第9話 騎士団長との三カ月契約(1)
ヴァルム砦の一番奥まった棟は、ほかの建物よりも少しだけ石の積み方が丁寧だった。
とはいえ、それは「まだ崩れていない」という程度の意味でしかない。壁の継ぎ目には細かなひびが走り、人の出入りの少ない廊下には、冷えた空気と湿った石の匂いが溜まっている。
その廊下を、シュアラは副団長ゲルトの背を追って歩いていた。
「団長の部屋は一番奥だ。覚えとけ」
ゲルトが振り返らずに言う。
「……覚えました」
口に出しながら、廊下の幅と窓の位置を数える。人二人がぎりぎりですれ違える幅。窓は少ない。光よりも防御を優先した造りだ。
壁に掛けられた燭台の蝋は、ところどころ流れ落ちたまま固まり、白い鍾乳石の列のように石を汚している。交換が追いついていない。灯りは薄く、そのぶん足音だけがやけに大きく響いた。
(この棟の維持費だけで、どれくらいの兵糧が買えるでしょうか)
そんな計算が一瞬、頭をかすめる。
すぐに棚上げする。今それを続ければ、「砦ごと売却した場合の収支」まで計算してしまいそうだった。
廊下の突き当たりに、他よりも少し厚い木の扉があった。金属の取っ手は手垢で鈍く光り、そのすぐ下には、靴先で苛立ち紛れに蹴られたような傷が、何本も不揃いに刻まれている。
ゲルトが軽く扉を叩いた。
「若。連れてきたぞ。森で拾った、例の文官だ」
扉の向こうから、しばらく何の気配もなかった。
沈黙が、石壁と木板の間に薄く積もる。待たされている時間より、その沈黙の方が重い。
ようやく、椅子を引く音と、何かが床を擦る鈍い音が聞こえた。
「……入れ」
しわがれた低い声が、それだけを告げる。
ゲルトが扉を押し開けた瞬間、冷えた廊下の空気とは違う匂いが、一気に流れ出てきた。酒とインクと紙、それから、人の体温の蒸気が、ひとつの部屋の中に積もり続けた匂いだ。
部屋は、思っていたより広かった。
窓は一つ。厚いガラス越しに入る光は弱く、その代わりに机の上や壁際に置かれた燭台が、黄色い炎を小さく揺らしている。
中央には大きな机があり、その上と周囲を、雪崩寸前の書類と地図が占領していた。封の切られていない報告書、角が擦り切れた帳簿、端が焦げた古い地図。空になった酒瓶が、その間に紛れ込むように転がっている。一本だけ、ラベルの端が焦げて丸まっていた。火の近くに置きすぎたのだろう。そこだけ、煤の匂いが薄く残っている。
机の向こう側に、カイ・フォン・ヴォルフがいた。
鎧は半分だけ外し、肩から上は粗い布のシャツ一枚だ。黒曜石のような黒髪は、相変わらず好き放題に跳ねている。顎には無精髭が薄く伸びていた。
マグカップを持つ右手の甲に、線状の古傷が二本、平行に走っている。剣の柄を握りすぎて潰れた皮膚が、何度も裂けては塞がった跡だ。白く盛り上がった縁の部分だけ、灯りを弾いていた。
深い森色の瞳が、眠気と疲労を含んだまま、こちらを一度だけなぞる。
その目は、「無能で敗戦した男」のものには見えなかった。
(……この人が、「北境敗戦の責任者」)
父の帳簿に記された一行が、頭の中で重なる。
『現在砦司令:カイ・フォン・ヴォルフ(北境敗戦の責任を負わされ左遷)』
数字と短い注記だけで知っていた名が、今は、散らかった机と酒の匂いと一緒に、目の前の現実として存在している。
帳簿の行が、息をしている人間の姿に変わる瞬間は、いつも少しだけ気味が悪い。
カイは、目の前の女が今朝、森で斥候に絡まれていた相手だとすぐに分かった。自分の剣で一度、生かした女。名も身分も、まだ聞いていない。
「座れ」
カイが、机の前の椅子を顎でしゃくった。
