第2話:意志と表象、そして我が闘争の始まり

 我が家の周辺は駅方面に向かえば、それはなかなかの栄様で、買い物や生活する上で不自由となるようなこともなく、人の賑わいもちょうどいい具合にあり、なかなかに住みやすい街だと自負している。しかし、日頃、私が散策に出掛ける方向は駅とは逆方向の自然が広がる方向となるため、人の数は途端に少なくなる。


 普段はウォーキングなのであるが、ダイエット効果がなかなか表れないことから、今日はより運動量の多い軽いジョギングを入れることとした。ショパンの「別れの曲」にチャレンジしてみようか、という気持ちもあったことから、スマホでいろんなピアニストの「別れの曲」を聴きながら、軽快に歩を進めていた。


 目標としていた公園で秋の紅葉を鑑賞し、再び家に向かって折り返した。同じ道を帰ってもツマラナイと思い、今まで通ったことのない道を勘を頼りにジョギングしながら道を辿ってみることにした。いろんなピアニストの「別れの曲」をYouTubeで聞いていた私であるが、自分のスマホにもかつて自分が買ったウラディミール・アシュケナージのCDのショパン・ピアノ名曲集が入っていたことを思い出し、そちらを聴きながら走り始めたその時だった。弱起の曲だけに、その予兆はごく微かな違和感のみを伴って惹起された。


 お腹を軽くしてから臨んだ運動であったが、久々のジョギングであったせいか、「万有引力」が我が体壁を通り抜けるようにして、体内のあるものを鉛直方向に引き下ろし始めていたようである。最初は、お腹にそもそも何も入っていないのだから、気のせいだろうと思っていたのであるが、ウラディミール・アシュケナージのCDによるピアノ名曲集が「別れの曲」から「革命」に変わる頃には、明確に我が下半身の最下層臓器内での「反乱革命分子」たちの活動は無視できないほどに、明確に知覚され始めていた。しかも、「革命」のおどろおどろしい旋律が脳内の不安を余計に煽る。ウラディミール・アシュケナージのCDを選択したのは、明らかな、裏目に出るのを見るウラディミール状態となっていた。革命の勢いは燎原の火の如く一気に広がりを見せ、もはや、神経を集中していないと、そこがバスティーユ監獄さながら、脱獄囚が一気に殺到しそうな状況となっていた。


 それは厭世主義ペシミズムの大御所アルトゥール・ショーペンハウエルの主著『意志と表象としての世界』を彷彿とさせる、明確なWillと表象(感覚や認識の形式(時間・空間・因果律)がひたひたと押し寄せてくる感覚と言って過言ではなかったし、嫌な予感ほどよく当たるのであった。


 まず、その一帯は初めて通る道で大腸の如く激しく蛇行しており、方向感覚が大いに奪われた。しかも、その辺りは人家はあるものの、人通りは絶えた陸の孤島。今のコロナ禍を経たご時世は、トイレを借りるなどということは言語道断のBPO(|Buppa Prohibit Okotowari《ブッパ持ち込み 禁止 お断り》)案件。しかも、一軒家密集エリアに足を踏み入れていたため、コンビニなどは視界に全く入らない。さっきまでの、軽快な足取りはどこへやら、今や、神経は「鬼滅の刃」もビックリなほど、全神経がオシリに全集中しているたため、相撲取りのお手本になるような摺り足、もしくは、歌舞伎役者のようなそぞろ歩きへと変貌している。


 そんな中でも、万有引力はその力を緩めることは一切ない。この難局を乗り切るべく、これまで小説執筆のためにいろいろインプットしてきた学びを国家総動員法で脳内に緊急招集する。


 ここは日本。まずは仏に縋るしかない。締めるところは締めて、意識と肉体を別離するしかない。ある意味、これも「別れの虚躯きょく」と言えるかもしれない。まずは「無の境地」、すなわち、「無我(自己の非実在性)」の真理を目指すこととした。一切の分別ふんべつや排便執着から離れた、分別ふんべつのない心の状態を目指すが、「もし、ここで脱糞という事態になった場合、その物体の分別ぶんべつはどうなるのだろう?」などと、余計なことを考えてしまい、無我の境地にはおよそ全く到達しない。


 地図アプリで現在地を見てみれば、なんと、さきほど折り返したはずの公園方面にほぼほぼ戻りつつあるではないか!?我は必死で救済の地目指して歩を進めていたものの、これでは仏陀の掌中を西遊記の孫悟空が筋斗雲に乗って駆け回っていただけと同じではないか!西遊記の孫悟空の頭の輪は、三蔵法師が呪文を唱えないと締め付けられないが、ここは自ら呪文を唱え、肛門の輪っかをこれでもかと締め上げる。


 もはや、歩き方が明らかにおかしい。無我の境地で意識を遠のけようとするが、脳と下半身の幽体離脱が上手くいかない。気を抜けば、たちまち仏の姿は消え、そこが即ち阿鼻叫喚の地獄絵図と化すことは容易に想像できた。


 元来た公園に戻るのが近いのか、もしくは、大きな通りに出たコンビニに駆けこむのが早いのか?肛門と必死の交信を図り、耐久可能残り時間を算出しつつ、曲線渦巻く道路の形状を思い浮かべ、微分方程式でどちらに救済の地を求めるのが正解なのか、現役の時には分からなかった「フーリエ変換」や「ラプラス変換」を脳内で行い、正解接線有する関数を算出する。出た答えは大通りに出たコンビニエンスストアを「エデンの園」と見定めることであった。果たして「失楽園」で追放された「アダム」は再び「エデンの園」に足を踏み入れることが許されるのか?そんな前提条件がきちんと適合しているのかということが脳裏を掠めるが、突き詰める余裕も生憎なく、一切の雑念を振り払い(これを徒無アダムという)、「無我夢中」でコンビニエンスストアを目指した。今やストア派哲学の第一人者になった気分だった。ひょっとしたら、「無我の境地」にも知らないうちに到達していたのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る