「世紀末のテラへ愛をこめて」

海猫 ボウズ

第1話 プロローグ: 白い大陸の朝

アーカイブの画面が暗転してから、どれくらい眠っていたのか。

 ユウは、かすかな揺れの感覚で目を覚ました。夢の中で、さっきの講義の言葉とニュース映像が、白いノイズにかき消される直前まで再生され続けていた気がする。

 ――行動を決めるプログラム。

 ――行動を操る感染因子。

 枕に片腕を押しつけたまま、ユウは自分の膝の中に残る重さを意識する。

 ここにあるのは、月で育った筋肉に、一Gの世界が無理やり上書きされようとしている違和感だ。

 ベッドサイドの端末が、規定時刻を三度だけ短く告げた。

 今日もまた、南極の雪原を歩く時間が来たらしい。

「・・OS(オペレーションシステム)の正体は後回し、だな。

 まずは、この身体を一Gに慣らさないと」

 独り言のようにそうつぶやき、ユウはゆっくりと上体を起こした。

 金属製の床にブーツを降ろすと、骨の内側でわずかに抗議するような痛みが走る。

 その痛みごと抱え込んで立ち上がると、彼は南極基地の通路へ出た。

 ドアの向こうには、昨日と同じ白い大陸が、今日も待っている。

《ユウ、歩幅、三%ほど詰めて。膝の伸展がオーバーしてる》

 ヘルメット内に、森下千景の声が届く。

 南極地上班の医官であり、自称「歩行リハビリ係」だ。

「了解。三%詰める」

 ユウは、意識的に一歩を短くした。

 白い地面に刻まれる足跡の間隔が、わずかに狭まる。

 その背後で、Λ−Logosの穏やかな声が続いた。

《歩行パターン、微調整完了。

  下肢筋群の負荷は、許容範囲内に収まりました》

「筋肉の悲鳴は、許容範囲外だけどね」

 森下が笑う。

《主観スケールはログに残しておきます。

  後で“精神的負荷モデル”に使えるかもしれません》

「そうやって、すぐ研究材料にする」

 ユウは、ため息とも笑いともつかない息を漏らした。

 ――でも、こうして歩けている。

 月の0.165Gで育った身体が、

 地球の1Gの下で、自分の足で。

 それがどれだけ無茶な試みかは、ミナト議長のブリーフィングで散々聞かされている。

 筋肉、骨格、心臓、血管。

 すべてが「軽い世界」に最適化されてきた。

 本気を出せば、遺伝子をいじって一世代で「1G対応型」に作り替えることもできる。

 でも、それをやれば――がんと奇形の巣になる。

 地球で、もう一度やるのか?

