第9話:修学旅行②【10月21日】

深夜、布団の端で何度も寝返りを打った。

千代里ちゃんも緋香里ちゃんもすでに浅い眠りに沈んでいて、部屋はさざめきのない重さを帯びている。

耳に入るのは掛け布団の擦れる音と、廊下の遠い話し声だけだった。

隣で寝息を立てる真帆の肩の輪郭が、月明かりに淡く溶けて見える。

入浴後、真帆と話そうとしたが千代里ちゃんと緋香里ちゃんが一緒にいる限り、深い話はできなかった。


眠りに落ちかけては、いつもの夢を見る。

毎度同じ景色が欠け落ちるように現れ、消える。手を伸ばすと誰かの手が握っていて、声があった。

『昴くん、お願い——』とだけ、いつもそこに届く。

言葉は途切れ、世界がすっと引き伸ばされる感覚で目が覚める。

胸の奥が重く、眼を閉じても俺を呼ぶ声が残っていた。

くらりと起き上がり、隣の真帆の肩にそっと触れる。

寝息は変わらない。部屋の窓から差し込む夜明け前の薄い青が、畳の縁を冷たく照らしている。

眠れないまま、俺は布団の中で夢の中の声を思い返す。”美桜”の声、悲痛な、一心に全てを振り絞った声だ…そして──握り返す手の暖かさ。その感触が、どうしても現実の記憶に結びつかず、頭の中でちらつく。


やがて夜が白み、雑談と朝の準備の音が廊下から聞こえてきた。

今日は修学旅行2日目、班別自由行動の日だ、昴とも一緒に行動する…

朝食を済ませて、自由行動の集合時間まで少し余裕があった。

今日の予定を見返す。しおりは几帳面にまとめられた千代里ちゃんの手作りだ、所々緋香里ちゃんの絵も混じっているところが可愛らしい。

朝一で金閣寺、竜安寺、仁和寺、北野天満宮、昼食、嵯峨嵐山駅周辺、天龍寺、嵐山竹林の小径、渡月橋周辺でカフェ休憩、宿舎へとなっている。千代里ちゃんらしい効率的なスケジュールだ。

「結構ハードだよね。美桜ちゃん」

後ろから、真帆が手元を覗き込んでいた。

「だよね。でも色々見て回れて良いよね。」真帆は昨日のことを覚えているのかいないのか、何時もの真帆のようで。安心する。

***

俺たちの班は、朝の澄んだ空気の中を金閣寺へ向かって歩き出した。観光客の波に混ざりながら、制服姿の集団は目立つようで、外国人に写真を頼まれる場面もあった。金色に輝く舎利殿が池に映る様子は、何度見ても現実感が薄く、夢の中の風景のようだった。

「写真撮ろうよ、美桜ちゃん!」

真帆がスマホを構えて俺の腕を引く。俺は笑顔を作って並ぶが、心の奥では昨夜の真帆のことがまだ消えずに残っていた。真帆の声はいつも通り明るく、昨日の“あの瞬間”を覚えているのかどうかはわからない。けれど、彼女の瞳が俺を見つめるとき、ほんの一瞬だけ、別の誰かの視線に変わるような気がする。

昴が俺たちの写真に割り込むように、笑顔で駆け寄ってきた。

「俺は中学のときにも、金閣寺来たけど。寿さんのとこは違った?」

「…っ。」

俺は一瞬、言葉に詰まった。美桜の中学の修学旅行先なんて、知らない。記憶を探っても、何も出てこない。

やめてくれよ……そういう“過去の話”は地雷だって言うのに、何故解ってくれない!と昴るを心で睨む。


「えっと……」と口ごもると、真帆が代わりに答えた。

「中学のとき、私と美桜は奈良だったよ。確か、東大寺とか春日大社とか」

「あー、そっちもいいよな。大仏、でかかったもんな」昴は満足げに頷く。

……何が”でかかった”だ、お前は行ったことないだろ、知識だけの癖に!俺は騙せないぞ俺なんだから。

俺が曖昧に笑っていると… 真帆が昴に見えないように俺にウィンクする。目の色が、昨日の“美桜”のときと同じだった。どうやら口ごもった俺を助けてくれたらしい。

俺は小さく「ありがとう」と呟いた。

すると真帆は、少し首を傾げて微笑んだ。

「……何のこと?」

その一言に、俺は言葉を失った。

冗談めかした返しにも聞こえるが、どこか本気のようでもある。

“美桜”が表に出ていたのか、それとも真帆自身が気づいていないのか。

その曖昧さが、かえって確かなもののように思えた。

竜安寺では石庭の前に座り、静かな時間を過ごした。

白砂に浮かぶ十五の石が、どこか不完全な均衡を保っているようで、見ていると不思議と心が落ち着く。班の男子たちは「全部見える角度あるのかな?」と騒いでいたが、俺は真帆の隣で黙って座っていた。

