誠意
気がつけば風が止んでいた。森の草木のざわめきでさえ、全能の女神を迎えるために跪き沈黙しているかのようだ。
荒廃した神殿の中で、希子さんは恨みがましい口調で呟く。
「ないしょ話をしているの?」
「希子……、一度だけ、一緒に、おれの家に帰ろう……必ず教会に戻ってくるから……」
「ここがあなたの家よ。何を言っているの? わたしのお腹には赤ちゃんがいるのよ。あなたはパパなのよ!」
希子さんは眦を決し、ぼくたちを睨みつけていた。瞳はぎらぎらと金色に光り、神か悪魔かを思わせる。
ダビドは罪を咎められた子供のように顔を青ざめさせて、完全に息を止めていた。
「希子さん。ぼくたちはただ、きみを心配しているだけだ。きみはまだ子供だろう? しかも妊娠しているんだから、廃墟じゃなく安全な住居で……」
「お黙んなさい! わたしは、ダビドと話しているのよ」
ぴしゃりと返された。
口を開いたところで、何と言えば説き伏せられるのかわからない。彼女は自分の思い描く世界にそぐわない要素を拒絶するので話し合いが成立しないのだ。
彼女はお腹を撫でながら低い声で詰る。
「お腹の赤ちゃんが、あなたの声を聞いたら嬉しそうに動いたわ。でも、さっきあなたがいなくなって、すごく寂しそうだった。自分の家族に悲しい思いをさせて……かわいそう」
小さな掌が自分のお腹を撫でる。母性の象徴の仕草なのに、どこかおぞましかった。
そして彼女は一瞬冷静に、ダビドを睨め付けた。『自分の家族に悲しい思いをさせてかわいそう』。これが相手に一番効く脅しだとわかっていて、どれだけ言うことを聞くかを観察しているのだ。
ダビドは、愛する恋人の機嫌を損ねてしまったと動揺して呼吸が浅くなっていた。
「いや、おれはただ……少し、家に帰りたくて……」
「希子、いいわけは嫌いよ!」
少しの沈黙を挟んでから、希子さんは恋人をじっと睨みつけた。
「ママは大変なのよ。わたしは大切な赤ちゃんを守っているのに、あなたは自分のことしか考えていないのね」
動揺も沈黙も罪悪感も全てお見通しとでもいうように、希子さんの瞳が細められる。
「自分の赤ちゃんを不幸にしたいの? ひどいパパ!」
ダビドは冷や汗を垂れ流しながら俯き、黙りこくっていた。『あたたかな家族』は彼の夢。身重の恋人と我が子を見捨てるなど絶対にしたくない。だからこそ、希子さんは的確に急所を突く。
すると、これまで恨みがましく細められていた瞳が、カッと見開かれた。
「あなたが育てないと、赤ちゃんは幸せになれないのよ! あなたがいなくなるなら、お腹の赤ちゃんと一緒に死ぬわ!」
「ま、待ってくれ!」
ダビドは顔色を変えて必死に叫ぶ。
「ごめんなさい。おれがバカだった。ごめんなさい。希子と赤ちゃんにはおれしかいないのに、だめだった……本当にごめんなさい。おれは、希子を愛してる……」
「ダビド、取り合うな! 思う壺だ」
肩を掴もうとするが、太い腕で乱雑に払い除けられた。勢いに思わずよろめく。巧みに言葉をあやつる邪神と違って、上手に話せない自分に苛立った。
ぼくは谷崎雄真による頭のおかしな躾を受け、まともな議論が成立しない世界で育ってきた。だからこういう破綻した言い分には慣れている。希子さんは本気で死ぬ気などさらさらないどころか、恐怖も不安も孤独すらも感じてはいないだろう。あるのはただ、神の意図を外れて勝手に行動した人間を屈服させ圧壊させるための重力。
けれどダビドはそれを見抜けないのだ。弱みをつかれて動揺し、完全に感情の波に乗せられ、相手のペースに操られている。
案の定、希子さんは癇癪を隠しもせずに低く抑えた声を出す。
「誠意を見せなさいよ」
「えっ……?」
ダビドは困惑の表情だ。すぐに言葉が出ないのをいいことに、希子さんはさらに畳み掛けた。
「誠意を! 見せなさいよ!」
今度は甲高く突き放すような金切り声。
愛の試練を前にして、ダビドはどうすればいいか分からず焦っているようだった。具体的な行動を指示せずただ誠意をと言うから、何をすれば怒りが収まって許されるのかを、必死に考えるしかない。
結果、ダビドはあっさりと屈服した。肩をわずかに震わせながら、床に平伏して跪く姿勢を保っている。
「あ、愛してる……」
「声が小さいわ」
「愛してる!」
「もっと強く床に額をつけて」
「愛してる!」
赤の女王のような冷徹な命令。華奢なつま先が、大柄で筋肉質な背中を蹴り飛ばした。先程止血したばかりのガーゼタオルが外れ、額の血が床に滲んで広がるが、拭うことすら許されない。
何よりも愛が彼を突き動かす。無私の献身と純愛が、目に見えぬ鎖となって彼の肉体を縛り付けている。どんな暴力を振るわれて暴言を吐かれても、ダビドはうずくまったまま謝罪と愛の言葉を繰り返していた。彼にとってはそれしか手段がないのだ。彼がどれだけ精神をすり減らされ、思考を奪われてきたのかがわかる。だからこそ逃げろと言いたくなるが、現実に簡単に逃げられるわけがないとも知っている。ぼくは十五年間ずっと抜け出せなかった側の人間だから。
幼少期から染み付いた恐怖が、ぼくの体を縛りつけている。雄真の前に跪く理江の姿が脳裏に過ぎる。息が苦しい。おとうさんがこわい。胃がきしみ、足が地面に張り付いたかのようだ。
可愛らしいバレエシューズがダビドの背中を一際強く蹴り飛ばした。
「誠意が足りないわよ!」
「ごめんなさい。もうしません、ごめんなさい、親も学校もいりません。ごめんなさい。希子と赤ちゃんがおれの全部です……おれは、希子のものです……」
平伏したまま誓うさまが哀れだった。
ダビドは『自分の意思で謝罪した』『愛する女性に自分から忠誠を誓った』と錯覚している。
実際は、理不尽な要求で思考回路を書き換えられているだけなのに。
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