 星ごと巻き込んで失敗した賭けを。

 その問いに、月の巣は「ノー」と答えた。

 だから代わりに、

 ユウたちがここにいる。

 南極基地「オーロラ・ノード」は、古い観測基地の骨組みの上に、

 無人機と月面ロボが八十年かけて積み上げたモジュールで出来ている。

 外殻には、風化した旧時代のロゴが残っていた。

 かつての国家の名も、研究機関の名も、今や誰も正確には覚えていない。

 内部は、きれいに更新されている。

 月から降ろした空気浄化装置。

 閉鎖式の水循環システム。

 少数ながら植物が育てられる照明ユニット。

 ここは、「地球の一部」であると同時に、「月の巣の出先機関」でもある。

 外は、ウイルスOSの“辺境”だ。

 氷と岩と、少数の海鳥と海獣。

 人類が消えたあと、ウイルスは世界中を這って回ったはずだが、

 ここはまだ「信号が薄い」とΛ−Logosは言った。

 だからこそ、最初の足場に選ばれた。

 重力だけに集中して身体をならすための、

 半分人工、半分自然のリハビリ室。

「ユウ、どう?」

 通信に、隊長のカラム・ウォンの声が割り込んできた。

 低くて、雪の音に混じってもよく通る声だ。

「足は重い。

  頭は、ちょっと軽い」

 ユウは、遠くの水平線を見ながら答えた。

 白い大地の向こうに、薄い青がにじんでいる。

「でも・・嫌いじゃないですよ、ここ」

 カラムがくく、と笑った。

「そりゃよかった。

  あと三ヶ月はここで歩いてもらうからな」

「三ヶ月で済むんですか?」

「Λの試算だと、

  一年で“とりあえず倒れずに1Gで動ける身体”にはなる」

《それ以上は、“個人差”の領域です》

 Λ−Logosが補足する。

《筋力と骨格は、使えば使うほど強くなりますが、

  月で育った発達段階の痕跡は、完全には消えません》

「つまり、一生“借り物の重力”ってことですね」

「そういうことだ」

 カラムがあっさり認めた。

「だが、それでも――

  月に籠もりきりになるよりはマシだと、評議会は判断した」

 月の0.165Gに最適化された身体。

 遺伝子編集で一気にそこへ向かえば、

 きっと快適で、省エネで、よく管理された巣になる。

 でも、その瞬間に、地球は「他人の星」になる。

 基地へ戻る通路の手前で、ユウは一度振り返った。

 低い太陽が、氷の端で光っている。

 風が雪面を削って、小さな砂丘のような模様をつくる。

 ――ここが地球。

 月の天窓から見ていた青白い球体の、

 ほんの一片。

 足の裏が、重い。

 でも、その重さに、どこか安心する自分がいた。

 重力ベクトルが、はっきりと身体に刺さってくる。

 上と下が分かる。

 落ちる方向が分かる。

 月では、いつもどこか「ふわふわ」していた。

 生まれたときからそれが当たり前だったから、疑問に思ったこともない。

 今になって気づく。

 ――自分の身体は、最初から1Gを前提に設計されている。

  それを、途中で0.165Gに“曲げた”だけなんだ、と。

 エアロックの内側に入ると、重力計の数字が微妙に揺れた。

 1.01G、0.99G、1.00G。

 古い地球製の機械と、月面製の補正装置が、まだ完全には噛み合っていない。

 ヘルメットを脱ぐと、冷気と鉄と、わずかな油の匂いが鼻を刺した。

 月面ドームの乾いた空気とは違う。

 ここには、どこか「古い工場」の匂いが混じっている。

「戻ったか」

 ブリーフィングルームの前で、森下がコップを掲げた。

 湯気の立つ熱い水。

 コーヒーは貴重品なので、普段はただの温水だ。

「今日のデータ、悪くなかったよ。

  膝も心臓も、生きてる」

「死ぬ予定はないので」

 ユウはコップを受け取り、一口だけ飲んだ。

 重力のせいか、喉を落ちていく水の速度まで違う気がする。

「・・隊長、次のフェーズの話、聞きました?」

「“島”のことか?」

 カラムが壁のスクリーンを指さした。

 そこには、衛星から撮った地球の地図が表示されている。

 海に撒き散らされた点々に、赤いマークがいくつかついていた。

「稲作圏だった島々。

  ウイルスOS(オペレーションシステム)の“巣”が、まだ安定している可能性が高い場所」

 森下が説明を継ぐ。

「そこに、生き残りがいる。

  群れとして、ウイルスと折り合いをつけた“人間たち”が」

「南極で一年、1Gに身体を慣らして。

  そのあと、今度は“匂いの重力”に入っていくわけだ」

 カラムの言い方は、少しだけ皮肉を含んでいた。

 地球には、物理の重力とは別の、もうひとつの重力がある。

 ウイルスと細菌と真菌が編んだ、見えない網。

 それが、人間の行動と欲望と恐怖を、「下向き」に引いている。

「・・行ってみたいです」

 ユウは、自分でも驚くほど素直な声で言った。

「月に戻るためにも、

  戻らないという選択肢のためにも、

  一度は“巣の重力”を見ておきたい」

 森下が、ふっと笑う。

「いいね、その言い方。

  ログに残しておくよ。

  “巣の重力”」

 Λ−Logosが、静かに応じた。

《記録しました。

  プロジェクト・ノートのキーワードに追加します》

 その夜、ユウは南極基地の小さなベッドで、

 久しぶりに夢を見た。

 夢の中で、彼は、見たことのない田んぼの中を歩いていた。

 泥の重さ、湿った風の匂い。

 遠くで、笑い声のような、鳴き声のようなものが聞こえる。

 目が覚めると、頭が少し痛かった。

 重力に慣れていない身体の、脳へのささやかな抗議かもしれない。

 それでもユウは、目を閉じ直して、その夢の続きを追いかけた。

 ——南極での一年が終われば、

  今度は「群れの島」が待っている。

 月の巣と、地球の巣。

 どちらの重力に縛られるのか、

 まだ誰も知らないまま、時計だけが先に進んでいく。




♠    ♠    ♠    ♠    ♠    ♠


読むための手助け用語・世界観ノート(ネタバレ注意)


■ OS(オペレーティング・システム)とは?

