第8話 冷たい拒絶
翌日。六月十五日、土曜日。
夕暮れの常磐坂モールは人で溢れていた。
大学帰りの学生や買い物帰りの家族連れ、会社員たちが行き交い、通路は絶え間ない人の流れとなっていた。
フードコートの方からは揚げ物の油が弾ける匂いが漂い、たこ焼きのソースや焼きそばの香ばしさが鼻をくすぐる。
雑多な声が天井に反響し、笑い声、子どもの叫び声、レジの機械音、全てが入り混じって一種のざわめきを作り上げていた。
蒼侍はその渦の中を静かに歩いていた。表情に変化はない。だが心の奥では、周囲から漏れ出る人々の感情をひとつずつ無意識に拾い取っていた。
高揚した笑い声、購買袋を提げた二人組、幸福感の共有。母親に叱られて泣く子ども、母の声は苛立ちを帯びているが根底には心配が混じる。試験勉強帰りらしい学生、疲労と緊張の色。すべて感情の断片。失われた自分にはない色。
蒼侍はそれらを記録するように心に留めた。十二歳以前の記憶を失って以来、感情の表現をすることが上手くできなくなった。だからこそ、他人の仕草や声の高音、低音を真似て、自分の中に作り物の感情を作り上げるしかなかった。
手提げ鞄の中には小さな銀の栞がある。昨日、白神に渡すと約束したもの。明日、喫茶『あかつき坂』で返すつもりだ。
だが頭の中では、図書館で見た読書に没頭する静かな少女と、喫茶店で天真爛漫に笑う少女の姿が交錯していた。同じ顔。だが仕草も雰囲気も正反対だった。
(同一人物であると結論づけるには無理がある。だが全くの別人とも考えにくい。あの違和感の正体は何だ……)
思索を巡らせていたその時、視界の中にあの横顔が映った。ウルフカットの髪が肩で揺れ、すらりと伸びた背筋。スマホを片手に歩く姿勢は乱れがなく、群衆の流れを切り裂くように進んでいく。
昨日と髪型が違う、だが、あの横顔を見間違えるはずがない。
蒼侍の足が止まった。昨日の天真爛漫な彼女だと思った。だが違う。笑顔はなく、口元は硬く結ばれ、瞳は冷たい光を宿していた。無駄のない歩幅、背筋の伸び方、視線の動き。全てが理知的で整然としている。昨日の朗らかな仕草は影も形もなかった。
(……同じ顔だが、何か変だ)
胸の奥にざらつく困惑が広がる。だが蒼侍は歩を速め、群衆を縫うように少女の背に近づいた。
「……待ってください」
言葉を紡ぎかけた瞬間、少女が振り返った。鋭い瞳が蒼侍を射抜く。周囲のざわめきが遠のいたように感じた。
「……なに?」
冷たい声音。感情の温度はゼロに近い。拒絶と無関心が同時に刻まれたような響きだった。その一言で蒼侍は確信した。違う。これは本当に別人だ。
「いや……銀の栞をあなたに――」
「は?」
少女は片眉を上げ、顎をわずかに持ち上げた。声には警戒よりも冷笑が滲んでいる。
「新手のナンパ? 悪いけど、そういうのは間に合ってるから」
吐き捨てるような調子。蒼侍の言葉を最後まで聞くつもりはないという意思が明白だった。周囲の人々は何事かと一瞬視線を向け、すぐに流れに戻っていく。
(昨日の彼女は笑っていた。天真爛漫で、無邪気に。だがこの少女は違う。冷たい刃のような視線、感情の抑揚を欠いた声。同じ顔をしていながら、まるで別の存在)
少女は蒼侍に背を向け、人混みの中に消えていく。その姿が群衆に紛れて見えなくなっても、蒼侍は立ち尽くしたまま動けなかった。昨日以上に強烈な違和感が、胸の内をかき乱していた。
「どうなってるんだ」
蒼侍の呟きは人々の雑踏の中に呑まれ、そして消えた。
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