第2話 御簾の向こうの世界  

死んだはずなのに、目が覚めた。

* * *

最初に感じたのは、柔らかさだった。

背中に当たる布の、絹のような滑らかさ。頭を支える枕の、ふかふかとした弾力。

病院のベッドじゃない。

そもそも、私は病院に運ばれたのだろうか。あの事故で、生きているのだろうか。

ゆっくりと、目を開けた。

——知らない天井だった。

木目の美しい板張り。薄暗い中に、蝋燭の光が揺れている。

蝋燭?

体を起こそうとして、違和感に気づいた。

重い。体が重い。いや、違う——

服が、重い。

見下ろすと、私は何枚も重ねた着物を着ていた。淡い桜色の生地。複雑に重なった襟元。これは——十二単、というやつだろうか。

自分の手を見た。

細い。白い。爪は丸く、手入れが行き届いている。

私の手じゃない。

* * *

「北の方様、お目覚めですか」

声がした。

振り向くと、部屋の隅に女性が控えていた。彼女も着物を着ている。私のものより地味だが、それでも上等そうな布地だ。

彼女は深々と頭を下げた。

「お熱が下がったようで、何よりでございます。五日も寝込まれていたので、皆、心配しておりました」

五日?

いや、それより——

北の方、って何?

「あの……」

私の声が出た。でも、それは私の知っている声じゃなかった。もっと高くて、柔らかい。

「……鏡を、見せてもらえますか」

女性は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。

「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」

* * *

運ばれてきたのは、銅でできた丸い鏡だった。

現代の鏡ほど鮮明ではない。でも、映っている顔が自分のものではないことは、はっきりとわかった。

黒い髪が、床に届くほど長く伸びている。切れ長の目。通った鼻筋。薄い唇。

美しい顔だった。——でも、私の顔じゃない。

鏡を持つ手が、震えた。

これは、何?

私は、誰?

ここは、どこ?

