悪い女でごめんなさいね
晩秋の島は静かだった。灯台がゆっくり回転しながら点滅を繰り返して、島全体が巨大な巣の入り口になったかのようだ。
港から一本入ったところにあるアパート、表札は『都都宮』。珍しい苗字だからこの家で間違いないだろう。玄関口で呼びかけても家は真っ暗だった。
玄関口に立ったまま、旭くんを見下ろす。
「お家の人はいるかな。弓子さんはいつ帰るの?」
「もうすぐ帰るよ。真理おにいちゃん、お部屋まで来る?」
「……そうだね。お邪魔します」
ワンルームに足を踏み入れる。鄙びた古紙とムスクが混ざった形容し難い匂いが充満していた。
まず目を引くのは、家中にびっしりと置かれた段ボール箱だった。中には家具や服が詰め込まれており、荷解きか引越しの準備が行われているのだろう。ただ、段ボール箱の中身は女性物ばかりで、旭くんの衣類はなかった。
部屋の隅にはキャラクターもののトレーナーが脱ぎ捨てられており、壊れたおもちゃがぽつんと転がっていた。丁寧に拾い上げて、茶卓に戻す。
母親の私物は綺麗に片付いているのに、子どもの私物は乱雑に散らかっている。この光景が何を示すのか、薄らと察してしまう。
隣室からも窓の外からも音がしなかった。旭くんが手洗いを終えるのを待っていたら、背後から扉が開く音がした。
ゆっくりと振り向くと、戸口には、狭苦しいアパートに似合わぬ妖艶な美女――都都宮弓子が立っていた。艶やかな黒髪をシニヨンヘアにまとめ、ベージュのコートを身にまとっている。
「弓子さん、こんばんは。お邪魔しています。旭くんを送りに来ました」
「あら、坊ちゃん。旭を連れて帰ってきたのね。放っておいてもよかったのに」
弓子さんは目を細めて微笑む。上唇がめくれあがってピンク色の歯茎が露出し、不気味だ。
「帰る前に……わたつみで何が起こっていたのか、教えてくれませんか。寄生虫だろ?」
はったりだ。背筋に冷たい汗が這う。
弓子さんはぼくの表情などお構いなしで嘆息する。
「……脅しのつもりかしら? 正しい認識を教えてあげる」
言葉こそ理路整然としているが、表情には異様な熱がある。瞳の奥には狂気の光がちらついていた。
「座りなさい。お茶でも飲みましょう? 坊ちゃんの好きなコーヒーは、ないのよ」
低く甘美な声で勧められれるまま、ワンルームの中心にぽつんと置かれた椅子に腰掛ける。ビニール製の背もたれに背中が食い込んだ。
「わたつみは研究機関だったんですか?」
「そうね。正確に言うと、わたつみは、ある研究機関の下部組織よ。内部での通称は『大地の財団』。正確な名前は私も知らないの」
初めて聞く名前だが、妙に納得がいった。歴史上、多産・肥沃、豊穣をもたらす女神を『地母神』と形容する例は珍しくない。
不意に、机に何かが置かれる音がした。緑茶の注がれた湯呑みが目の前で湯気を立てていた。顔を上げれば、弓子さんは真っ赤な唇で笑みを作っている。
「十年前。谷崎雄真に、女王蜂と、今後共同研究企業から譲渡予定の胎児――希子様の生体データを渡したの。そしたら彼、すぐに連絡を取ってきて、研究に参加してくれたわ。十年前の彼、熱くって。『女王蜂を研究し、人類を進化させ、次世代の子どもたちに未来を与える』という理念に共感してくれたの」
視界が狭まる。周囲の音が遠のいて、時計の音すら聞こえなくなった。
父と弓子さんは、ただの不倫相手ではなかったのか?
