺体を解剖していたこと。わたつみ放火で大量殺人を行ったこと。同級生を精神崩壊に導いてしまったこと。妊娠した小学生を廃墟に匿っていること。
世間が美しいというものをおぞましく感じること。
世間がおぞましいというものを美しく感じること。
生命の営みに価値を感じていないこと。
生者への性愛を拒み、死体への性愛を抱くこと。
死体と交わりたいこと。
ぼくの『心の底の欲望』は人倫の道から完全に外れているし、理性によって正当化も救済もされえない。自分の望みが一生誰にも理解されないことなどわかっていた。理解されてはいけないとも。
それでも、希子さんは……希子さんだけは。世界に存在してはいけないおぞましい欲望を拾い上げ、同じ世界を生きる友達として抱きしめてくれた。
ここからいなくなりたい。
かえりたい。
希子さんの子宮に還りたい。
涙がとめどなくあふれ出して止まらなかった。痩せた顎に溜まった水滴が膨らんではぽたぽたと床に落ちていく。冷たい廊下の中、熱く頬を伝う涙だけが確かな感情として立ち上がる。
「わたしたち、似た者同士の大親友だもの。わたしが赤ちゃんを産む時は、あなたも手伝ってくれるものね」
小さな手が、ぼくの背中を優しく撫でている。それから少女はぼくを見上げ、ほのかな笑いを浮かべた。
「ね、真理。今度来る時は、赤ちゃんに『おもちゃ』を持ってきてね。普通では見られない、綺麗なおもちゃがいいわ!」
「……おもちゃ……」
力ない呟きが漏れた。彼女の台詞が何を示すのか、完全に理解している。
すると彼女はぱっと身を翻し、屈託なく微笑む。
「それじゃ真理、また遊びに来て頂戴ね!」
立ちすくむぼくにひらひらと手を振り、希子さんは廊下の向こうへ歩いて行った。白いワンピースを隠すように長い黒髪がなびく。頼りないくらい小さな背中が見えなくなり、ぼくはひとり、廊下へ残された。
教会のステンドグラスから漏れる光が、埃っぽい空気を照らし出している。薄暗くあたたかい羊水の中。
ふと、窓ガラスに映った自分の横顔へと視線を向ける。
口元が綻んでいた。
🌊🪷🔥🕯️
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