第1章 出会いと始まり

第1話

 鏡の中のあたしは少しぎこちなく見えた。

 朝の光が斜めに差して頬の赤みをやさしく拾う。

 櫛を持つ指の震えは見なかったふりをする。


 カラコンを指にのせてそっと瞳に重ねる。

 視界が一瞬白く揺れてから輪郭が戻る。

 昨日より少しだけ大人に寄った気がした。


「よし」


 小さく声にして髪を整える。

 スクールバッグの重さを肩で受ける。


 松濤の朝はまだ冷たい。並木の影が細く伸びて花びらが舗道にひらひら残る。コーヒーの匂いが角の店から流れてくる。通勤の足音が速い。

 信号待ちのあいだにブレザーの内ポケットでスマホが震えた。画面は見ない。伏せたままバッグの底に沈める。


 渋谷駅まで歩くと足があたたまる。

 ホームは人がまばらで電車は静かに入ってくる。吊り革につかまって窓のガラスに横顔が薄く映る。

 代官山に近づくほど同じ制服が増える。笑い声が混ざる。あたしは小さく背筋を伸ばす。


 桜の花が校庭の端に薄いピンク色の帯を作っていて、花びらは粉のように舞う。


 教室の扉を開けると春の光が床に斜めの帯を落としていた。

 机と椅子がわずかにきしむ音、消しゴムのかすれた匂い、まだ新しい時間の匂いが混ざっている。

 後ろのほうで誰かが笑い、前の黒板の隅には先生の名前が白い字で残っている。


「はいはい、席つけー」


 高島先生が両手を二度叩いた。

 教室のざわめきが少しずつ収まり、視線が一斉に前へとそろうと、空気が水のように澄んで静かになる。


「じゃあまず転校生の紹介をするぞ。入ってこい」


 先生の声の後に後ろの扉が音を立てて開いた。

 足音がひとつ、またひとつ。

 背の高い男子が入ってきた瞬間、教室の空気が変わった。


 黒い髪は少し長めで前髪が眉に触れている。すっと通った鼻筋、形のきれいな唇、まつげの長いキリッとした目元。

 まっすぐな姿勢がその端整な顔立ちと合わさって静かな落ち着きをまとわせていた。


「是枝佑磨です。栃木から来ました。よろしくお願いします」


 声は低過ぎず、高過ぎず、落ち着いている割にしっかり通る声質。

 教室全体が彼を映すスクリーンになったみたいだった。俺を見ろ!!って感じの強さではないけれど、何故か目を奪われてしまう。


「イケメンじゃない?」

「転校生レアすぎ」

「しかも背高いし!」


 ひそひそ声があちこちから上がる。

 あたしは何気なく彼の横顔を盗み見た。

 少し影のある目元と笑っていない口元。


 ……なんか大人っぽい。


 出席番号が読み上げられ、新しい席順が決まっていく。

 机の脚が床を引きずる音が重なり教室の空気がざらりと動く。


「花園の隣が空いてるな」


 高島先生の声が軽く響く。


「よし。是枝は花園の隣な」


 是枝くんがゆっくりと歩いてきて、あたしの机の横に鞄を置く。

 そのときわずかに漂った柔軟剤の匂いに一瞬だけいい匂いだと言いそうになる。

 彼が軽く会釈してよろしくと言い、あたしもとっさに小さく頭を下げる。


 前の席の梨沙が振り返ってウインクする。


「いいじゃん」


 紗月は顎を引いて、視線だけで“ほら”みたいに訴えてくる。


「近すぎじゃない?」


 柚菜がからかうみたいに言う。

 あたしは笑ってごまかすしかなかった。


 1時間目は案内と諸連絡だけで終わった。

 防災訓練やテスト日程、持ち物の確認。

 そのあと、クラス全員の自己紹介が順番に回る。


「花園瑠奈です。二年生になったけど、たぶん変わらず元気です。よろしくお願いします」


 軽く会釈すると、前列からやわらかい笑いがこぼれた。


「瑠奈のお母さん担当の小鳥遊です」

「カメラロール常時満杯の新藤でーす」

「寝るのが特技。倉谷です。以上」

「髪色は地毛でーす!水瀬でーす!」


 みんなの声が順々に飛んできて、空気が少しだけ明るくなる。


 是枝くんは変わらず落ち着いた声で簡潔に自己紹介をする。

 拍手がぱらぱらと続きまた静かになる。


 休み時間になると四人があたしの机に集まってくる。


「ねえ瑠奈」

「何」

「転校生だよ。転校生!やばいって」

「どのへんがやばいの」

「全部」


 美桜は目をまんまるにして、興奮したまま即答した。


「ありじゃない?…っていうか普通にレベル高くない?」

「たしかにそうかも」

「でしょー!」


 そこで横からチョコスティックをくわえたままの紗月がぼそっと挟む。


「分かる。総合点高い」


 机の上に小さな輪ができ、息をするたび空気が冷たく落ちてくる気がした。


「てかさ、新学期は午前で終わりだから、カラオケ行かない?」

「賛成!」

「行く。クーポンまだ使える!」


 紗月がスマホの画面をひらひら見せる。

 あたしはほんの少しだけ迷ったあと、行くと答えた。

 その言葉を出した瞬間、少しだけ心が軽くなる気がした。


 下校のチャイムが近づくころには空の色が明るさを増していた。

 スクールバッグを握り直して校門を出る。


 代官山の坂を五人で降りると制服のスカートが風でふわりと揺れる。

 会話が途切れず笑い声が何度も坂道にこだました。


 渋谷駅で降りると街の匂いが一気に濃くなる。

 交差点の人波に混ざると放課後のざわめきが体にまとわりつく。

 アーケードの天井のライトが反射して足元が白く光る。


「お腹すいた。先にポテトね」

「異論なし」