「ぼくの父は……あなたに計画に引き込まれて……寄生虫研究に参加したんですか?」
「そうね。雄真は女王蜂研究の価値を見抜くあたり、優秀な人間ではあった。愚かな男だったけれど」
語られた台詞の意味を理解したくなかった。
「そして谷崎雄真は、人間の行動と肉体を変容させる寄生虫の研究機関として『わたつみ』を建設した。死にゆく人間たちに人体実験を行って人間の生理メカニズムを解析し、本命である女王蜂研究の糧にしていたそうよ」
赤い唇に浮かぶ、悪辣な笑み。
「希子さんは父親が詐病で入院させたと聞きました」
「名古屋でのトラブルは上にも想定外だったわ。集団自殺事件で注目を浴びたせいで、希子様は私たちの想定より早くわたつみ管理となった」
弓子さんは悪びれるそぶりもなく続けた。
「肉体的にはただの小学生だった希子様は、わたつみ移管後『女王蜂』と呼ばれる寄生虫を心臓に移植された。私を含め、わたつみの幹部職員は医療系の上部機関から派遣されたの。生体適応の研究部門だと言われていたわ。私が担当していたのは、希子様の生理反応の観察」
そして彼女は、部屋の隅にあった箱から分厚いファイルを取り出し、ぼくの前に広げた。
『女王蜂及び
視線が文字に吸い寄せられる。
『女王蜂及び宿主は、現在G島郡に所在する地下収容施設に収容されている。収容施設には児童用のものに準じる家具、玩具、絵本を装備』
『宿主には女王蜂移植前より、接触した人間への同情・庇護欲求・自己犠牲的行動の誘発といった生来の洗脳能力が複数例確認されている。職員の言語的指示・叱責・隔離などの介入では軽減が見られなかった。よって、接触する職員は一定以上の接触を持つことを厳禁とし、週次心理検査を義務づける。職員に認知の歪曲や過剰な保護欲求が観察された場合、即時勤務停止とカウンセリングを実施する』
『宿主の洗脳作用は職員のみならず女王蜂にも影響。宿主の肉体にネオテニー的妊孕性の向上をもたらした(付記③参照)。』
無言で手引きに目を通していた。伯父や弓子さんの思想のどこまでが事実でどこからが思い込みなのか判断がつかなかった。ただ、目の前の手引きに書かれている観察記録だけは、嘘のつけない種類の現実だと感じる。
弓子さんは何気ない調子で緑茶を淹れていた。茶葉のかぐわしい香りがする。
「希子様の肉体は、偶然の産物ではなく必然の奇跡。希子様こそが人類の進化を導く女神様……。少なくとも、財団上部はそう信じていた」
「なぜ?」
「だって、元は寄生虫が宿主の子どもを操り行動原理を変容させるはずだったのよ。なのに、希子様の生まれつきのカリスマが、寄生虫を完全に支配下において、女王蜂を単なる妊娠促進剤に変えてしまった」
弓子さんは絶え間なく捲し立てている。先ほどまでの無感動な理屈が一気に人智を超えた魔性への崇拝へと飛躍した。幼女のわがままを、人類進化の最終到達地点だと本気で信じて恍惚としているのだ。激烈にして破滅的。
呆然として声も出ない。最も憎むべき巨悪だったはずの雄真は――まだ胎児だった希子さんに触れた結果、狂ってしまっただけの人間だった。ただのエコー写真に、人類の未来という理想が投影され、一人の人間の認知も倫理も価値体系も全部ゆっくり塗り替わっていった。人生観の根元があっさりとへし折られ、どんな感情を向ければいいのか。
憎んだ雄真も、信じたダビドも、目の前の弓子も、そして彼女の肉体に植え付けられた蟲すらもが――愛した少女に跪く。
希子さんは、まさに、天性の女王蜂。
「……そんなに大事な被験体なら、なぜ失踪した希子さんを取り戻そうとしないんですか?」
「そうね。宿主の生理状態は客観的に追跡不能。けれど責任者の谷崎雄真が死亡したでしょ? 誰が責任をとるかを恐れて、組織内では積極的な捜索が止まっているの」
弓子さんは、赤いリップを塗った口を歪めて微笑んだ。変わらず妖美な調子で、
「けれど、私はそれでいいと思う。希子様を地下に閉じ込めておくなんて勿体無いもの」
「それでいい、とは?」
「希子様の生まれついての夢は『可愛いママ』。女王蜂はその夢を忠実に叶えるためだけに、彼女の肉体を変容させた。これから、たくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさん幼虫を産んで繁殖していただきたいわ」
返事に詰まる。反論が組み立てられない。
「希子様が結婚飛行を始めたら、彼女の幼虫はどれだけのスピードで殖えていくのかしら?」
秘めごとを知れば知るほど自分の役割が虚無化していく。不気味な事実を知ってしまったところで、どうしたらいいのかわからない。警察に訴えたところで機能していない。公に暴露したところで、財閥の圧力がかかる可能性がある。遺族に伝えてもこんな荒唐無稽な話をどこまで受け入れてもらえるか不明。そもそもぼくは、密かに行われていた実験計画の全貌を知らない。ぼくが今考えている『正しさ』など、どこまで意味があるのだろう?
