断章 文々悠里③

***


​ 僕は、冷めかかったコーヒーを一口啜った。


 格別、コーヒーを嗜む習慣が以前からあったわけじゃない。

 ただ、そこにあるから、なんとなく口に運んでいるだけだ。


​「今日のお味はいかがでしょうか、マスター」

 背後からかけられた声に、僕は視線を動かさずに答える。


​「……悪くないですよ」


​「そうですか。それは重畳です」


 ​僕はそのまま、逃げるようにベッドへと向かった。


 別に、彼女がそこに居ることが不快なわけじゃない。


 ただ、少しばかり面倒くさいのだ。言葉を交わすたびに、いちいち返事という体裁を整えなければならないのは、僕にとっては少々骨の折れる作業だった。

「……また、おやすみになられるのですか?」

「ちょっと、横になるだけですよ。……ふぁ……」

 生あくびを噛み殺しながら、布団の海へと潜り込む。

 どうせ、深い眠りなど訪れないことは分かっていても。

「……それにしても。幽霊って、案外、物に触れることができるんですね」

 不意に湧いた疑問を、独り言のように投げてみた。

 別に、返答がなくても構わなかったのだけれど。

「私は、巷で言われる幽霊とは少しばかり理が異なりますから。肉体ごと霊的な存在へ変質している……と言えば伝わるでしょうか。平たく言えば、ゾンビのようなものですよ」

「……ゾンビ、ですか」

 ゾンビと呼ぶには、彼女の顔立ちはあまりに端整で、死の穢れを感じさせない。


 おそらく、彼女の死因である「凍死」が、何らかの特異な作用をもたらしたのだろう。


 魂と肉体が、その鮮度を保ったまま【氷】という概念の中に閉じ込められている――。

……まあ、そんなこと、僕にはどうでもいい話なのだが。

 結局、眠気は訪れなかった。

 というか、最初からそんなものは存在しなかったのだ。

「マスター、お客様がいらっしゃったようです」

 目を閉じたままの僕に、彼女が無機質な報告を届ける。

「……お客様?」

​「はい。龍王坂 健様と、ムダミラ・クルシュ様です」

 ああ、また面倒くさい連中が来た。

 僕は布団の中で、小さく溜息を吐き出した。

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