04.王都への道
倒れ伏した襲撃者の血が柔らかい土を染め、踏み荒らされた草の匂いが、湿った空気に広がっていた。
遠くで雷鳴の気配がかすかに響いた。雨の気配を孕んだ風が木々を揺らし、森はまるで戦いの余韻を呑み込むように静まり返る。
小鳥の声も消え、血の匂いだけが生々しく残っていた。
すべてが終わったあとで、景葵は白雅を問い質した。
「何故殺した? 相手はすでに戦意を喪失していた!」
だが、白雅は当然とばかりに鼻を鳴らす。
「甘いな。あいつらが韋煌国の人間だと、こっちが気づいた。それを知られるわけにはいかんだろう? 生かして帰してみろ。もし命じたのが紅煇(コウキ)王なら、どんな手を使ってでも我々を抹殺しにかかるだろうさ」
その言葉に景葵は眉根を寄せた。
「どういうことだ? 韋煌国とは現在、和平による停戦状態にあるはずだ。それが何故……」
白雅は軽く呆れた。夕陽に照らされた山々は一見おだやかだが、その谷には古い戦の名残が今も眠っている。
「本当にこのまま和平が続くと信じているのか? これだから桜花国の人間は……簡単な話だよ。炉橘(ロキツ)王は老齢だ。そのうえ、ただ一人の後継者である王太子がいなくなれば、指導者を失った桜花国は混乱する。その混乱に乗じて国を奪えば、韋煌国は労せずして神々に愛されし島を、すべて手に入れることになるんだからな」
「!」
山の稜線には夕陽が沈みかけ、国境を分ける谷間に長い影を落としていた。
桜花国と韋煌国を隔てる山々は美しいが、その裏には幾度も血が流れた歴史がある。
争い事を好まぬ桜花国の人間であるとはいえ、景葵は武人だ。白雅の言う未来は容易に思い描くことができた。
「……血は和平の証にはならん、ということか」
口にした瞬間、景葵はその言葉の重さにわずかに息を呑んだ。和平とは、紙に書かれた約束にすぎない──景葵はその現実を、改めて思い知らされたのだ。
「又従兄弟といえば、ほとんど他人も同然だ。特に会ったこともないような相手ならば、なおさらだな」
「ならば、僕はそう簡単に死ぬわけにはいかないな。神々の末裔の一人として、この桜花国を守る責務がある」
「そういうことだ……って灯李、起きていたのか」
思わず頷いてから白雅は驚いた。声は背負っていた灯李のもの。灯李は不機嫌そうに白雅に抗議した。
「あれだけ動き回れば起きるだろう、普通」
「まぁ、それもそうか。悪いことしたな……で、どこから聞いていたんだ?」
「景葵が最後の刺客に問いかけたところからだな。『貴様ら、どこの手の者だ?』と」
なるほど。ならば襲撃後の会話はすべて聞かれていたというわけだ。
「それで……感想は?」
「白雅の言う通りだな。この和平は続かない。僕は命を狙われ続け、桜花国は存亡の危機に晒される。だが、その前に僕のこの身体が保つかどうか……」
「殿下、そのようなことは……」
暗く沈む灯李の様子に、白雅は困ってしまった。病のことで灯李を落ち込ませるつもりはなかったのに。
どうにかしてやりたいのは白雅とて山々なのだが、灯李の病は治す手立てがまだ見つかっていない代物なのだ。対症療法を続けるか──奇跡でも起きない限り、治ることはない。
奇跡。そうだ、奇跡なら──そこまで考えて、白雅は天啓のように閃いた。突拍子もない方法ではあるが、灯李自身や景葵には無理でも流れ者の自分にならできることがあるではないか。
「なぁ、そのことなんだが……灯李は竜神の伝説を知っているか?」
突然の問いかけに灯李は目を丸くした。
「なんだ、藪から棒に。桜花国の建国神話だろう?」
「あぁ。天候を自在に操るという竜神だが、実は外の国ではこの神話の分析が行われていてな。この島が年中気候に恵まれ、花々が絶えない理由は、竜神が実在するためだ、と言われている」
白雅がなにを言わんとしているのかさっぱりわからないが、灯李は黙って話に耳を傾けた。
「竜神が実在するなら、竜珠もあるはずだ。竜珠は願いを叶える宝。私はそれを確かめたくて旅をしてきた。秘境もほぼ踏破した。残るは霊王山だけだ」
「……まさか、神代以降は人跡未踏ともいわれる魔峰・霊王山か!?」
「その通り。今回の旅の目的地は、まさにそこでね。どれだけかかろうが踏破してみせるつもりではいたのだが、この分では前倒しになりそうだな」
相変わらず白雅の話の意図は読めない。だが、景葵にはひとつ気づいたことがあった。
「お前、この仕事が終わったら霊王山に向かうつもりか?」