それでも、旭くんの存在が事実を重くする。壊れた玩具を振って気を紛らわせようとする旭くん。プラスチックの剣が半分欠けて、振るたびに虚しい音だけがする。
弓子さんは椅子の上で長い足を組み、幼い息子を見下ろしていた。
彼女は倦怠な口調で、
「旭はね。谷崎雄真と法的な繋がりを作るために産んだ子よ。彼が死んだ今となっては用無し、寄生虫の宿主としてもうまく適合しなくて、本当に無価値……」
マスカラに彩られた視線は、我が子を観察しているようでいて、内面を一切見ていない。
「希子様は母になりたいと仰るけど、子どもなんて手間がかかるだけよね。旭が生まれてみればわかるかも、希子様のお考えに近づけるかもと思ったけれど、やっぱり理解不能だったわ」
「弓子さん。あなたは間違っています」
「そう。悪い女でごめんなさいね。けれど、私を糾弾するあなたがちっとも幸せそうに見えないのは、どうして?」
ゆったりとしたリズムで告げられた。狂気とはこれほど静かに、艶やかに語られるものなのか。
弓子さんは湯呑みに口をつけ、緑茶を一口啜った。
「谷崎雄真はつまらない男だったけれど、あなたは間違いなく雄真よりも優秀よ。私と同じように、必要な素質を持っている」
「それは?」
「信仰」
無慈悲で無感動な宣告に、ぼくの頬の筋肉がわずかに引きつった。何と返せば良い?
無性に喉が渇いていた。震える手で湯呑みをあおると、舌に緑茶の苦味が染み込んでくる。
「もう……帰ります」
もともと卵だけ買って帰るつもりだったのだ。家で母を待たせている。それ以上に、もうこの部屋にいたくなかった。
弓子さんは引き留めてこなかった。足早にワンルームを出ようとすると、旭くんが駆け寄ってきて袖を引っ張られた。
「……真理おにいちゃん」
「どうしたの」
彼の顔を覗き込むと、潤んだ瞳に光が反射している。目線が震えていた。
「……おにいちゃん、とても寒いでしょう。しゃがんで」
言われるまましゃがんだ。
すると、旭くんは自分のマフラーをほどき、ぼくの首にかけた。稚拙で不器用な結び方だった。
毛糸のマフラーのふわりとした優しい感触が頬に触れる。旭くんの人肌の温もりがまだ残っていた。反対に自分の人生がどれほど冷たく異常なものであるかを実感してしまい、胸がきつく締め付けられてしまう。
「あげる。ほら、これでさむくないよ!」
旭くんの泣き腫らした顔になおも受かぶあどけない微笑み。理解できないことを理解したふりもせず、ただ寒いでしょうと寄り添うだけ。傷つけられ、実験台にされ、捨てられかけて、それでも子どもが他者に示す純粋な慈愛。
ぼくはその場でうつむいてしまった。
本気で疲れきっていた。父を失った弟、ぼくを苛め続けた雄真、なおも解放されない理江、壊れてしまったダビド。どこまでいっても無力な自分。ぼくの行為や言葉はいつも徹底的に無意味だった。何かを守ったり壊したりするつもりで行動しても何も解決できないどころか、むしろ大罪を犯してしまい、償うことすらできない。自分の人生はもう終わっている。島は収容所、海は荒れていて、外の世界も味方ではない。
何も言えずにうずくまっていると、旭くんが不思議そうに声をかけてきた。
「おにいちゃん、どうしたの? 元気になって」
灯台の光が窓から差し込んで、二人の姿をゆっくり壁に這わせていく。醜い怪物が、小さな子どもに手を伸ばしているようにも見えた。
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