第30話 バッティングセンター

 鈴に拒絶された数日後。

 蒼侍が夜の街を抜けた先に、その建物はあった。

 錆びた看板に『バッティングセンター』とかろうじて読める文字。

 空気には機械油と古びたゴムの匂いが漂い、どこか昭和の残り香を思わせる。

 だが中に足を踏み入れれば、乾いた金属音が、静かな夜の空気を断ち切るように響いた。

 カキィン! ガシャン!

 金属バットとボールがぶつかる音、ネットに跳ね返る乾いた衝撃音。

 大学生のグループ、スーツ姿のサラリーマン、親子連れ。誰もが自分の打席で真剣にボールを追っていた。

 蒼侍は、その中で淡々とバットを振っていた。

 構えは無駄がなく、目線はピッチングマシンの穴を正確に捉えている。


 次の瞬間――。


 カキィン!


 球は鋭い弧を描き、真っ直ぐに奥のネットへ。

 再び――カキィン!

 寸分違わず同じ音が繰り返される。


 機械仕掛けのように正確。


 だが、機械にはないわずかな人間らしいブレ、正確すぎる軌道の中に、ほんの一瞬だけ迷いの影が見えた。


 それを蒼侍は、観察して即座に修正していく。


「……おいおい」


 背後から橘和真の声がした。


 パーカーにジーンズ、茶髪をラフに整えた、今どきの大学生そのもの。

 それでいて顔立ちは端正で、通りすがる女子学生が二度見するほどだった。

「お前さ、ほんとに野球経験ゼロなんだよな? ……野球部より打ってんぞ」


「経験はない。だけど、人の動きを観察して、バットの振り方を修正すればなんとかできる」

 淡々と答え、次の球を打ち返す。


 和真は頭を抱える。

「観察とか修正とか……お前と話してると、ほんと人間と話してる気がしなくなるな」


「そう、なのか」


「そうだよ!」

 和真は笑いながら蒼侍の肩を軽く叩いた。

「もっと楽しくやれよ。せっかく遊びに来てんだから」


 蒼侍は小さく瞬きをして、返事をしなかった。

 彼の脳裏では、昨夜の声がぐるぐると回り続けていた。


 ――ボクたちに残された時間は限られてる。その中にキミが入る余地なんてあるの?


 魅佳の言葉。

 突き刺さった棘は抜けず、鈍い痛みだけが残っていた。


 そして、今日。

 待ち合わせ場所で出会った鈴の幻滅と拒絶の声も。


 ――全然いいとこ見えないんだけど。

 ――ついて来んな!

 鈴の冷たい視線が脳裏に蘇る。

 鈴の言葉が、妙に鋭く響いて離れなかった。


(……俺は、間違っているのか?)


 気づけば最後の球も打ち終えていた。

 機械の音が止み、蒼侍は無言でバットを置く。


「なあ」

 和真が声をかける。


「お前、最近ちょっと変わったよな」


「変わった?」

「そう。前はほんとに無表情で、機械みたいだった。授業終わったらバイト、飯は簡単に済ませて、寝て起きて、また大学。……でも今は、なんか揺れてんだよ」


 蒼侍はしばらく黙っていた。

 揺れている――その表現に、どこか図星を突かれたような感覚があった。


「……否定はしない」


 和真はにやっと笑った。

「やっぱりな。で? 彼女か?」


「……」

 蒼侍は答えず、代わりにベンチに腰を下ろす。

 和真も隣に座り、紙コップのジュースを吸った。


「図星だな。お前に興味持たせるなんて、相当だぞ?」

「彼女のためにもこれ以上は話せない」

 

 和真は大きく息を吐く。


「……お前、ほんと面倒くさいやつだな」

 だがその声に、呆れと同じくらいの温かさが混じっていた。


「普通はよ、今が楽しければいいで済ませるんだよ。でもお前は過去にしがみついてる」


「過去がなければ、今の俺もない」

「……真面目すぎ」


 和真は笑い、紙コップを捨てた。


「でもな。お前が必死になってるなら、俺は止めねえよ。記憶でも女でも、追えばいい。ただ――」

 真剣な眼差しで蒼侍を見据える。


「それで今の自分を壊すな。せっかく変わり始めたんだから」


 蒼侍は目を伏せた。

 理解はできる。だが、実行は難しい。

 そう思いながらも、和真の忠告は胸に残った。


 しばらく沈黙が落ちた後――蒼侍がふと口を開く。

「……女の子の扱いは、難しいものだな」


 和真が目を丸くする。

「おおっ、ついに話す気になったか! 誰だよ相手!」


「……言えない」

 淡々と返す蒼侍。だが、その言葉にはわずかな迷いがあった。


 一真はニヤニヤしながら肘でつつく。

「なるほどなぁ。じゃあ一つアドバイスだ。女の子はな、正解が欲しいんじゃなくて、気持ちを共有したいんだよ。格好とか、仕草とか。全部観察して正しい答えを出そうとするからお前はズレんの」


「……気持ちの共有」

「そう。正解じゃなくて共感。お前にはそれが一番足りねえんだよ」


 蒼侍はしばし考え込み、小さく頷いた。

「参考になる」

「ははっ。可愛いな、お前」


 和真は笑って立ち上がる。

「よし! じゃあ次は勝負だ。ホームラン競争! 負けたほうがラーメン奢り!」


「……くだらないな」

 蒼侍の足取りは、さっきよりわずかに軽くなった。

「いいからやれ!」

 和真が笑う。

 蒼侍は小さくため息をついた。

 だが、その表情にはわずかに熱が宿っていた。

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