02.霧の山の邂逅
──そうして、竜神は眠りについた
世界がその息遣いを忘れ、人の世が静かに流れ始める。
やがて幾百年ののち。世界の極東には、海に囲まれた小さな島があった。一年を通じて穏やかな気候に恵まれ、四季の花が咲き乱れるその島は、かつて神に愛された聖地、『紫苑(シオン)の園』と呼ばれていた。
島には、季節ごとに色を変える薄紫の霞が漂い、朝夕には海から立ちのぼる風が花の香を運んでくるのだという。
山の稜線には常に柔らかな光が満ち、人々はそれを『神の残した恩寵』と語り継いできた。
誰もがその美しさを知りながら、霧深い山中へ踏み入る者は少ない。そこには古い伝承が眠り、時折、竜の気配さえ囁かれるのだ──。
紫苑の園にある二つの国──桜花(オウカ)国と韋煌(イコウ)国の境、霧深き山中に、ひとつの出会いがあった。
***
──その出会いは、偶然のようでいて、必然だった
桜花国の秘境、水明山。その山腹には湯治によいとされる温泉が湧いている。だが、あまりに僻地ゆえ、湯につかるのは人ではなく、猿ばかりだった。
そんな人よりも猿のほうが多い場所に、わずかな供を連れ、静かに向かう小さな籠があった。
「まだ着かないのか?」
籠の中から尋ねたのは十歳前後の、まだ幼いといっていい少年だった。籠の一番近くに付き添っていた武人らしき男が声をひそめて答える。
「もうしばらくのご辛抱を。なにぶん辺鄙な場所にあるもので……」
武人の年の頃は二十代後半で、この一行の護衛隊長である。無表情に切れ味の宿る面差しの男だった。
「下見は済ませてあるんだな?」
「はい」
「ならいい。すべてお前に任せる」
「御意」
少年は迷いなく武人に任せると言い、武人も短く応じた。二人の呼吸はよく揃っていた。
しばらくの間、一行は黙々と歩き通して、ようやく目的の場所に辿り着いた。
湯場は山肌にぽっかりと開いた窪地にあり、周囲の岩場からは常に白い湯気が立ちのぼっていた。湯気は風に揺れては溶け、また岩の隙間からふわりと生まれる。
湯の匂いはどこか甘く、山の木々の青い香りと混じり合って、鼻の奥をじんわりと温めた。
高い木々の梢では鳥が短く鳴き、その声が湯気の向こうに吸われていく。
人の手がほとんど入らぬ場所のはずなのに、どこか整った清らかさがあった。
侍女たちは麓の村に置いてきてしまったため、武人は慣れた手つきで少年の湯浴みの用意を整えた。そして湯浴み着に着替えた少年が湯に浸かる前に、湯の温度を手で確かめる。
「少しぬるめのようですが……」
「ん、そうか」
少年は身体を流して湯に浸かった。ぬるめの湯がじわじわと少年の身体を温めていく。
鳥の声と川音が交じり合い、静謐な空気があたりを包んでいた。
湯気の向こう、岩肌に触れる光はどこか淡く紫がかって見え、それがこの地が『神の残した領域』だと静かに告げているようだった。
「……静かだな」
やがて少年がポツリと呟いた。
「そうですね。山の空気は特に……」
武人が言葉を切った瞬間、山の空気がかすかに張り詰めた。鳥の声が途切れ、風が止む。湯気だけが静かに立ち上る。その異様な静けさの中で、武人の髪がわずかに逆立った。
木立の奥で影が動いた。矢が三本、山肌を裂く音を立てて飛ぶ。空気が裂ける音。次の瞬間、悲鳴があがった。
「殿下、おさがりを!」
怒号と同時に、武人は少年の前に立ち、迫る影を受け止めた。鋼がぶつかり合う音が、山の静けさを裂いた。刺客は次々に姿を現し、湯場を丸く囲んだ。
姿を現した刺客の数は二十人近く。湯場を中心に、岩場と木立に散らばるようにジリジリと包囲網を狭められていく。少年は唇を舐め、わずかに喉元へ手を当てた。
刺客の動きはよく統率が取れている。
「……殺れ」
低い号令とともに、四、五つの影が一斉に地を蹴った。武人は岸壁を背にして主の少年を守り奮戦した。しかし、動けない少年を守りながらの戦いでは、さすがに防戦一方となる。
武人の陰で少年が苦く呟いた。
「……これまでか」
「諦めてはなりません。今、なんとか活路を……!」
少年の呟きに武人が声を荒げかけたときだった。
「なんだぁ? やっと温泉に辿り着いたってのに、まさかの揉め事か?」
岩場の上から声が落ちた。その場にいた全員が声のほうを仰ぎ見る。
外套に包まれた小柄な影が立ち、風に外套を揺らしていた。
外套を揺らした風は、この山の風とはどこか違っていた。冷たくはないのに鋭く、香りだけが残る奇妙な風だった。
「ふぅん……だいたい状況は把握したかな。寄ってたかってお子様イジメとは……大の男たちが情けないな!」
そう言い放ち、人影は跳躍した。そしてフワリと少年の傍らに着地する。風に煽られた外套からは白く長い髪がこぼれ、炯々と光る瞳は血のように紅かった。
主の少年をその背に庇いながら、武人は尋ねた。
「その色彩……お前、まさか外国(トツクニ)の『白い子供』か」
「子供言うな! 私はもう十八だ」
クワッと怒鳴った人影に、武人は眉をひそめる。
「十八だと? それにしては背も低いし声も高……」
「失礼なヤツだな。助けは要るのか? 要らないのか?」
不機嫌そうな声音で遮り、人影が問う。
「……要る」
返事をしたのは武人に守られていた少年だった。外套の中で人影が笑う。
