第2話 オムライスは愛のかけ声

 春の午後、窓から差し込む光がキッチンの床に柔らかい影を落としていた。昨日引っ越してきたばかりの米田ひかりは、まだ慣れないシェアハウスの空気に少し緊張しながら、エプロンの紐を結んでいた。新しい生活に胸を躍らせつつも、共同生活に馴染めるかどうか不安が残っている。三人の先住者はそれぞれ個性が強く、晴は落ち着いた兄貴分、美咲は自由奔放なムードメーカー、崇は理屈っぽい研究者。彼らの輪に自分がうまく入れるのか、ひかりは心の奥で小さな不安を抱えていた。


「今日はオムライスに挑戦だ」

 塩見晴が、エプロン姿でにこりと笑った。社会人である彼は、仕事帰りでも料理を楽しむ余裕を持っていて、シェアハウスの頼れる兄貴分だ。ひかりは思わず目を丸くした。

「えっ、オムライスって難しいやつじゃないですか?卵がふわっとならないと……」   ボウルを見つめ、不安そうに眉を寄せる。晴は弟を見守る兄のように微笑んで「大丈夫。失敗しても食べられるし、俺がフォローする」と言った。


葉山美咲は、テーブルにケチャップを置きながら、

「文字書こうよ!『LOVE』とか『WELCOME』とか。映えるし!」

 と楽しそうに提案する。彼は自由奔放で、場を明るくするムードメーカーだ。

茶谷崇は真面目に、

「料理は科学だ。卵の凝固温度を理解すれば成功率は上がる」

 と解説を始める。大学院で食品科学を研究している彼は、理屈っぽいが憎めない存在だ。


「……難しいこと言わないでください!」

 ひかりは笑いながら卵をかき混ぜた。


フライパンにバターを落とすと、じゅっと音を立てて溶け、甘い香りが広がった。「この香りだけで幸せになるな」

 美咲が鼻をひくつかせる。

「バターの乳脂肪が熱で分解されて香り成分が――」

 崇がまた語り始めるが、晴が「はいはい、理屈はあとで」と笑って遮る。


ひかりは緊張しながら卵液を流し込んだ。黄色い生地がじわりと固まり始める。

「ここで一気に混ぜる!」

 晴が声をかける。

「がんばれー!」

 美咲が応援する。

「タンパク質の網目構造が――」

 崇の解説は途中で遮られた。

「えいっ!」

 ひかりが勇気を出してフライパンを振ると、卵がふわっと形を整えた。


別の鍋では、玉ねぎと鶏肉を炒めていた。油の中で玉ねぎが透き通り、鶏肉が香ばしく色づいていく。

「ここにケチャップを投入!」

 美咲が声を上げる。赤いソースがじゅっと広がり、甘酸っぱい香りが漂う。

「ケチャップの酸味が米と合わさると、旨味が引き立つんだ」

 崇が真面目に補足する。炊き立てのご飯を加えると、ぱらぱらと音を立てて混ざり合い、鮮やかな赤いチキンライスが完成した。その上に、ひかりが作ったふわふわの卵をのせる。ナイフを入れると、とろりと広がる黄金色。

「できた……!」

 ひかりの目が輝いた。


美咲がケチャップで「WELCOME」と書き、写真を撮る。

「初めてにしては上出来だ」

 晴が肩を叩く。

「卵の火加減が絶妙だ」

 崇が真面目に評価する。ひかりは一口食べて、思わず笑顔になった。

「美味しい……!なんか、みんなの声が力になった気がする」

「そうだな。オムライスは愛のかけ声でできてるんだ」

 晴が冗談めかして言うと、みんなが笑った。


食卓は笑い声で満ちていた。

「俺、小さい頃、母さんが作ってくれたオムライスに『がんばれ』って書いてくれたんだよな」

 晴が懐かしそうに語る。

「俺は『テスト頑張れ』って書かれたことある。逆にプレッシャーだったけど」

 美咲が笑う。

「文字は情報伝達だ。ケチャップで書くのは合理的だ」

 崇が真面目に言い、みんなが吹き出す。ひかりは黙って聞いていたが、心の奥が温かくなるのを感じていた。自分もこの輪の中にいるのだ、と。


食事を終えると、4人はリビングでコーヒーを飲みながら談笑した。

「次は何作ろうか。グラタンとか?」

 美咲が提案する。

「いや、まずは基本のカレーからだろう」

 晴が言う。

「カレーのスパイス配合は科学的に――」

 崇がまた語り始め、笑い声が広がった。ひかりはその輪の中で、自分が少しずつ馴染んでいくのを感じていた。昨日までの不安は、もうどこかへ消えていた。


夜になり、窓の外には春の星が瞬いていた。ひかりは自室に戻り、机に座って今日の出来事を思い返した。卵を振るときの緊張、みんなの声援、ナイフを入れた瞬間の黄金色。どれも鮮やかに心に残っている。料理はただの食事ではなく、人と人をつなぐものだと感じた。ここでの暮らしは、きっと温かいものになる。そう思いながら、ひかりは静かに目を閉じた。

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