背もたれの壊れかけた椅子が一脚。片方の脚の下には、薄い木片がかませてある。バランスの悪さをごまかすためだろう。
シュアラは、その椅子のぐらつきをつま先で軽く確かめ、それから静かに腰を下ろした。座面の板がきしんで、尻の骨に直接ひびく。
ゲルトは扉の前で腕を組んだまま、壁にもたれている。
部屋の真ん中に、静かな三角形ができた。
「名と身分」
カイが言う。
喉が、思っていたより乾いていた。
答えようとして、舌が一瞬もつれる。
「……シュ、アラ」
口の中で一度転がしてから、言い直す。
「シュアラ。臨時の、文官です」
「臨時」という言葉が、妙に安っぽく響いた。
昨日まで侯爵令嬢で、今は「死人」で、さらに「臨時」。肩書きの価値が、急激に暴落している。
「帝都のどの部署から追い出されて、ここまで流されてきた」
眠そうな目が、少し細くなる。
投げかけられた言葉は、皮肉と興味の中間にあった。
(「どの部署から」。つまり、この砦に来る文官は『どこかの余剰として送られてくる』のが通常、という前提)
確認だけ頭の中に置き、シュアラは少しだけ首を傾げた。
「……すべてから、です」
自嘲にも、開き直りにもならない声が出る。
「私はすでに──戸籍上は、死亡しておりますので」
言い切った瞬間、腹の奥で、小さく空気が動いた。
ぐう、とまではいかない。けれど、何かが抗議するように鳴る。朝からまともなものを食べていない。
この期に及んで空腹を主張してくる身体に、少しだけ呆れた。カイが気づいていないといい。
短い沈黙。
ゲルトが、喉の奥で小さく咳払いをした。笑いを噛み殺しているとも、何かを飲み込んだとも取れる音だった。
「……そうか。死んだ文官は、辺境に出るのか」
カイは、机の上にあったマグカップを手に取った。中身を一口あおる。酒の匂いが、薄く空気に広がったが、その表情に「酔い」の色は薄い。ただ眠れていない人間の目だ。
「公式な辞令は?」
問われた瞬間、シュアラは無意識に懐へ視線を落とした。
封蝋の感触が布越しに指先へよみがえる。あの死亡届に、正式な宛名が書き込まれれば、自分は完全に帳簿から消える。
「……ありません」
わずかに息を整えてから答える。
「封蝋のついた紹介状も、帝都の偉い誰かの印も?」
「ありません」
今度は、間を置かずに返す。持っていないものは、いくら考えても出てこない。
カイは、ふっと鼻で笑った。
「じゃあどうやってここまで来た」
問い自体は簡単だ。だが、答えは単純な一行で済まない。
山道の炎と煙、崖下の馬車の軋み、父の息が途切れる気配。帝都から山裾の宿場町までは馬車を乗り継ぎ、その先は──地図と、噂話と、自分の足で。全部を語れば、ここは尋問室になる。
だから、削る。
「地図と、噂話と、自分の足で」
シュアラは、自分の膝の上に置いた小さな帳面の表紙に視線を落とした。革の角が、何度も指で撫でられたせいで不自然に柔らかくなっている。
「ヴァルム砦は、帝都の帳簿上で『支援切り捨て候補』として記録されていました。司令官は、北境敗戦の責任を負わされて左遷された元第三騎士団長」
顔を上げ、カイの目を見る。
「余剰として扱われている盤面と駒。外側から試験的に運用するには、好適な条件です」
「……」
カイはカップを机に置いた。底が木を叩く鈍い音がする。
「簡単に言え」
「この砦を、三ヶ月だけ私に貸してください」
言葉が自分の喉を通って外に出た瞬間、耳がわずかに熱くなった。
昨日まで舞踏会でドレスを着ていた人間が、今は辺境の砦で「砦を貸してほしい」と言っている。
父が聞いたら、何と言うだろう。
