第8話 第ゼロゲーム、開幕

 兵舎の中は、外よりも冷たく感じた。


 窓は小さく、板でふさがれている。隙間から差し込む細い光が、空気中を漂う埃を一本一本拾い上げていた。二段ベッドがぎゅうぎゅうに並んでいるが、布団の数と枕の数が合っていない。足元には、丸めたまま放り出された服と、泥が乾いた靴が転がっていた。


 壁際の武器立てには、剣や槍や短剣が雑に立てかけられている。刃に薄く油の光が残っているものもあれば、すでに赤茶色がじわりと広がり始めているものもある。


 シュアラは一歩踏み入れ、鼻からそっと息を吸い込んだ。


 汗と湿りと、使い切った鉄の匂い。それに、鼻の奥に張りつくようなカビの気配が混じっている。窓を開ける習慣をどこかで落としてきた部屋の匂いだった。


(ここで眠っても、疲れは半分しか戻らない……)


 その感覚が、数字より先に頭に浮かぶ。枠は足りているはずなのに、人を休ませるための箱ではなく、人を摩耗させる箱になっている。


 頭の片隅で、砂糖壺の蓋を開ける音を思い出す。父の書斎で、帳簿を読み終えたあとにひとつだけもらえた角砂糖の白さ。舌の上で溶ける甘さを想像して、どうにか胸のざらつきを誤魔化す。


 ベッドの上で寝返りを打つ気配がして、ひとりの兵士が上半身を起こした。


 まだ若い。二十代の前半だろう。眠そうに目をこすり、シュアラとゲルトを順番に見比べる。


「……副団長? なんだ、その……誰だ、その人」


「文官だ」


 ゲルトが短く答える。


「名前はシュアラ。たぶん、これからお前らの飯と給金と命の数を数える奴だ」


「お、おい、そんな言い方……」


 兵士は困ったように笑い、「よろしくお願いします」と所在なげに頭を下げた。


 シュアラも、軽く会釈を返す。


 兵士の肩の線は、完全に折れてはいない。ただ、どういう姿勢で立っていればいいか忘れかけている人間の線だ。


(まだ、全部が崩れたわけじゃない)


 そう思うと、さっきまでより息がしやすくなった。


 兵舎を出て、次に倉庫を見た。


 扉を開けると、乾いた穀物の匂いがぶつかってくる。小麦の袋、豆の袋、干し肉の樽。並んではいるが、棚の一段ごとに空白が目立つ。袋の積み方には一貫性がなく、どこに何がどれだけあるのか、ひと目では掴みにくい。


 それでも、きちんと積もうとした手の痕跡はあった。袋の口を結び直した跡、同じ種類をそろえようとして途中で諦めたような並び方。


「冬を越すには……ぎりぎりか、少し足りないくらいだな」


 ゲルトが、棚を眺めながらぼそりと言う。


「今年の冬も、補給が遅れりゃ、誰かは腹を空かせる」


 その「誰か」に、顔も名前もついていないのが、かえって重い。


 シュアラは、穀物袋の縁を指で軽く弾いた。中身の音は、思っていたより軽かった。


「……どのくらい足りなくて、どこまでなら削っても倒れないか。まずは、その線を引き直します」


 自分に言い聞かせるように呟く。


「帳簿をいじるってやつか」


 ゲルトが片眉を上げる。


「はい。でも、紙の上だけでどうにかするつもりはありません」


 ここまでの光景を思い返す。門、兵舎、倉庫。どれも、少しずつ足りていない。少しずつ、手が離れている。


「死なない、ねえ」


 ゲルトは肩をすくめた。


「どこまでいっても、『誰か』は死ぬ。それが戦場だ」


「ここを戦場にする予定はありません」


 シュアラは一拍置いてから、はっきりと言った。


「ここは盤面の一マスです。削るにしても、最後の最後にします」


 自分でも、何を言っているのか少し遅れて理解する。言葉が先に走ってしまった。


 ゲルトは返事の代わりに、口の中で何かを噛み砕くような顔をした。


 最後に、厩舎を見た。


 屋根板の割れ目から差し込む光が、馬たちの背にまだらな模様を作っている。馬は四頭。肋が浮いているが、毛並みは思ったほど汚れていない。誰かが、決して十分とは言えない時間の中で、最低限だけは世話をしているのが分かった。


 水桶の水は少し濁っているが、鼻を近づけても腐臭はしない。干し草も、ぎりぎり「足りない」とは言い切れない量はある。


(全部を投げ出しているわけじゃない)


