プロローグ

プロローグ

 あたしの時間は去年の冬で止まっている。

 それなのに世界はあたしを置き去りにしたまま、いつも通りの足取りで前へ進んでいく。


 松濤の家は広いのに、やけに狭く感じる。

 廊下の空気は乾いて冷たく、写真立てのガラスだけが白く光っている。

 東向きの自室には薄い朝が射し、窓ガラスをなぞる指先が肌の内側まで冷たさを沈める。


 遠くで電車の音がする。誰かの日常が車輪に結ばれて渋谷へ運ばれていく。

 あたしの時間は止まったままなのに、線路だけが今日を刻んでいる。


 机の上には鏡とコンタクトケース、乾いたスポンジ。

 引き出しにはプレゼントの口紅。

 どの色も今日のあたしには派手すぎる。

 笑う顔に乗せる言葉が見つからない。


 スマートフォンの画面を起動すると、光が部屋を少しだけ冷たくする。

 写真には彼の横顔、テニスコートでの笑顔。

 削除の赤い文字が告白みたいに目に痛い。

 消せば軽くなる気がして、消したら何かを失くす気もして、指先がホームボタンの上で止まる。


 机の奥の小箱には冬が入っている。

 震えと後悔とあたたかかった掌の記憶。

 触れたら泣きそうで、触れなければもっと泣きそうで、手が宙で止まる。

 人差し指の爪を無意識に弾いてしまう癖が、静かな部屋に小さく響く。


 泣きたいのに泪は落ちない。

 目の奥は熱いのに頬は冷たい。

 視線の置き場所が見つからない。


 去年の夏、あたしは取り返しのつかない一線を越え、冬にそれが露わになった。

 優しい声もあたたかい手も自分で手放した。

 寂しかっただけだと呟いても、言葉は喉で砕けて味がしない。


 深呼吸をしても空気は胸の入口で震え、肺の底まで届かない。

 一から十まで、十から一まで。

 ようやく喉の痛みが遠のく。


 通知は消してある。

 それでも振動の幻が胸を跳ねさせる。

 画面は黒いのに、誰かの言葉がどこかで動いている気がする。

 確かめれば傷つく。確かめなくても疼く。

 小さな黒い長方形は世界の窓であり、刃物でもある。

 そっと伏せた画面が、机にかすかな音を落とす。


 助けてと言えたら変われるだろうか。

 喉まで上がった言葉は声になる前に砕ける。

 飲み込んだ言葉は胸の底で重くなる。


 階段の手すりはヒヤリとしていて冷たい。

 家の静けさは自分の脈を大きくし、時計の秒針が壁で跳ねるたび、朝が動き出す。


 洗面台で口角を上げて笑顔の練習をする。


 鏡の中のあたしは見知らぬ誰かに似ている。

 夜の重さを抱いたまま、朝に向かって立っている。


 世界は今日も始まる。

 世界はあたしを待たない。


 今日もいつものふりをして歩くために。


 外の空気は冷たく、風が眠らない街の匂いを運ぶ。

 電柱の影が長く伸び、信号の青が静かに点滅する。


 あたしは歩く。

 止まった冬を抱えたまま。

 それでも前へ。

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