10年越しの誓い

てつ

第1話 裏切りの夏

山本健太は、真っ白なユニフォームの袖をまくりながら、蒸し暑いグラウンドに立っていた。大学野球部のエースとして、誰よりも長く、誰よりも静かに練習を続ける男だった。

 七月の夕日がオレンジ色に染まる頃、部員が一斉に引き上げていくなか、健太だけは黙々とブルペンに向かう。


「健太、今日も残るの?」


 声をかけてきたのは、マネージャーの川崎美久だった。柔らかな茶髪をポニーテールに束ね、記録ノートを胸に抱えて立っている。汗に濡れた額をぬぐう仕草すら、健太には愛おしかった。


「うん。ちょっと制球が安定しなくて。もう少し投げたい」


「だめだよ、投げすぎ。肩壊したらどうするの」


「大丈夫、大丈夫。ほら、心配性」


 健太が笑うと、美久も肩で息をつきながら微笑む。

 部員たちからも公認の恋人同士。ふたりが並んで歩く姿を見て、羨望や冷やかしが飛んでくるほどだった。


「じゃあ、せめて数だけ数える。投げすぎないように」


「ありがとう」


 そんな、穏やかな日々が続くはずだった。


 ――彼が現れるまでは。



 前野陽介。その名を聞くだけで、健太はどうにも心がざわつく相手だった。

 同じポジションの投手で、入学当初は互角と言われていた。だが、努力と粘り強さで健太が頭ひとつ抜け、気づけばエース番号は健太の背中に張り付いたままだった。


 陽介は能力はあるのに、どこか焦り、空回りするタイプだった。

 そしていつしか「健太に勝てない」という事実が、彼をいら立たせていた。


 その陽介が、最近になって美久にやけに近づくようになった。


「今日も頑張ってるね、美久ちゃん。記録つけるの、大変だろ?」


 練習後、美久が片付けをしていると、陽介が近づいてくる。汗を拭きながらもどこか余裕のある笑み。

 美久は少し笑って返す。


「まあ、慣れましたから」


「健太はさ、いつも自分のことしか見てないだろ? 君の苦労とか、ちゃんと分かってるのかな」


 唐突な言葉に、美久は戸惑う。


「そんなこと…ないですよ」


「でもさ、恋人ならもっと支え合うべきじゃない? 見てると、美久ちゃんばっかり頑張ってる気がしてさ」


 優しい言葉。

 慰めるようで、毒を含んでいる。


 それに、美久はまだ気付いていなかった。



「最近、美久と陽介よく話してるよな」


 キャプテンがぼそりと健太に言ったのは、練習後のロッカールームだった。


「そう? 気にしてなかった」


「まあ、気にしなくてもいいと思うけど。あいつ、ちょっとコンプレックス強いとこあるからさ。変なこと吹き込まれてなきゃいいけど」


 その一言で、健太の胸に小さな棘が刺さる。


(…そんなはずない。美久は俺を信じてくれてる)


 自分に言い聞かせるように頭を振った。



 しかし、その棘は少しずつ、確かに大きくなっていった。


 ある日、美久が健太の練習を待たず先に帰った。珍しいことだった。

 健太は気にせず残って練習したが、帰り際、校門の前で――


「じゃあ、またね」


「気をつけて帰れよ」


 陽介と美久が並んで歩きながら別れる姿を見てしまった。


 息が詰まり、健太はそのまま声もかけずに立ち尽くした。


(…何話してたんだろ)


 疑う自分が嫌だった。

 けれど、その光景は胸の奥の不安を確実に形にしていく。



「健太、ちょっと話したい」


 その言葉を美久が口にした日、むし暑い夏の空気はいやに重たかった。


 二人は大学の裏門近くのベンチに座った。

 美久は落ち着かない様子で指先をもてあそぶ。


(嫌な予感がする…)


 健太は笑顔を作ろうとしたが、喉が乾いて言葉が出ない。


 美久は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。


「私たち、別れよう」


 世界が真っ暗になったようだった。


「……え?」


「ごめん。健太には、もっといい人がいると思う」


 声が震えている。

 だが、言葉は決して撤回する気配を見せなかった。


「どうして?」


 やっと絞り出した言葉。

 すると美久は、小さく震える声で言った。


「…陽介さんに、支えられてたの。私、ずっと健太に合わせてばかりで…ほんとは寂しかった。陽介さんだけが私の気持ち、分かってくれる気がして」


 胸の奥で何かが崩れ、砂のように音もなく落ちていく。


(陽介…)


(あいつは…ずっと俺をライバルだと思ってて…)


(その相手と…美久が…)


 言葉にできない感情が、喉にひっかかる。


「そうか」


 それだけ言うのが精一杯だった。


 泣きそうな顔をした美久が「ごめんなさい」と頭を下げる。

 その姿を見ても、不思議と怒りは湧かなかった。

 ただ――


(終わったんだ)


 強烈な現実だけが、胸の奥で冷たく響いていた。



 別れ話から数日後、美久は本当に陽介のもとへ行った。

 部員たちは驚きと呆れを隠せなかったが、健太は何も言わなかった。


 ただ、ひたすら練習に打ち込んだ。

 投げれば投げるほど、胸の痛みを忘れられる気がした。


 しかし夜、寮の天井を見上げると、どうしようもない虚しさだけが襲ってくる。


(なんでなんだろうな)


(俺は…ちゃんと向き合えていたのか?)


 そんな後悔だけが募る。



 夏の大会が近づいたある日、キャプテンがぽつりと呟いた。


「健太、無理してねえか?」


「してないよ」


「…お前、強えよな。でも、無敵じゃねぇんだぞ」


 キャプテンのその一言が、胸にじんわりと染みた。


(俺は…無敵じゃない)


(だからこそ、投げるしかなかったんだ)


 夕日が沈むグラウンドで、健太はひとり、黙々と投げ続ける。

 ボールに込めたのは悔しさでも憎しみでもない。


 ただ――


(強くなりたい)


 その一心だった。


 


 そして、三人の未来へ続く、長く苦しい10年が始まるのだ。

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