第2話 10年の陰影

十年という時間は、人を変えるには十分すぎるほど長い。


山本健太は、プロ野球チームのエースとして、球界を代表する存在になっていた。

最速158キロ。抜群の制球力。勝負どころでギアを上げられる強靭な精神力。

あの大学時代からさらに磨き上げられた才能は、

日本球界でもトップクラスの評価を得ている。


「山本、今日のブルペン、圧巻だったな」


同僚の捕手が笑顔で声をかける。

健太は汗を拭いながら軽く頷く。


「海外スカウトもまた来てたらしいぞ。

 メジャー移籍も現実味あるんじゃないか?」


「どうだかな。まずはシーズンに集中するよ」


変わらないのは、そのストイックさ。

10年前と同じように、いや、あの頃よりはるかに孤独に、

健太は頂点を目指してきた。


その胸の奥の、誰にも見せない場所には――

今でも触れられない“傷跡”がひっそりと残っている。


(あの日のことは、忘れたわけじゃない)


そう思いながらも、健太はもう立ち止まることはなかった。

歩き続けてきた道の先に、世界が待っている。


◆◆


一方、前野陽介は、その世界から最も遠い場所にいた。


十年前、どの球団からも声がかからなかった。

合同トライアウトにも挑んだが、評価は“力不足”。

かつての自信は粉々に砕け散り、現実だけが残った。


そのまま小さな商社に就職したが、仕事はうまくいかず、上司にも叱られ、

若手にも抜かれていく。

大学時代に抱いていた「健太に勝つ」という執念は、

次第に自虐と苛立ちに変わっていった。


彼女――川崎美久との関係も、最初こそ互いを支え合っていたが、

次第に疲れだけが積もっていった。


美久が孤独を埋めるために陽介を選んだように、

陽介もまた、敗者としての孤独を埋めるために美久に依存した。


しかし、依存は愛にはならない。


「今日も帰り遅くなる。夕飯いらねぇ」


陽介は不機嫌に靴を履き、ドアを乱暴に閉めた。


残された美久は、冷めた味噌汁を眺めながら、小さく呟く。


「……私、何やってるんだろ」


隣にいるはずの人が遠い。

陽介は、昔のような情熱も優しさも失っていた。


それでも美久は、昔の自分の選択を後悔しないように、

懸命に働き、家事をこなし、陽介を支えようとした。


だが、その努力が報われる日は来なかった。


◆◆


ある大雨の日の夕方だった。

陽介は会社の会議室で、ぼんやりパソコンの数字を見つめていた。


借金。

滞納。

消費者金融の督促メール。


(もう……無理だ)


指先が震えた。


そして――心の奥から、悪魔の声が囁いた。


(会社の金に手をつければ、とりあえずは…)


その瞬間、陽介は“戻れない場所”へと足を踏み入れた。


振込画面に、手が伸びる。

わずかな抵抗はあった。

これが犯罪だと分かっていた。


しかし、押してしまった。


「……くそ」


陽介は頭をかきむしり、椅子を蹴飛ばした。

罪悪感よりも先に湧いたのは、逃げ出したいという衝動だった。


(バレる前に消えるしかねぇ)


そう結論づけた陽介は、

その日の深夜、スマホと財布だけを持ってアパートを飛び出した。


置き手紙もない。

美久への連絡もない。


ただ逃げるように、夜の街へ消えていった。


◆◆


陽介の失踪を知ったのは翌朝。

会社からの電話と、

彼の部屋に残された散らかった部屋を見て、美久は全てを悟った。


「あぁ……終わったんだ」


崩れ落ちるように床に座り込み、涙が止まらなかった。

陽介は弱い人だった。

でも、美久はそんな彼を見捨てずに生きてきた。

それなのに――


裏切られた。


十年前、自分がしたことが、別の形で美久の目の前に現れた。


そして、その数日後。

美久は病院で医師に告げられた。


「おめでとうございます。妊娠しています。おそらく……二ヶ月ほどでしょう」


「……嘘」


膝から力が抜け、ベッドに手をついた。


このタイミングで。

彼がいない今になって。


涙は出なかった。

現実が重すぎて、涙すら反応しない。


◆◆


美久は考えた末に、実家に戻ることを決めた。

ひとりでは無理だ。

家族に頼るしかない。


だが――


「帰ってくる場所なんて、うちにはもうない」


厳格な父は、玄関先でその一言を言い放った。


「勝手に家を出て、

 勝手に男のもとへ転がり込んで……困ったら戻ってくるのか?」


「お父さん……お願い、話を――」


「母さんも何も言うな!」


母は父をちらりと見たが、何も言えないようだった。


「お腹……子ども、いるの」


震える声で言った。

それでも父の目は氷のように冷たかった。


「知らん。帰れ」


扉が閉まった音が、雷のように響いた。


雨が降り始めていた。

美久は玄関前に立ち尽くしたまま、傘もささずに泣き崩れた。


(どうして……こんなことに……)


十年前、自分が裏切ったあの日から、すべての不幸が始まったような気がした。

陽介を選んだことも。

家族を裏切ったことも。

健太を傷つけたことも。


胸の奥が締め付けられ、吐き気がした。


◆◆


「美久?」


声が聞こえた。

顔を上げると、実家の近くに住む兄――川崎悠真が傘を差して立っていた。

東京で働いているはずの兄が、たまたま出張で帰省していたのだ。


「兄ちゃん……」


「どうしたんだよ、お前。濡れて……」


美久が泣きながら事情を話すと、悠真は眉をひそめた。


「父さん、相変わらずだな。……よし、美久。俺がなんとかする」


「兄ちゃん……私、どうしたら……」


「まずは濡れた体を温めろ。話はそれからだ」


悠真はそう言うと、自分のアパートへ美久を連れて行った。

暖房を入れ、温かいお茶を差し出す。


「子どもも、お前も……俺が支える。遠慮すんな」


美久は、兄の優しさに胸がいっぱいになった。

涙が今度は静かに溢れた。


(……私、ずっと何をしてたんだろ)


ふと、心の奥底で――

長い間封じ込めていた名前が浮かぶ。


(健太……)


あの日別れた彼は、今や日本を背負うエースになっている。

テレビで見るたびに誇らしかった。

同時に、胸が締め付けられるほどの後悔があった。


(会いたい……)


だが、それが許されることではないと分かっていた。


しかし美久の心は、打ちのめされていた。

誰かに助けを求めたかった。

そして健太だけは、心のどこかでずっと信じていた。


兄のスマホを借り、美久は震える指でメッセージを打った。


『久しぶり。元気ですか? 

 突然でごめんなさい。少しだけ話したいことがあります』


送信ボタンを押した瞬間、心臓が跳ねた。


(……届くわけないよね)


けれど、送ってしまった。


十年という歳月を越えて――

止まっていた感情が、静かに動き出していた。

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