「あぁ。今決めた。そうするつもりだ」
その言葉に、灯李は頭の中が真っ白になった。霊王山に分け入った者が生還したという話は未だかつて聞いたことがない。かの山が魔峰と呼ばれる所以である。白雅は父と景葵以外で、初めて灯李を拒まなかった存在なのに。
だからこそ、また拒まれるのが怖かった。
「どうして……いや、駄目だ、白雅。お前は僕の傍にいろ。これから先もずっと僕が雇う。それでは駄目なのか?」
灯李の声とともに、山を渡る風がひゅうと鳴いた。夕暮れの冷たい光が、細い肩を淡く照らす。不安を隠しきれない瞳に、白雅は一瞬だけ言葉を失った。
灯李の声は、かすかに震えていた。それを自分で抑えようとしているのが、白雅にもわかった。
白雅はついつい笑ってしまう。灯李にずいぶんと気に入られているようだという自覚はあった。だが、これからも雇い続けるから傍にいろ、と言わしめるほどだとは思わなかった。
人に触れられた記憶すら、ろくに思い出せない。白雅にとって『必要とされる』という感覚は、あまりに遠いものだった。
忌み嫌われる『白い子供』である自分が、これほど誰かに必要とされることなど、今までになかったことだ。それが白雅には嬉しかった。
「ありがとうな、灯李。だが、私は行くよ。行って竜神に会ってくる。叶えたい願いもできたことだしな」
「白雅の願いとはなんだ? 僕には叶えられないものなのか?」
縋るような灯李の言葉に、白雅はにっこりと笑って答えた。
「いいや。灯李と竜神だけが叶えられる願いだ。その願いを叶えるために、私は行くんだ」
「?」
「お前、まさか……」
ここにきて景葵がようやく気づいたかのように呻いた。白雅は悪戯っぽい笑みとともに唇の前に人差し指を立てる。
「幸い、韋煌国にはかつての旅仲間もいることだしな。帰ってきたら旅の土産話を山ほど聞かせてやる。だから待っていろ、灯李。私は必ず戻る」
「絶対、だな?」
「あぁ」
だが、約束する、とは言ってくれない白雅が腹立たしくて、灯李は白雅にしがみつく腕に力を込めた。どうせ大した力ではない。それに白雅はカラリと笑う。
「なんだ、ようやく子供らしくなったな、灯李。まぁ、そのほうがいいけど」
「白雅。お前、自分が子供扱いされると怒るくせに僕のことは堂々と子供扱いか?」
「なに? 十八はもう子供じゃない。酒だって飲める。灯李はまだせいぜい十前後だろう?」
その言葉に灯李はムッとした。
「僕は十二だ」
白雅は思わず言葉に詰まる。
「……それにしては小さいな」
「小さいって言うな!」
どうやら白雅と灯李には触れてはいけない言葉があるらしい、ということを景葵は学んだのだった。
*
ようやく麓の村に辿り着き、残してきた二人の侍女と合流した三人は、そのまま宿に一泊し、翌日の朝早くに桜花国の王都・玉蓮(ギョクレン)に向けて出発した。
朝靄の名残る街道には昨夜の露が光り、馬の歩みに合わせて草葉が静かに揺れていた。遠くには王都へ続く白い街道が帯のように伸び、山の稜線には薄紫の霞がかかっている。露でぬれた地面が朝日で乾きつつあった。
侍女たちは異様な風体をした白雅を怖がったが、ともに旅をするうちに少しずつ慣れていった。
「灯李って本当に王太子殿下だったんだな」
「なんだ、疑っていたのか?」
「いや、今更ながら実感しただけだ」
籠に揺られている灯李の傍を歩きながら、白雅は小さなため息をついた。
その横を、山から吹きおろす風が通り抜け、白雅の白い髪をさらりとかき乱した。道の両側には、まだ春の名残をとどめた桜の花びらが散り敷いている。
「自由がないって、ある意味気の毒だよなぁ……」
「失敬なヤツめ。身分を羨ましがられることこそあれど、気の毒がられたことなどないぞ」
「でも、実際王宮って息が詰まらないか? いや、生まれたときから王宮にいるのなら、そんなのわからないか」
白雅の言葉に、灯李は少しだけ考える素振りを見せた。
「確かにな。こうして湯治に出かけるようになってからは、王宮は窮屈だと思うこともある。だが、それだけの話だ」
「へぇ、そんなものなんだな」
感心するように呟いて、それから白雅は気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、景葵はいつから灯李の傍にいるんだ?」
「二年前からだな」
白雅は軽く驚いた。もう少し連綿と続く絆のようなものがありそうに思われたのだが。
「……意外に短いんだな。そのわりにはずいぶんと信頼しているように見える」
