第2話 月の子ら
月の重力で生まれ育った人類は、地球では動くことすらできない。
一Gに慣らす訓練が必要なのだ。
そのために、まずは宇宙ステーションで半年間0.5Gの生活を送り、その後、地球の南極大陸にある南極基地で半年間過ごして「身体を一Gに適応させる」。
それが手順だ。
◆
――地面が、鉛の板みたいに足首をつかんで離さない。
綾瀬ユウは、宇宙ステーションにある重力訓練室の床に片膝をついたまま、肺の奥に固い石を押し込まれたような息苦しさと戦っていた。
頭上のスピーカーから、抑揚の少ない女性の声が降ってくる。
《重力設定、0.7G。地球標準の70%。被験者ナンバーER−07、心拍数一二六、呼吸数三〇。許容範囲内です》
《問題ありません。それでは一Gまで上げます》
「・・こっちは全然、許容範囲じゃないんだけどな」
ユウは喉の奥でつぶやき、汗で滑る手のひらを床について、もう一度立ち上がろうとした。
太ももの筋肉が悲鳴を上げる。
月の重力は地球の六分の一。 このドームで生まれた自分たちにとって、「一G」という数字は、教科書の中の記号でしかなかったはずだ。
今、それが全身にのしかかる現実として迫ってきている。
壁一面を占めるスクリーンには、青い惑星が映っていた。
雲の渦、海の深い青、褐色の大陸。 教科書で何度も見た地球の姿。
その下に、小さく文字が重なる。
〈EARTH_ORBIT:周回三四、地球帰還計画・第Ⅰフェーズ〉
《立ち上がれたら、本物を見せてあげますよ》
冗談めいたAI教官の一言に、ユウは苦笑した。
「じゃあ、意地でも立たないとね」
両手を太ももに置き、一気に力を込める。
膝が、今にも折れそうに震える。 それでも、少しずつ、視界の高さが上がっていく。
やがて、足裏に床の硬さを感じたまま、なんとか直立姿勢までこぎつけた。
《姿勢維持確認。よくできました、ユウ》
「褒めるなら、もう少し重力下げてからにしてよ」
ユウが息を切らせながら言うと、AI教官は小さく笑ったようなノイズを混ぜた。
《残念ながら、地球は訓練生の都合には合わせてくれません》
それには、さすがに返す言葉がなかった。
◆
月面移住から、八十年が経っていた。
最初の避難民だった「地球世代」は、すでに誰一人として生存していない。
宇宙線と低重力の影響で、平均寿命は六十歳前後にとどまり、月生まれ第一世代の多くは、この十年ほどで次々と姿を消していった。
今、ドーム内を歩く大人たちの大半は、第三世代か第四世代だ。
地球を直接知る者はいない。 彼らにとって青い惑星は、「祖父母が話していた昔話」と「アーカイブ塔の映像」の中だけに存在する場所だった。
だが、その「物語の星」に、再び降り立とうという計画が動きだしている。
ユウが所属するER(Earth Recon)ユニットは、その先鋒として編成された十個の現地調査隊のうちの一つだ。 六人一組。
高線量環境での活動に耐え、未知の感染因子に対する防御を担い、そして何より――
地球の重力の下で動ける身体を持つ者たち。
《重力訓練、セッション終了まで残り一分。ER−07、歩行テストいきます》
「了解」
ユウは短く答え、前に一歩踏み出した。
足を出す、着地する。 その単純な動作一つひとつに、これほど意識を割いたことは月で生きてきて一度もなかった。
重力とは、こんなにも世界を濃くするものだったのか。
訓練室の観察窓の向こう側で、誰かが手を振った。
黒髪を短く刈り上げた女――同じチームの医官、森下チカゲだ。 白衣の代わりに、簡易防護服の上着を羽織り、タブレットを抱えている。
彼女の隣には、筋肉質な大柄の男が腕組みをしていた。 元鉱山作業員で、今はパワードスーツの重装オペレーターを務めるルイス・ハーン。
森下が、口元だけで「もう少し」と形を作る。
ユウは肩で息をしながら、もう二歩、三歩と足を前に出した。
《・・よし。セッション終了。お疲れさま》
突然、身体から鉛が抜け落ちるような感覚がした。 重力設定が月面標準に戻されたのだ。
ユウは思わず膝に手をつき、その場にしゃがみ込んだ。
「これ、ほんとに慣れるんですかね」
訓練室から出てきたユウに、ルイスが苦笑混じりに声をかける。
「慣れてもらわないと困る。こっちは三トンの荷物を背負って降りるんだ」
彼が言う「荷物」は、ERユニットの命綱でもある。 月の工廠で組まれている次世代パワードスーツ。
月面ではオーバースペックとも言えるその出力は、地球の重力下では辛うじて「人間が着られる鎧」として成立する。
「銃は?」
ユウが何気なく問うと、ルイスは首を振った。
「旧式の火器は、ほとんど持ち込めないさ。弾薬の問題もあるし、何より“あっち”に何がいるかわからない」
森下がタブレットから目を上げて補足する。
「感染体がどの程度の認知機能を持っているか、まだはっきりしてないからね。下手に銃声で刺激して、群れで押し寄せられたら・・」
言葉を濁したところに、上階から呼び出しのチャイムが鳴った。
《ERユニット07〜10、ブリーフィングルームへ集合。繰り返します――》
◆
ブリーフィングルームの壁一面に、地球が映し出されていた。
ただし、先ほど訓練室で見たような教科書的な青ではない。 雲の分布は偏り、大陸の一部は褐色ではなく灰色に覆われている。
海流を示すベクトルの上に、淡い赤と緑のパターンが重ねられていた。
「見てのとおり、これは美術館のポスターじゃないわ」
静かな声がブリーフィングルームに響く。
「赤い領域が、高濃度感染帯。例の《行動制御因子》――俗に言う“ゾンビウイルス”と、その共生細菌・真菌ネットワークが定着している場所。緑は、比較的安定した“生存圏”の候補よ」