頭の中で、疑問が渦を巻く。

女性が心配そうに私を見ていた。

「北の方様? お加減がよろしくないのでしょうか。まだお熱が……」

「いえ」

私は首を振った。

混乱している。でも、取り乱すわけにはいかない。

——何が起きているのか、まず情報を集めなければ。

仕事で身についた習慣が、混乱した頭を落ち着かせる。

「あなたの、名前は?」

女性は目を丸くした。

「……小萩と申します。北の方様のお世話をさせていただいております女房でございます。もしや、お熱のせいで記憶が……?」

記憶喪失——そういうことにしておこう。

「少し、混乱していて。いろいろ教えてもらえると、助かります」

小萩は少し考え込むような顔をしたが、やがて頷いた。

「かしこまりました。では、順を追ってお話しいたしましょう」

* * *

小萩の話を聞きながら、私は状況を整理していった。

まず、ここは「瑞穂国」という国らしい。日本、ではない。

都は「雅京」。京都のような場所だが、京都そのものではない。

帝がいて、貴族たちが宮廷を構成している。制度や文化は、平安時代によく似ている——けれど、微妙に違う。

平安風の、異世界。

ネット小説で読んだことがある設定だ。まさか、自分がその当事者になるとは。

「私の名前は……」

「桜花様でございます。橘家のご息女で、先月、左大臣家にお輿入れされました」

桜花。さくら、と読むのだろうか。

——咲良と、一文字違い。

偶然にしては、できすぎている。

「左大臣家というのは」

「はい。この国で最も権勢のある貴族の家でございます。北の方様は、その嫡男・光雅様の正妻として迎えられました」

正妻。北の方。つまり——

また、夫がいるのか。

私は思わず苦笑した。

小萩が不思議そうな顔をする。

「北の方様?」

「いえ、何でもない。……その殿様は、今どちらに」

「殿様は、北の方様がお熱を出されてから、毎日お見舞いにいらしておりました。今日も夕刻にはお越しになるかと」

毎日、見舞いに来ていた。

……優しい人、なのだろうか。

前世の夫も、最初は優しかった。結婚式では誰よりも幸せそうに笑っていた。それがいつから変わったのか、今となってはわからない。

「殿様は、どんな方ですか」

小萩は少し考えてから、答えた。

「お優しい方です。誰に対しても穏やかで、怒ったお顔を見たことがございません。和歌も政もよくお出来になり、帝からの信頼も厚いと聞いております」

完璧、ということか。

——完璧すぎて、逆に怖い。

* * *

少し体を動かしたくなって、私は窓辺に向かった。

窓、といっても、ガラスがあるわけではない。細い竹を編んだ簾——御簾というのだろう——が下がっている。

御簾越しに、外を見た。

美しい庭園が広がっていた。

池があり、橋が架かり、季節の花が咲いている。向こうには雅な建物がいくつも見える。渡り廊下で繋がった、巨大な屋敷群。

行き交う人々の姿も見えた。皆、着物を着ている。男性は烏帽子を被り、女性は長い髪を垂らしている。

本当に、異世界なんだ。

実感が、少しずつ湧いてくる。

私は死んだ。そして、この世界で目を覚ました。

なぜ? どうして?——そんなことを考えても、答えは出ない。

ただ、ひとつだけ確かなことがある。

私は、生きている。

前世では、何も言えずに終わった。

夫に裏切られて、言葉を失って、そのまま死んだ。

——今度は。

今度は、どうする?

夕暮れの空が、御簾越しに見えた。

茜色に染まった雲。飛んでいく鳥の影。

小萩の声が、後ろから聞こえた。

「北の方様、殿様がお見えになりました」

* * *

心臓が、跳ねた。

振り向くと、部屋の入り口に男性の影があった。

御簾越しに見える姿は、ぼんやりとしている。それでも、背が高く、姿勢が良いことはわかった。

「桜花、入ってもよいか」

低く、落ち着いた声だった。

前世の夫とは、全く違う声。

「……はい」

答えると、御簾が上がった。

——そこにいたのは、絵巻物から抜け出したような男だった。

整った顔立ち。長い黒髪を後ろで束ねている。直衣姿が、驚くほど様になっている。

彼は私を見て、穏やかに微笑んだ。

「熱が下がったと聞いた。よかった」

優しい言葉。優しい声。優しい笑顔。

——でも、私は気づいた。

この人の目は、笑っていない。

表情は完璧だ。声も完璧だ。でも、目の奥に温度がない。

義務として、ここにいる。——そんな印象を受けた。

「……ありがとうございます」

私は頭を下げた。

この人が、私の夫。

この世界での、夫。

光雅は少し不思議そうな顔をした。

「どうした。何か、様子が違うようだが」

——やはり、元の桜花とは違うと思われているのか。

「熱のせいか、少し記憶が曖昧で」

「そうか」

光雅は頷いた。追求する気配はない。

「無理はするな。まだ本調子ではないのだろう。ゆっくり休むといい」

そう言って、彼は立ち上がった。

「明日また来る」

それだけ言って、光雅は去っていった。

* * *

御簾が下りた後、小萩が隣に来た。

「殿様、ご心配されていたのですね」

「……そうね」

心配、していたのだろうか。

あの目を見る限り、そうは思えなかった。

でも、毎日見舞いに来ていたのは事実だ。全く関心がないわけでもないのだろう。

——わからない。この人のことが、わからない。

前世の夫は、わかりやすかった。最初は優しくて、だんだん冷たくなって、最後には他の女と笑っていた。

光雅は違う。最初から、何を考えているのかわからない。

私は窓辺に戻って、夕暮れの空を見上げた。

鳥が一羽、飛んでいく。

「北の方様」

小萩が声をかけてきた。

「何か、お考えですか」

「……少しね」

前世の私は、言葉を飲み込んで死んだ。

言いたいことを言えないまま、何もできないまま、全てを失った。

今度は——

その先を、まだ私は知らない。

でも、ひとつだけ決めた。

同じ後悔は、二度としない。

夕闇が、ゆっくりと庭園を包んでいく。

新しい人生が、始まろうとしていた。


第二話 完

第三話「この世界のルール」へ続く

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