【平安サレ妻】転生したら浮気夫持ちの平安妻でした~和歌で煽り返したら宮廷最強になった件~

ソコニ

第1話 言い返せなかった女


言葉は私の武器だった。

——はずだった。

* * *

「咲良さん、このキャッチコピー、やっぱり最高だよ」

後輩の田中くんが、私のデスクに資料を置きながら言った。

画面には、来月公開予定の化粧品CMの企画書が映っている。

『その一滴が、あなたを変える』

私が三日かけて絞り出したコピーだ。クライアントも気に入ってくれた。会議では「さすが橋本さん」と褒められた。

広告代理店で働いて七年。コピーライターとして、それなりの実績を積んできた。言葉を操ることが、私の仕事。言葉で人の心を動かすことが、私の誇りだった。

——仕事では。

* * *

午後九時。残業を終えて、オフィスを出た。

スマートフォンを見る。夫の裕也からのLINEは、今日も「遅くなる」の一言だけ。既読をつけて、返信はしなかった。

結婚五年目。

最近、夫の様子がおかしいことには、気づいていた。

帰りが遅い。それは前からだ。彼も広告業界で働いている。残業は日常茶飯事。でも、最近は頻度が違う。週に三日は午前様。

香水の匂い。私が使っていない、甘い香り。シャツの襟元から、かすかに。

スマホを隠すような仕草。以前は食卓にぽんと置いていたのに、最近はポケットに入れたまま。通知音が鳴ると、さりげなく背を向ける。

気づいていた。

でも、問い詰められなかった。

もし違ったら、どうしよう。

もし本当だったら、どうしよう。

どちらの答えも怖くて、私は口を閉ざしたまま、三ヶ月が過ぎていた。

* * *

駅前のカフェで、コーヒーを買おうと思った。

疲れていた。家に帰っても、夫はいない。冷たいマンションの一室で、一人で夕食を食べるのが億劫だった。せめて温かい飲み物でも、と思った。

カフェの扉を押した。

——そして、足が止まった。

窓際の席。

夫がいた。

隣には、知らない女。

二人は手を重ねていた。見つめ合っていた。笑っていた。

世界が、止まった。

カフェの喧騒が、遠くなる。BGMが消える。他の客の話し声が聞こえなくなる。

視界の中央に、二人だけが映っている。

女は若かった。私より五つは下だろう。長い髪。華奢な体。無邪気に笑う顔。

そして夫は——

私に向けたことのない顔で、笑っていた。

* * *

頭が、真っ白になった。

言いたいことは、山ほどあった。

「何やってるの」

「誰、この人」

「ふざけんな」

「五年間、何だったの」

「私のこと、愛してないの」

「どうして」

——でも。

声が、出ない。

喉が詰まる。舌が動かない。言葉が、音にならない。

仕事では、あんなに饒舌なのに。

クライアントの前では、いくらでも言葉が出てくるのに。

本当に大切なことを、本当に言いたいことを——

私は、言えない。

夫と、目が合った。

彼の顔が、驚愕に歪む。

「咲良……?」

女が、私を見た。不思議そうな顔。「誰?」とでも言いたげな目。

——逃げた。

私は、逃げ出した。

* * *

走った。

ヒールが石畳を叩く音が、やけに大きく聞こえた。

涙が止まらなかった。

悔しかった。

夫に裏切られたことが悔しいのか。

何も言い返せなかった自分が悔しいのか。

わからなかった。

ただ、胸が痛かった。

息が苦しかった。

視界が滲んで、前がよく見えなかった。

——横断歩道。

信号は、赤だった。

気づいた時には——

白い光が、視界を埋め尽くしていた。

* * *

クラクション。

悲鳴。

衝撃。

——そして、静寂。

暗闇の中で、私は考えていた。

不思議と、痛みはなかった。

ただ、後悔だけが、胸の中に広がっていく。

言いたかった言葉が、次々と浮かんでは消えていく。

「どうして」と、言えばよかった。

「許さない」と、言えばよかった。

「出ていけ」と、言えばよかった。

なんでもいい。

何か、言えばよかった。

——なんで私は、何も言い返せなかったんだろう。

最期に浮かんだのは、言いたかった言葉じゃなかった。

「なぜ言えなかったのか」という、問いだった。

意識が、沈んでいく。

暗闇が、全てを飲み込んでいく。

* * *

——これで、終わりだと思った。

何も言い返せないまま、私の人生は終わるのだと。

でも。

それは、終わりじゃなかった。


第一話 完

第二話「御簾の向こうの世界」へ続く

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