「ドリンクはシェイク頼も〜!」


 ファーストフード店のドアが軽い音を立てると揚げたての油の匂いが一気に押し寄せる。

 制服の袖にその匂いが染みつきそうであたしは少しだけ肩をすくめた。

 カウンターでトレイを受け取ると塩の粒が照明で光っていた。

 四角いトレイにポテトとソフトドリンクをのせて奥の席に滑り込む。


 紙ナプキンの端を指で折る音、ストローをさすプラスチックの音、ソーダが弾ける音が小さく重なる。

 窓際の席は夕方の光がまだ淡く差し込んでいて揚げたてのポテトから細い湯気が立ちのぼる。


「転校生どう思った?」


 美桜が一番に口火を切る。


「普通に顔いい」

「どっちかと言うと大人しい系だよね」

「絶対運動できるタイプでしょ」

「いや、勉強もできそうじゃない?」


 みんなの声が重なりあう。

 あたしはストローを噛んでごまかす。

 頬が熱いのは油のせいということにしておく。


 笑いながら声を上げるとテーブルの下で足先が軽くぶつかって、さらに笑いが広がる。

 美桜がスマホを構える。


「ソルグラム用に一枚ね。ポテト真ん中寄せて手だけ入れるやつ!」

「いくよー。せーの!」


 五人の指先が丸く並んで画面の中でポテトの山が花みたいに見えた。


「フィルター何がいいかな」

「春っぽい淡色でよくない?」

「ハッシュタグどうする?」

「JK2は固定でしょ!あと放課後!」


 わずと柔らかめのスタンプを追加する。

 ストーリーにあげるとすぐに既読がつき数字がひとつずつ増えていく。

 通知が光るスマートフォンを伏せてポテトをもう一本つまむ。


「じゃあカラオケ行こ!」


 美桜が立ち上がり全員のスクールバッグが一斉に椅子から外される。

 揺れたドリンクの氷がカランと鳴ってテーブルの上に小さな輪が残った。


 近くのゲームセンター併設のビルに入ると空調が冷たい。

 受付で学生証を見せてフリータイムを選ぶ。


「ドリンクバーあるじゃん。やった!」


 細い廊下の照明がピンクと青で交互に揺れて、テンションが少しずつ上がる。

 部屋の扉を閉めると外の雑音がふっと遠のき、テーブルの上に氷の入ったグラスが並んだ。

 ストローを押し込む音が重なる。


「じゃあ、最初あたしね!」


 美桜が迷わず立ち上がる。

 東野マナのイントロが軽く跳ね、スピーカーから明るい声が流れる。

「キー高っ!」と笑いながらも歌い切ると採点の星が右上で弾ける。


「いきなり80点超え!」

「さすが盛り上げ隊長!」


 梨沙はBlueNumberの『切ないバラード』を選ぶ。

 サビで目を閉じる癖は去年から変わらない。

 歌い終わると自然に拍手が起きる。


「今日声の調子いいじゃん」

「でしょ?」


 紗月はノリノリのダンス曲を選び、立ち上がってマイクを振る。

 指先につけたリングライトがピカピカ光って、部屋が小さなライブ会場みたいになる。

 みんなで合いの手を入れるとさらに盛り上がる。


 あたしはSOLWIMPSの『君と出会う前』を選ぶ。

 イントロが流れた瞬間、心拍が早くなる。

 歌詞を追いながら声を張ると、思ったよりちゃんと出た。


 画面に数字がはじかれる音がして、採点がぽんと表示された。八十台後半。

 歌い終わった息がまだ胸に残っていて、飲み物を飲んで、喉を潤す。


「いいじゃん!」

「安定〜!」


 からかわれてるのに、どこかほっとしてしまう。


 次は河野絃の『愛』。

 みんなで踊りながら口ずさむ。


「手の振り揃わない〜!」

「でも楽しい!」


 動画を撮ってソルグラムのストーリーに上げる。

 ハートのスタンプを貼ると画面の端で跳ねる。


「はい。次ドリンク追加〜!」


 ジンジャーエールとコーラとメロンソーダ。

 氷がグラスの内側で小さく鳴る音が心地いい。


「ポテト追加しよ!」

「え、ここでも食べるの?」

「カラオケのポテトって美味しくない?」


 美桜がそう笑いながらポテトを注文している。


「次なに歌う?」

「Perfuneいこ」


 美桜が完璧な手振りで踊る。


「やば、完全コピーじゃん」

「練習したからね〜!」


 紗月は洋楽、梨沙はまたバラード。

 あたしはruneの『アシタヘ』を選ぶ。

 歌っていると胸の冷たいところが少し溶けていく。

 サビで自然に目を閉じ、拍手が重なる。


「似合う」

「春っぽい」


 みんなに褒められてあたしは照れ隠しにストローを噛んだ。


 アニマルズの『伝えたくて』を五人で分け合って歌う。


「瑠奈、ハモリお願い」

「了解!」


 即興でパートを決めて歌い始める。

 偶然ぴったり重なった瞬間、笑いが起きそうになる。


「今の録音すればよかった!」


 採点はもう誰も気にしていない。

 マイクを花束みたいに持って記念写真を撮る。

 ソファの背にもたれて息を整える。

 壁の小さな時計がゆっくりと進んでいく。


「次プリね!」

「落書き長めにやろ〜!」

「盛れなかったら即撮り直し!」


 部屋を出るとき、グラスの氷がからんと音を立てる。みんなで残り時間を確認して忘れ物がないか確認してから部屋を出る。

 廊下の鏡に頬の赤さが映る。エレベーターの中で前髪を直す。スクールバッグのファスナーを閉める音が合図になる。

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