「ねえ、美桜ちゃん、あの石って何か意味あるのかな?」

真帆が小声で尋ねる。俺は答えようとして、ふと昴の視線に気づいた。少し離れた場所から、俺たちを見ている。目が合うと、昴は軽く手を振った。

……お前は今、手を振るタイミングじゃない。

俺は「……わかんない。たぶん、見る人によって違うんじゃないかな」と答えながら、真帆の横顔を盗み見る。彼女は石庭を見つめたまま、何かを考えているようだった。

仁和寺では広い境内をゆっくり歩いた。千代里ちゃんがしおりを確認しながら「次は北野天満宮ね」と声をかけると、緋香里ちゃんが「おみくじ引きたい!」と張り切っていた。昴はまた俺の隣に並び、何気なく話しかけてくる。

「美桜ちゃんって、神社とか好き?」

「……うん、まあ」

答えながら、俺は少しだけ距離を取った。昴の言葉はいつも自然で、悪気はない。でも、今は真帆と話したいのに、昴が割り込んでくるたびに、心の中がざらついた。

……お前、俺のくせに空気読めよ。

いや、俺だったからこそ空気読めないのか。なんだこの皮肉。

昼食は嵯峨嵐山駅近くの食堂で、千代里ちゃんが予約してくれていた。和風の定食が並び、みんなで席を囲む。緋香里ちゃんが「この漬物、めっちゃ京都っぽい!」と騒ぎ、昴が「それ、どういう意味?」と突っ込む。笑い声が絶えない中、真帆は俺の隣で静かに箸を動かしていた。

食後、嵐山の竹林を歩いているとき、ようやく少しだけ昴が離れた。俺は真帆と並んで歩きながら、昨日の夜のことを思い出していた。どんなに探しても居なかった”美桜”。”美桜”が話し、笑ってくれた、”美桜”は真帆の中にいた…だが、”美桜”と真帆の状態がどうにも解らない。

真帆は”美桜”をどう認識しているのだろうか…なんだかスイッチのオンオフのように意識が切り替わっているようにも見える。

「ねえ、美桜ちゃん」

真帆がぽつりと声をかけてきた。

「昨日の夜……私、何か変なこと言ってなかった?」

俺は立ち止まり、竹の葉が風に揺れる音を聞きながら答えを探す。

「うん……ちょっとだけ。でも、気のせいかもしれない」

真帆は首を傾げて、少しだけ笑った。

「なんかね、夢の中で誰かと話してた気がするの。……すごく懐かしい感じがした」

その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。

渡月橋のたもとのカフェに入ると、窓の外では夕陽が川面を照らしていた。俺たちはその光の中で、少しだけ未来に近づいた気がした。


***


宿に戻ると、廊下には他の班の女子たちの笑い声が響いていた。部屋に入ると、畳の匂いと布団の並ぶ光景が、昼間の観光とはまるで別世界のように感じられた。

俺は荷物を置いて、真帆の方をちらりと見る。昼間の竹林での会話が頭に残っていて、もう少し話したい気持ちがあった。でも女子部屋では、緋香里ちゃんと千代里ちゃんが中心になって盛り上がっていて、真帆もその輪の中にいた。

「王様ゲームやろうよ!」

緋香里ちゃんが唐突に言い出すと、千代里ちゃんが「え、夕食前よ」と呆れたように返す。

「いいじゃん、まだ時間あるし。軽くやろうよ」

「軽くって……?」千代里ちゃんが眉をひそめる。

「好きな人暴露とか、秘密とか、そういうやつ!」緋香里ちゃんはノリノリだ。

「全然軽くない…」真帆が叫ぶ。

俺は座卓でお茶を飲みながら、内心でため息をついた。

……いや、やめてくれ。そういうのは、俺が一番困るやつだ。

頼む千代里ちゃん止めてくれと。心で願うが…

緋香里ちゃんは準備をさっさと終えるとゲームが始めてしまう。割り箸の先に書かれた数字が回っていく。千代里ちゃんがやれやれと頭を振っている。…千代里ちゃん諦めないで…