 シュアラは、いちばん近くにいた栗毛の馬の額にそっと手を伸ばした。馬の体温が、手袋越しにじわりと伝わる。


 馬は一度だけ鼻を鳴らし、それから目を閉じた。拒絶の気配はない。


「ここは、まだ『誰も守っていない砦』です」


 厩舎を出て中庭に戻る途中、歩きながらシュアラは小さくこぼした。自分の耳に届くかどうかの声で。


 ゲルトが、聞き取れなかったらしく首をかしげる。


「ん?」


「今のままだと、誰も守れていない砦です」


 シュアラは立ち止まり、ゆっくりと言葉を継いだ。


「門番も、兵舎も、倉庫も、厩も。自分たちを守ることで手一杯で……その『一杯』からもこぼれている」


 中庭の真ん中まで進むと、視界に砦の内側が一度に入ってくる。半開きの門。毛布を掛けられた門番。洗濯物がはためく噴水跡。錆の浮いた武器立て。骨ばった馬の背。こちらをちらりと見てすぐに視線を逸らす兵士たち。


「守られていない砦が、周りの村と街道を守れるはずがありません」


「身も蓋もねえ言い方をするな」


 ゲルトは苦笑するが、その声に怒りはなかった。


「でもまあ、そのとおりだ。若だって分かっちゃいる。分かっちゃいるが……どうにもならねえこともある」


 どうにもならない、という言葉に、父の声が重なった。帳簿の向こう側から、よくその言葉を聞かされた。


(『どうにもならない』は、手をつけないための便利な札だ――って、言ってたのは誰だったか)


 喉に引っかかった笑いを飲み込みながら、シュアラは城門の方へ視線を向けた。


 半開きの鉄扉からは、相変わらず風が吹き込んでいる。詰所の影では、毛布を掛けられた兵士が、さっきよりも深く息を吸っていた。


「この砦は、まだ完全には壊れていません」


 自分自身に聞かせるように、言葉が口をついて出る。


「壊れ切っていないなら……多少、並べ替えても崩れません」


 数字という言葉を飲み込んで、代わりに「並べ替え」と言う。口の中に残る鉄の匂いを、無理やり甘味の記憶で上書きした。


「嬢ちゃん、一つ聞くがな」


 ゲルトが歩調を落とし、横に並ぶ。


「あんた、本気でこんな端っこの砦を、帝都の帳簿とは別の『盤面』として動かすつもりか?」


 その問いには、驚きよりも、わずかな期待と警戒が混じっていた。


 シュアラは、マントの内側に手を入れる。指先が、自分の帳面の角を確かめた。その重さは、帝都から持ってきたときと何ひとつ変わっていないのに、今は違うものに感じられる。


「……はい」


 一拍遅れて、声が出た。


「そのために、ここに来ました」


 ゲルトはしばらく空を見上げた。


 灰色の雲が、砦の上をゆっくりと流れていく。まだ雪にはならない、冷たい雲だ。


「……若が、あんたをどう判断するかは知らねえがな」


 副団長は、ぽつりと呟く。


「俺個人としては、一度くらい、『誰かに守られてる砦』ってやつを見てみてえもんだな」


「それは、私の仕事じゃありません」


 シュアラは即座に否定した。否定してから、少しだけ言葉を足す。


「私は、『守られている』状態を数字にして並べるだけです。実際に守るのは、剣を持つ人たちの役目です」


 ゲルトは、その言葉を咀嚼するように目を細めた。


「そうかい。……じゃあ、その『数字』ってやつを、若に見せてやってくれ」


 中庭の向こう、砦の中心にある石造りの塔──おそらく団長の執務室が入っている棟を、顎で示す。


「あいつは今、自分が『誰も守れてねえ』ってことだけは分かってる。そこから先に進むには、何かが足りねえ」


 足りない何か。


 シュアラは、自分の懐にある薄い帳面の重みと、『帝国破産帳簿』の冷たさを思い出す。


 帝国の内側ではもう死者とされた、自分自身の名前。その代わりに用意した、死人文官というラベル。


 砦の石壁に沿って吹き上がる風の音が、少しだけ強くなった。


 中庭の真ん中で立ち止まり、シュアラは砦全体を見渡す。


 半開きの門。毛布を掛けられた門番。洗濯物がはためく噴水跡。錆びかけた武器。骨ばった馬。ぼんやりとこちらを眺める兵士たち。


 誰も守っていない砦。


(だからこそ、触りやすい)


 喉の奥で、小さく笑いそうになるのをこらえる。ゼロに近いところからなら、数字が一つ動いただけでも変化が分かる。失敗しても、もともとの「守られていない」に戻るだけだ。


 それは、帳簿の上ではとても扱いやすい盤面だった。


 シュアラはマントの内側から、自分用の小さな帳面を取り出した。


 最初のページの余白に、静かに一行を書く。


『ヴァルム砦 現状:防衛機能ほぼゼロ/再構成余地大』


 インクが乾く前に、視線をその下へ滑らせる。


 そこにはすでに、小さく記してある。


『第0ゲーム:試験国家ヴァルム』


 その右側に、今日の日付を足した。


 帝国のどこにも属さない、辺境の砦の中庭で。死人とされた文官が勝手に定めた、新しいゲームの開始日だ。


 帳面を閉じる。


 風が、洗濯物を大きく揺らした。


 誰も守っていない砦の上に、ようやく一つ、「盤面を動かそうとする手」が置かれた。

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