4日目・森林③

***


​ 俺が過去を語り終えるまでの間、龍王坂くんは一度も視線を逸らすことなく、真っ直ぐに私を見つめていた。


 ​瞬きもせず、相槌すら打たず。

 ただ沈黙の重みを受け止めていた彼が、話が途切れると同時に、静かに口を開いた。

「アドミラグさんは、逃げてきたんですね」

 その通りだ。否定する言葉など持ち合わせていない。

 俺は現実という名の地獄から目を逸らし続け、代わりに【運命】という名の虚像を盲信することで、辛うじて己の輪郭を保ってきたに過ぎないのだから。

「……俺と、一緒ですね」

 そう言って浮かべた彼の笑みは、あまりに慈愛に満ちていた。

 一瞬、モノクロームだった世界に鮮やかな色が戻ったような錯覚を覚えたが、それも刹那。すぐに世界は元の灰色に沈んでいった。

「俺は君とは違う。君は抗い、守ろうとしている。だが、俺はただ逃げていただけだ。起きたことのすべてを【運命】という言葉で塗り潰し、思考を放棄してきたんだよ」

 【運命】という概念は、ある種の麻薬であり、救済だ。

 どんなに無惨な結末も、それが定められた道だと唱えれば、「仕方のないこと」として処理できてしまう。


 【運命の眼】を持つ俺は、その毒に誰よりも深く侵されていた。

 ……いや、その責任さえも【眼】のせいにしようとしている。それこそが、選択を放棄し続けた代償なのだろう。

「アドミラグさん」

「……なんだ?」

 龍王坂くんの声に、確固たる鉄の意志が宿る。その響きは、もはや俺よりも遥かに強靭だった。

「俺は、あなたを殺します」

「ああ……頼む」

 ようやく、この時が来た。

 闇に溶けた森の中で、焚き火が爆ぜる音だけが響くこの時間。


 冥府から引きずり戻されて以来、数年の空白の中で、この、君と過ごした、闇の時間が何よりも「生」を感じさせてくれた。

 ただ漂う死体だった俺が、ようやく自らの終焉という未来を見据えることができた。

「龍王坂くん。君は……【選択】したんだね」

「そうしないと、進めませんから。【運命】だって、そうです」

 その通りだ。俺はずっと、自分自身の人生を先送りにしていた。

 すべてを【運命】のせいにすれば楽になれる。    

 だが、【運命】とは【選択】という杭を打ち込まなければ、決して形を変えることはないのだ。

「ありがとう、龍王坂くん――」


 ​――ザシュッ。

 唐突に、視界が漆黒に染まった。

 同時に、俺の意識を繋ぎ止めていた身体の感覚が、音も立てずに霧散していく。

「お前――ッ!」


 ​龍王坂くんの、裂帛の叫びが聞こえる。

「カルム・アルビダ!!」


 ​暗い森の奥から、湿り気を帯びたクスクスという笑い声が漏れ聞こえてきた。

「【悪魔】様に授かったこの命――あんたたちを屠るために使い切ってやるよ。まずはアドミラグ、あんたからだ。次は龍王坂健、てめえの番だよ……!!」


 ​不吉な捨て台詞と共に、彼女の気配は完全に闇の向こうへと消え去った。


​「【悪魔】、だと……!?」

 狼狽する龍王坂くんの声。

 だが、それ以上に俺の内側は困惑に支配されていた。


 なぜだ。なぜ、俺の【運命の眼】が反応しない……!?

 あの怪物の気配ならば、必ず、絶対に捉えられるはず。それなのに、なぜ、この眼は沈黙している――!!

「アドミラグさん!!」


 ​彼が俺を呼んでいる。必死に俺を現世に繋ぎ止めようとしている。

 けれど、その声さえも、遠く、泡のように消えていく。

 それは、待ち焦がれていた「死」の感触だった。


 数年ぶりに訪れた、甘美で静謐な沈殿。

 ​そう自覚した瞬間、俺の心を満たしたのは、【悪魔】への疑念でも、龍王坂への懸念でもなかった。


 ようやく、終わることができる。

 その圧倒的な「歓喜」だけが、魂を震わせていた。


 ​ああ。ようやく、死ねる。

「アドミ、ラグ、さん……!」

「……やっとだ。ようやく、俺は……眠れる……。夢を、見られる――」

 俺は安堵の吐息と共に、このまま永劫の静寂に溶けていくことを、心から願った。

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