スクリーンが切り替わり、いくつかの都市の名前が列挙される。
TOKYO_BAY ――信号弱 NEW_AFRICA_COAST ――感染指標・高 NORTH_ISLAND/PACIFIC ――生体反応・低〜中
ユウは、その中の一行に目を留めた。
NORTH_ISLAND/PACIFIC。
地図上では、小さな島の連なりとして表示されている。 かつて日本と呼ばれていた列島の、北側の破片のようにも見えた。
「第一陣の降下地点は、このPACIFIC・NORTHクラスターとする」
レイチェルが指先でそこを示す。
「衛星観測によれば、この周辺には“完全な群体化”に至っていない人類個体群が点在している可能性がある。感染因子と共生しながらも、自律したコミュニティを維持している・・そういう報告が、ここ数年で増えているの」
森下が小声で囁いた。
「・・つまり、“まだ人類と呼べるかもしれない”領域、ってことね」
ユウは黙って頷いた。 レイチェルの視線が、ERユニットの面々をゆっくりと横切る。
「あなたたちの任務は、三つ」
一本指を立てる。
「一つ。現地の環境と感染ネットワークの構造を調査すること。――これは科学のためだけじゃない。月面コロニーの生存戦略そのものに直結する」
二本目の指。
「二つ。感染と共存しながらも、自我と社会を保っている集団が存在するかどうかを確認すること。もし存在するなら、彼らが“何を失い、何を保っているのか”を見極めなさい」
三本目。
「三つ。そしてこれは、あなたたち個人に対する問いでもある。――“我々は、何を人類と呼ぶのか”。それを、自分自身の目で見て、考えて帰ってきなさい」
その言葉に、室内の空気がわずかに揺れた。
誰も口には出さないが、その問いは「ついで」ではなく、むしろこの計画の核心なのだと、ユウは直感した。
「出発は七十二時間後」
レイチェルはそう告げ、微笑にも溜息にも聞こえる息を吐いた。
「地球は、あなたたちにとって“故郷”ではない。あなたたちは、ここ、月で生まれた月の子よ。でも――」
スクリーンに映る青と灰の惑星を一瞥し、彼女は言葉を続けた。
「あなたたちの骨と血を作っている遺伝子は、あの星のものだ。その事実は、どれだけ時間が経っても変わらない」
◆
ブリーフィングが終わると、ユウは一人でドームの展望区画に向かった。
透明な強化ガラス越しに、地球光がドームの天井を淡く照らしている。
青い部分と、灰色に濁った部分。 そのどちらにも、これから自分たちが足を踏み入れるのだと思うと、喉の奥がひりついた。
ポケットの中で、古びたメモリチップが指先に触れる。
月生まれの自分には、地球に残した家族の写真も、故郷の景色もない。 ただ、アーカイブ塔の端末からこっそりコピーした、旧世紀のニュース番組の断片がいくつか。
飢餓の列。暴れ回る男。 「新しい行動制御技術」と称された兵器の会見。
あのとき画面の向こう側にいた人たちの誰一人として、今を生きていない。 それでも、彼らの選択の行きつく先に、自分がここに立っている。
「・・俺たちは、どこまでが“プログラム”で、どこからが“自分”なんだろうな」
ユウはガラスに額を軽く押し当て、小さく呟いた。
地球の海岸線のどこかで、感染因子と共に生きる第四の世代が、同じような問いを胸に空を見上げているのかもしれない。
その空に、まもなく月からの小さな火の筋が、一本引かれることになる。
それが、再会の狼煙なのか。 それとも、家畜場に戻る飼い主の印なのか。
まだ誰にも、答えはなかった。
♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠
読むための手助け用語・世界観ノート 2
■ 《terra・seed》(テラ・シード) テラは「地球」、シードは「種」。 「地球へ帰る(Return)」という言葉を使わず、あえて「種(Seed)」と呼んでいるのがエモいポイントです。 荒廃した大地に、月で保存しておいた「人類という種」をもう一度蒔き直しに行く。まるで農作業のような、謙虚で、それでいて残酷な響きを含んだ作戦名です。
■ ゾンビウイルスと「日本的なもの」 レイチェル議長が語る「行動制御因子」や「群体化」の話。 これはホラー映画のゾンビとは少し違います。日本で長い年月をかけて育まれた「空気を読む」「察する」「上の意向に逆らわない」という文化。このウイルスは、その性質を極限まで強化するものです。 感染すると「個人の迷い」がなくなり、トップ集団の意思に従って一糸乱れぬ行動ができるようになります。個を捨てて全体の一部になること。それがこの世界での「感染」の正体です。
■ NORTH ISLAND / PACIFIC かつての日本列島、あるいは北海道周辺。 なぜここが調査地点に選ばれたのか。それは、もともと日本人が持っていた「群れとして動く性質(和の精神)」が、ウイルスと奇妙に親和して、「感染しているのに文明を保っている(空気を読み合って平和に暮らしている)」稀有なエリアになっている可能性があるからです。
■ 家畜場と飼い主 最後のユウの問いかけ。 月の人類は、高度な科学力を持って地球へ「降りて」いきます。自分たちを「世界を管理する主人」だと思って。 でも、地球でウイルスと共生し、独自の生態系を作っている「彼ら」から見れば、月の人類なんて「ひ弱で、重力にも耐えられない、管理された家畜」に見えるかもしれません。 「どちらが上で、どちらが本当の人間なのか?」 この立場の逆転こそが、この物語の切ないテーマになっていきます。
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