断章 カルム・アルビダ

​***


「あ、ああああああああッ!!」

 静寂に包まれた森を、引き裂くような絶叫が通り過ぎていった。

 湖畔に横たわり、意識を取り戻した私の胸を占めていたのは、なぜか、筆舌に尽くしがたい「不快感」だった。


 ……いや、本当はその理由など嫌というほど理解している。ただ、認めたくないだけだ。


 ​あの女――ムダミラ・クルシュに完膚なきまでに敗北したこと。

 そして、忌々しい【災い】によって、私の誇りであった美しい肉体が無惨に蹂躙されたこと。


 この湖の水には微かな回復効能があったらしく、辛うじて命を繋ぐことはできた。

 だが……。


​「私の……私の、美しい髪が……」

 指先で触れた髪は、見る影もなく傷みきっていた。

 あの人型の羽虫どもに食い荒らされ、髪はおろか、四肢の至る所に醜い虫食いの痕が刻まれている。

 美しくなければ、存在する価値などない。

 この世には、美しいものにしか「生の権利」など与えられていないはずなのに。


 ​現実世界の私は、誰よりも美しかった。

 周囲の人間は私を神のように崇め、平伏した。それは至極当然の摂理だった。なぜなら、彼らは私に比べてあまりにも醜悪で、取るに足らない存在だったから。

 なのに、こんな、泥を啜るような【沼】に落とされて……。私はこれから、何をよすがに生きていけばいいというの?


​「やあ、おはよう。いい目覚めかな」


 ​絶望の淵に沈む私に、不意に声がかけられた。

 低く、凪いだ海のように落ち着いた男の声。

「あなた……誰よ!!」

「私……か。そうだね、名前を名乗るほどの間柄でもない。【悪魔】とでも呼んでもらおうか」

「……【悪魔】?  ふざけないで!  私を侮るのも大概になさい!」


 ​その余裕に満ちた声が、何よりも鼻についた。

 激情が再燃する。どす黒い怒りが、私の思考を真っ赤に染め上げていく。

「落ち着いてくれ。……実を言うと、私は君のようなタイプの女性が、この世で一番嫌いなんだ」

「何ですって……?」


 ​私は横たわったまま、残された全ての力を振り絞り、鋼鉄の硬度を持たせた【髪】を男へと向けた。

「殺されたくなければ、さっさとその不愉快な面を下げなさい。それとも、今すぐその首を刈り取って――」


​「……待ってくれ。一つ、忠告をしておこう。私はこの【遊戯】の正式な参加者ではない。よって、私を殺したところで君に利はない。それに、私に牙を剥けば、君は死ぬ」


​「舐めるのも、大概にしやがれッ!!」

 理性が弾けた。

 怒濤の勢いで放たれた私の【髪】が、男の心臓を貫き、その傲慢な命を終わらせる――はずだった。

「……は?」


 ​私の身体は、完全に静止していた。

 指先一つ、睫毛一つ、一ミリたりとも動かすことができない。

「……今回は不問に処そう。私の言い方も少しばかり、配慮に欠けていたかもしれないしね。ちなみに、私の能力は【凍結】。私の半径十メートル以内の地面を踏んだ瞬間、対象の全ての生命活動は凍りつく」


​「く、そ……が……」


 ​指先から熱が失われていく。

 抗うことすら許されない、絶対的な力の差。一体、何者だというの、こいつは……。

「さて、君に一つ提案があるんだ」


 ​男がゆっくりと腰を落とし、私の顔を覗き込んだ。

 氷の向こう側で、ようやくその貌が露わになる。


​「君、――龍王坂健を、殺してくれないかな?」

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