「よし!王様は……私!」緋香里が叫ぶ。

…願いは叶わなかった…

「じゃあ、2番は3番の知っている恥ずかしいことを暴露する!」

千代里が「またそういうのを……」と呟きながらも、2番の真帆が手を挙げ、俺も3番の割りばしを上げる。

「えっと……ん~美桜は高校に入るまで人形を抱いて寝ていた。」

「え!(そうなの?)」俺は思わず息を呑んだ。

「なんで、美桜ちゃんが驚いてるの?」

「ふふん、"美桜"しか知らない秘密でした。」真帆が得意げにしている。

「へーそうなんだ、美桜ちゃんの驚き方を見てると嘘ではないみたいだね。へー」

真帆は笑ってウィンクしている、どうやら本当に"美桜"だけが知っている秘密らしい…

そのとき、ドアがガラッと開いた。

「やっほぉ、女子諸君!遊びに来たよ~!」男子の声が響く。手を引かれて昴もいる。同じ班の男子共だ。

「おい、女子部屋突入とか、見つかったら停学ものだぞ…」昴が止めようとしているようだが、他の男子の勢いに負けている…

……情けない……

「ちょっと!男子は入っちゃダメ!」千代里ちゃんが立ち上がる。

「やば、千代里ガチ怒ってる!」緋香里ちゃんが笑う。

「昴くん、何してんのよ!」真帆が慌てて叱責する。いや"美桜"かな?

「いや、俺は止めようとしたんだが…」

俺は頭を抱えた。

……なんでこうなる。お前、俺のくせに弱すぎ…ここも俺の記憶と違う話だ、たしか俺の時は止めたぞ!


男子と千代里ちゃん、真帆で揉め始め、昴は間でオロオロし、緋香里ちゃんは大笑いしている。


「あ、ヤバイよ…先生来たみたい。足音が聞こえるよ。」緋香里ちゃん

「ぅお、ホントだヤバイ!」男子がドアと窓から散り散りに逃げ出す。オロオロしていた昴は出遅れてしまったようだ。

俺は、昴の手を掴んで押し入れに入る…

「こらーまてー!!」

「お前ら、何してる!問題起こすなとあれほど!」

先生一人が、廊下に逃げ出した男子を追いかけ、一人が女子部屋に勢い込んで入って来た。

「ちっ、窓から逃げたか…千代里、何してた…説明しろ」

という声が押し入れの前から聞こえる…


(あれ…慌てて行動しちゃったけど……)俺の右手が掴んでいる物に思考が行く…

手だけでなく結構密着している気もしないでもない…狭い空間に二人。布団の匂いと昴の体温が近すぎて、俺は思わず身を引いた。

昴…俺ってこんなにこんなに良い身体してたっけ?今の俺(美桜)が凄く小さく儚く感じる。

先生が居るので、声を出せないが口が震えてるのを感じる。

「寿さん、最近俺のこと避けてる?」

昴が、ぽつりと呟いた。

俺は言葉に詰まった。

(……それは)

実際昴との距離感、今とこの先の事について何が正しいのかも解らない現状なのだから

避けるようにするしかないじゃないか。解れよ昴。

「寿さん、前より笑わなくなったよね。いつも何か考えているようで、俺のことを避けてる気がしてさ」

昴の声は真剣だった。

昴の気持ちは解る。なんせ俺だからな…たぶん、今の俺の態度はかなり昴を傷つけているだろう…

だが、俺にどうしろって言うんだ、教えて欲しい。お前も俺なんだから助けてくれよ。

「……別に、避けてないよ」

俺はそう答えるしかなかった…


昴を除く三人は無事に?捕まり説教を受けたらしい。

今のご時世、昔と違って異性部屋突入とか、覗き見とか冗談では済まない事案なのだが、夕食前の、僅かな時間という事もあり、反省文で許されることになったらしい。消灯時間後なら退学もあり得たぞ、お前ら。


結局、今日はゆっくり真帆と話せなかったな…

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