(――計算は合っている、が、姿勢が悪いな)
そんな声が、頭の中でだけ響く。笑うか、呆れるか、それとも頷くか。
考え始める前に、その思考を切り捨てて、視線をカイに戻した。
「権限の話なら、あとにしろ」
カイは片手を上げて制した。
「まず確認する。お前は、帝都からの監察でも、俺を処刑しに来た役人でもない。そういう認識でいいか」
問いは鋭い。だが、矛先は自分ではなく、帝都のやり方そのものに向いているように聞こえた。
「……はい。帝都にとって私は、すでに『死亡処理済み』です」
言う前に、ほんの一瞬だけ躊躇があった。
だが、ここで嘘をつく方が、のちのコストが高い。
カイの顔に、一瞬だけ本気の驚きが浮かんだ。
ゲルトが、扉のそばで口笛を飲み込む。
「……はあ?」
「死亡届は、未使用のまま私の懐にあります」
懐の内側を軽く指先で叩く。封筒の縁の硬さが、布越しに伝わった。
「帝都の帳簿では死者。こちらの帳簿では、ひとつの駒。それが今の私です」
「……今の、それ、冗談か?」
ゲルトが眉をひそめる。
「事実の説明です。冗談のつもりはありません」
シュアラが素直に答えると、ゲルトは一度だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。
「……やっぱり、ちょっと怖えな、この嬢──この文官」
「嬢ちゃん呼びはやめましょう、副団長」
カイが低く言った。
森色の瞳が、シュアラからゲルトへと移る。
「今のは数字の話だ。気に入らねえなら、あとで酒場で殴り合え」
「……了解した、若」
ゲルトは舌打ちを飲み込み、壁にもたれ直した。
カイは再びシュアラを見る。
「で、その死人文官様が、こんな端っこの砦に何をしに来た」
「死人文官」という言い方に、ほんのわずか胸の内側が引っかくようにざらついた。だが、表には出さない。
「冬までの臨時文官として雇っていただきたいのです」
返事をする前に、一度だけ背筋を伸ばす。姿勢を整えないと、声がぶれる気がした。
「給金は、帝都の文官としての最低額で構いません。宿舎と机と、砦の帳簿へのアクセスをいただければ十分です」
「……冬まで?」
「はい。冬までの三ヶ月間。この砦とその周囲の村の『出血具合』を診断し、可能であれば、死亡率を下げます」
口の中で「死亡率」という単語が転がる。
舞踏会で使っていた語彙とは、あまりにも相性が悪い言葉だ。だが、今の盤面には、その言葉しか当てはまらない。
カイの目が細くなった。
「診断、ねえ」
「この砦は今、どこから死ぬか分からない状態です」
シュアラは、今朝見た光景を思い出しながら言葉を選んだ。
門、兵舎、倉庫、厩舎。数字になる前の断片たち。
「門は閉まらず、門番は眠り、倉庫には足りない穀物と濁った酒があり、兵舎には休まり切れない寝台と、錆びかけた武器が並んでいます。厩の馬は、かろうじて動けるだけの餌をもらっている」
列挙しながら、指先で机の端を軽く叩く。リズムを取るというより、自分の呼吸を一定に保つためのメトロノームだ。
「このまま冬を迎えれば──」
そこで意識的に一拍置く。
カイの目が、わずかに細くなる。ゲルトの息が止まった気配がする。
窓の外で、風が石壁を撫でる音だけが聞こえた。蝋燭の火が揺れ、それに合わせて影が机の上をゆっくりと横切る。
「冬までの死亡率は、およそ七十パーセントです」
言葉が、空気の中をゆっくり落ちていく。
自分の声なのに、他人が読み上げている数字のように感じた。
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