第7話 栞の約束

 カラン、と乾いた鈴の音が店内を駆け抜けた。

 夕暮れの光を背負って入ってきた少女が入ってくる。


 その顔を見た瞬間、蒼侍は心臓を掴まれたかのように足を止めた。


 艶やかな髪。透き通るような瞳。洗練された輪郭。

 図書館で本を読んでいた、あの少女――。


 ……いや、違う。何かが。


 高い位置でまとめられたポニーテールが揺れ、服装は明るいTシャツにデニム。図書館で静寂を纏っていた彼女の気配はどこにもない。


 代わりにそこに立っているのは、まぶしいほどの笑顔を振りまく少女だった。


「すみませーん! クリームソーダくださいっ!」


 朗らかな声が店内に響く。その瞬間、窓際の老人が顔を上げ、学生二人組が小さく笑った。空気そのものを軽くしてしまうような明るさ。


 図書館で静かにページをめくっていた彼女の姿とは、あまりにもかけ離れている。


 蒼侍は無意識に観察を始めていた。

 目尻の跳ね方。声の高さ。首の傾げ方。図書館で見た仕草とは、一致しない。


 同じ顔だ。だが、同じ人間ではない――そんな言葉にし難い違和感があった。


 注文を取りに近づきながら、蒼侍は口を開いた。声は冷静に、だが内心はざわめいていた。


「……常磐坂大学の学生ですよね?」

 少女は一瞬だけ目を丸くした。だが次の瞬間、肩をすくめてにこっと笑う。


「え? あー……そうだけど」

 軽い調子。はぐらかす笑み。あのときの静かな眼差しを完全にかき消す反応だった。

 蒼侍の心に正体のない不安がひっそりと広がる。

「図書館に行く途中の道で、あなたが落としたと思われる物を拾いました。紫陽花が描かれた銀の栞です。今は持っていませんが……今度、渡します。明後日の日曜日、またこの店に来てくれませんか?」


「銀の栞? ……ああ! ほんと!? ありがとう! 探してたんだ!」

 彼女はサムズアップして、ウインクまでしてみせた。無邪気で天真爛漫な仕草に、蒼侍は返す言葉を失う。


 思わず別の疑問が口をついた。


「……もしかして、双子とか姉妹がいますか?」

「え? なにそれ」

 少女は一拍置いて笑い、首を傾げた。

 その一瞬、笑顔がひらりと揺れた気がした。


「双子はいないよー。お姉ちゃんならいるけど、あまり似てないよ」

 軽い調子だが、言葉の端にわずかな躊躇があった。だが蒼侍にはそのわずかな揺らぎをくみ取る余裕はなかった。ただ、目の前の彼女が図書館の少女と同じでありながら、全く違うように感じられることに困惑していた。


「そうですか……」

 冷静を装って答えるが、心の中では矛盾が増していく。


「ねえ、お兄さん」

 少女はクリームソーダを受け取り、ストローをくるくる回しながら言った。


「栞のこと、見つけてくれてありがとう。……結月も、そう言ってるよ」

 その名を、彼女自身の口から聞いた。

 結月。

 

 だが言い方は妙だった。自分のことを話しているようで、まるで別の誰かの言葉を代弁しているように。


 蒼侍は首筋に冷たいものを感じた。


(やはり俺の目は間違っていない。同じ顔――だが、ここにいる彼女は図書館で本を読んでいた彼女とはまるで別人だ)


 図書館にいた少女は静かな眼差しで深呼吸をするような繊細さがあった。だが、目の前の少女はその静けさを全て脱ぎ捨てたかのように明るい。


 図書館の少女とこの少女は同じ顔をしている。だが、同じ人ではない。

 夕陽に照らされる笑顔を見つめながら、蒼侍は確信に近い違和感を胸に刻んだ。

 この違和感こそが、失った記憶に繋がる鍵なのだと。


 蒼侍は少女の笑顔を見つめたまま、静かに息を吐いた。

「すみません、名乗るのが遅れました。黒無と申します」

「へー黒無さんかー、なんか珍しい苗字だね。私は白神!」

「では白神さん、栞の件、明後日の日曜日にお願いします」

「うん、オッケー!」

 そう手短に言って、蒼侍は白神のテーブルを離れた。


 厨房の方に戻ると、佐伯が声をかけてきた。

「黒無くん、あの子、知り合いなの? すごくかわいい子だけど」

「常磐坂の生徒みたいです。俺も昨日はじめて会いました」

「それで今日声をかけたわけ? ナンパ? 意外と肉食系だったりする?」

「? 俺は肉も野菜も両方食べますけど」

「違う違う。普通、昨日出会ったばかりの女の子に気軽に声をかけたりしないでしょ、男の子って。しかもあんな可愛い子に」

「? まあ、顔立ちは整っているとは思いますが、声は普通にかけれますよ」

「そう、なんだ……」

 

 佐伯は曖昧に笑ったが、その声音の奥には微かな動揺が感じられた。

「佐伯さん?」

「んーん、なんでもないよ」

 そう言って佐伯は首を振り、手元の伝票に視線を落とした。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る