一言で言うなら、「コンピュータという『機械の体』と、アプリという『精神(仕事)』をつなぐ、通訳兼・管理者」のことです。

もしコンピュータにOSが入っていなかったら、ただの鉄とプラスチックの箱です。人間がキーボードを叩いても、画面には何も映りません。

1. 何をしている人?(3つの役割)

【通訳】(インターフェース) 人間がマウスを動かしたり、画面をタップしたりする動きを、機械語(0と1の信号)に翻訳して、コンピュータに伝えます。逆に、コンピュータの計算結果を、人間が分かる「文字や絵」にして画面に出します。

【配給係】(リソース管理) 「メモリ」や「電池」や「CPU(脳の処理能力)」という限られた資源を、どのアプリにどれくらい配るかを決めています。動画を見ながらLINEができるのは、OSが裏で「動画に80%、LINEに20%」と素早く配分しているからです。

【土台】(共通ルールの提供) アプリの開発者が、いちいち「画面の光らせ方」や「音の出し方」をゼロからプログラムしなくてもいいように、「音を出すときはこの命令を使ってね」という共通の道具箱を用意してくれています。

2. 代表的なOSたち

Windows / macOS(パソコン用) 事務仕事からクリエイティブまで、何でもこなす万能選手。

iOS / Android(スマホ用) タッチ操作や持ち運び(省電力)に特化した進化系。

Linux(サーバー・機械用) 今回の小説に出てくる「Λ-Logos」などのAIや、サーバールームで動くシステムは、だいたいこれがベースになっていることが多いです。

■ 1G(ワン・ジー)と0.165G 物理(重力)の話だけだと思わないでください。    

   比喩的な意味がありますので適宜読み分けてください。

1G(地球):本来人間がいるべき場所の重さ。地面が「しっかりしなさい」と体を掴んでくるような感覚。=「故郷の厳しさ」

0.165G(月):地球の約6分の1。ふわふわして夢の中みたいに楽だけど、そこにずっといると心も体も「本物」から遠ざかって弱くなってしまう場所。=「仮住まいの優しさ」

■ Λ−Logos(ラムダ・ロゴス) ユウたちをサポートするAIのこと。「ロゴス」はギリシャ哲学で「言葉・論理」という意味。「パトス(情熱・感情)」の対義語です。 つまり、このAIはどこまでも正しくて冷徹な「理屈」の象徴。

■ 遺伝子編集と「がんと奇形」 「環境に合わせて体を改造しちゃえばいいじゃん」という考え方へのアンチテーゼ。 自然の摂理(神様の設計図)を無理やり書き換えると、体の中で細胞たちがパニックを起こして暴走(がん化)してしまうこと。「便利さを求めて無理をすると、結局どこかで破綻する」という、現代社会への皮肉も込められています。

■ ウイルスOSと「匂いの重力」 ここでのウイルスは、単なる病気ではありません。「空気を読む」強制力のことです。 感染すると、個人の意志よりも「群れ全体の意向」に従うよう脳が書き換えられてしまう。

物理の重力:体を地面に縛り付ける力。

匂いの重力(巣の重力):心を「みんなと同じ」に縛り付ける、見えない同調圧力の網。

■ 稲作圏の島々 かつての日本やアジア地域のこと。 「みんなで協力しないとコメが作れない」という歴史がある場所ほど、ウイルスOS(=空気を読んで群れる性質)との相性が良く、皮肉にもそのおかげで滅びずに安定している、という設定です。



※●~* ネタバレしますのでこれ以降は飛ばしてしまってください途中で止めようと思った方のみお読みいただけると幸いです。





■小説「世紀末のテラへ愛をこめて」におけるOSの意味

この小説では、このコンピュータ用語を「人間や社会を動かす『見えない基本ルール』」という比喩(メタファー)として使っています。

肉体のOS(ウイルス複合系) 人間が「お腹が空いた」「誰かを好きだ」「怖い」と感じるのは、自分の意志だと思っていますが、実は「肉体というハードウェアを管理しているウイルス(OS)」が、「ここでホルモンを出せ」「ここで心拍数を上げろ」と命令しているだけ・・という解釈です。

社会のOS(王権・資本主義・牧場管理) 人間社会も、「法律」や「お金」というOSの上で動いています。OSが「Windows(資本主義)」から「Mac(牧場管理)」に入れ替わると、上で動くアプリ(人間の生き方や常識)もガラッと変わってしまいます。

「私たちは、自分の意志で生きているのか? それともOSの仕様通りに処理されているだけなのか?」 この問いかけこそが、今回執筆した物語の最大のテーマとなっています。

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