灯李は当然だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「初対面で僕に触れることを微塵もためらわなかったのは、景葵が初めてだったからな。だから僕付きの近衛隊長にした。それに景葵は僕に嘘をつかない」
「意外とわかりやすいヤツだよな」
そう言って笑う白雅に、灯李も笑顔を見せた。
「白雅もそう思うか?」
「あぁ」
満足そうに頷いて、灯李は言葉を続けた。
「景葵をそういう風に評する人間は、僕以外ではお前が初めてだ。お前たち、いい友人になれそうだな」
「そうかもな」
苦笑を浮かべる白雅を、灯李は眩しそうに見つめた。
「……僕とお前は、どうだろうな」
どこか寂しげな呟きに、白雅は朗らかに笑って籠の中の灯李を覗き込んだ。
「なにを言っているんだ。とっくに友達、だろう?」
灯李の顔に、明らかな喜色が浮かぶ。
「そうか」
「そうだよ」
しばらく行くと、山道は次第に幅を広げ、畑仕事をする人影がちらほらと見え始めた。王都が近い証だった。
道端の麦が風に揺れる音を聞きながら、殿(しんがり)を務める景葵はわずかに目を細めて二人のやりとりを見守っていた。
──この旅の終わりが、どうか穏やかなものでありますように
*
道中一泊した町の宿で、白雅は酒を飲みながらあれこれと景葵に質問していた。ちなみに景葵は王宮に帰還するまでが任務だと言って酒を断った。
「景葵は何故、王ではなく灯李に忠誠を誓っているんだ?」
白雅の疑問に答えようとして、景葵はふと記憶を探った。
「……救われたんだ。殿下に」
「救われた? 灯李に?」
目を丸くする白雅に、景葵はポツリポツリと昔話を始めた。
「あぁ、そうだ。俺はこんな性格でお前の言う通り特定の友人もいない。そのくせ腕っぷしだけは昔から強かった。あの頃はすべてがつまらなく思われて、王宮に武官としてあがったのも、ただ強さを求めてのことだ。忠誠心など欠片もなかった」
白雅は酒杯を傾けながら黙って景葵の話を聞いていた。景葵が、基本的に寡黙なくせに酒を飲まずとも語れるヤツだということだけはわかった。
「十五で仕官して、その頃、殿下が生まれた。それから五年ほどは何事もなく過ぎ、殿下が六歳のときのことだった」
王宮で開催された御前仕合で初めて勝者となった景葵に、まろぶような足取りで駆け寄ってきた幼子。なんのためらいもなく景葵に抱きつき、キラキラした瞳で見上げてくる。縋りつくような高い体温。一点の曇りもない純粋な尊敬の眼差し。そのとき初めて、ないと思っていた景葵の心が動いた。
それからは自然とその幼子の姿を目で追うようになった。まるで玻璃細工のように繊細で純粋で脆い子供。病魔に冒されていると知ったときは、自分でも驚くほどに衝撃を受けた。
「……それからだ。俺が殿下をお守りしたいと思うようになったのは」
「そっか。いい話の途中で悪いんだが、景葵」
「あぁ……いるな」
二人は灯李を狙う刺客たちの気配を鋭敏に捉えていた。
「お前、酒……」
「あんなもの、飲んだうちに入らない」
言うや否や、白雅は双剣を手に飛び出していってしまった。慌ててあとを追った景葵は見た。
結構な量の酒を飲んでいるというのに、そんなことは微塵も感じさせない白雅の動き。まるで舞うように美しいそれに、景葵は思わず見入ってしまう。その動きは、影が舞うように静かで鋭かったが、その一方で、どこか人のものではないようにも思えた。
「……よっと、こんなもんか」
わずかののち、白雅の足元には刺客たちがゴロゴロと転がっており、苦しげに呻いたり昏倒したりしていた。
「……殺さなかったのか」
「あぁ。町中で死人が出たら面倒だろう? だから殺してはいない。なにをボサッとしている、景葵。さっさと縛りあげよう」
「わかった」
景葵は急いで捕縛の用意を整え、全員を縛りあげる頃になって、ようやく灯李が事態に気づいて部屋から出てきた。
「灯李、無事だったか」
「……酒の匂いがする。白雅、お前、もしかして酔っているのか?」
「いやだな、こんなの飲んだうちに入らない。ってことで私は飲み直すから。あとはよろしく」
これにはさすがの景葵もすっかり呆れてしまった。
どうにも、この先の旅路は静かには収まりそうもない、と景葵はため息をついたのだった。
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