「その子のほうがよっぽど状況をわかっているようだ。アンタはその子を守ってな……んじゃあ、ひと暴れするか!」
そう高らかに宣言すると、人影は腰からふた振りの剣をスラリと抜いた。それぞれの剣は通常のものよりもやや短い。だが、二刀流という事実に武人は軽く息を呑んだ。
人影が音もなく動いた。そして武人は見たのだ。
それは一陣の風だった。風が駆け抜けると刺客たちは声をあげる間もなく倒れていく。一人、二人。そして五人、六人。縦横無尽に斬り結び、あっという間に少年と武人と人影以外に動くものはいなくなる。尋常でない強さだった。
その間、武人も少年を守りつつ三人を斬り伏せていた。そして最後の一人を地に組み伏せる。
「貴様が最後の一人だ。吐け。誰の差し金だ?」
「誰が……言うものか……」
刺客は荒い息の下でそう答えた。荒すぎる呼吸に、武人は軽く眉根を寄せる。突然、刺客が泡を吹いて白目を剥いた。
「おい!」
「迂闊に触るな」
静かな声が武人を制止し、人影が武人のすぐ隣にやってきた。傍らに膝をつくと男の脈を診て、首を横に振った。口元を布で覆った人影は顔を近づけて吐瀉物の臭いを嗅ぐ。
「おそらく毒だ。あらかじめ口の中に仕込んでいたんだろうな」
独特の臭いに武人は軽く顔をしかめた。
「毒物に詳しいのか?」
「あぁ。体質上、日光に弱いもんだからその対策でいろいろと学んではいるし、少しなら耐性もつけている。毒と薬は紙一重だからな」
人影の説明に、武人は深い息をついた。
「……そうか。なにはともあれ、お前のお陰で助かった。礼を言う」
「気にするな。しかし、物騒だな……」
人影はそう言って沈黙した。
「それで、これからどうするつもりだ?」
「どうもこうも、死体を片付けて温泉に入るか、また次の温泉地を目指すか……」
武人はわずかに眉をひそめ、息を吐いた。
「当てはないのか?」
「見ての通り流れ者でね。傭兵になったり薬師になったりさ。まぁ、その日暮らしだよ。ところで少年」
「なんだ?」
人影は少年に大股で近づくと、湯浴み着から伸びた手足をしげしげと眺めた。それも湯浴み着を捲りあげて腕や脚を確認している。それ以外にも、間近で眼を覗き込んだりしているものだから、武人が制止した。
「おい、貴様。無礼だぞ」
「この傷はどうしたんだ? 今負った傷じゃないよなぁ」
「!」
少年の手足には大小様々な傷がある。傷というよりも半ば潰瘍に近い。少年の顔色が一気に青褪めた。しかし逃げられない。目を逸らしたくても、その紅い瞳はあまりに真っすぐだった。だが、人影は首をかしげているだけだった。
「ん? だから温泉なのか? 湯治に来たとか。でもこれは……もしかしてずっと治らなかったりするのか」
「……わかるのか?」
人影の的を射た質問に、少年は身を乗り出していた。
「あぁ、少しは医術も齧っているからな。もしかして水や湯の温度が手足じゃわかりにくかったり、痛みを感じにくかったり、力が入り辛かったりするんじゃないのか?」
「……その通りだ」
少年の言葉に、人影は頷いた。
「なるほど、これは難病だな。まだ小さいのに難儀なもんだ。湯治自体は悪くない。だが、そのあとの処置が大事だ。傷から悪いものが入らないようにしておかないと化膿する恐れがある。清潔にしておけ」
いきなり怒涛の勢いで説明されて、少年はやや身体を引いて頷いた。
「わ……わかった」
「あとで薬草も分けてやるよ。だが、その前に……もう一度温まってから服を着たほうがいいな。思いっきり湯冷めしている」
そう指摘されて武人は、急いで清潔な布を主のために用意する。その間に人影は湯の温度を手で確かめていた。
「うん、湯温も問題ない。ほら、少年」
「あ……あぁ」
かけ湯をしてもう一度、少年は温泉に身を沈めた。
「なぁ、お前は入らなくていいのか? あれだけこだわっていたのに……」
「んー? 一緒に入ってもいいが、少年が恥ずかしがると思うからな。やめておく」
「……?」
人影の言葉に、少年は首をかしげた。
「わからなくていいよ。少年にはまだ早い」
だが、少年はもう一度首をかしげている。
「……そうだ。それよりお前、行く当てはないんだろう?」
「あぁ、うん、まぁ。それがどうかしたのか?」
「その……さっきの事態で護衛をやられて人手が足りないんだ。僕に雇われるつもりはないか? 傭兵なんだろう?」
人影は一瞬きょとんとして紅い瞳をパチパチと瞬いた。
「それはそうなんだが……こんな素性のわからんヤツを、そんなにあっさりと雇ってもいいのか? 護衛さん」
武人へ視線を移した人影に、武人はあっさりと承諾した。
「自分で言うな。主の決めたことに否やはない。それに……お前の強さはこの目で見て知っているからな」
「へぇ……?」
紅い瞳をキラキラと輝かせて、人影は破顔した。
「わかったよ。少年の傷の状態も気になるしな。もうここまで関わってしまったし」
そうして人影は、おもむろに外套の頭巾部分を脱いだ。長く白い髪がサラリと零れ落ち、白皙の美貌があらわになる。
好奇心に煌めく紅い瞳で、人影は朗らかに名乗った。
「私の名は白雅(ハクガ)だ。よろしくな」
「お……女、だと──!?」
山の霧に吸い込まれるように、二人の叫びが消えていった。
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