10年越しの誓い
てつ
第1話 裏切りの夏
山本健太は、真っ白なユニフォームの袖をまくりながら、蒸し暑いグラウンドに立っていた。大学野球部のエースとして、誰よりも長く、誰よりも静かに練習を続ける男だった。
七月の夕日がオレンジ色に染まる頃、部員が一斉に引き上げていくなか、健太だけは黙々とブルペンに向かう。
「健太、今日も残るの?」
声をかけてきたのは、マネージャーの川崎美久だった。柔らかな茶髪をポニーテールに束ね、記録ノートを胸に抱えて立っている。汗に濡れた額をぬぐう仕草すら、健太には愛おしかった。
「うん。ちょっと制球が安定しなくて。もう少し投げたい」
「だめだよ、投げすぎ。肩壊したらどうするの」
「大丈夫、大丈夫。ほら、心配性」
健太が笑うと、美久も肩で息をつきながら微笑む。
部員たちからも公認の恋人同士。ふたりが並んで歩く姿を見て、羨望や冷やかしが飛んでくるほどだった。
「じゃあ、せめて数だけ数える。投げすぎないように」
「ありがとう」
そんな、穏やかな日々が続くはずだった。
――彼が現れるまでは。
◆
前野陽介。その名を聞くだけで、健太はどうにも心がざわつく相手だった。
同じポジションの投手で、入学当初は互角と言われていた。だが、努力と粘り強さで健太が頭ひとつ抜け、気づけばエース番号は健太の背中に張り付いたままだった。
陽介は能力はあるのに、どこか焦り、空回りするタイプだった。
そしていつしか「健太に勝てない」という事実が、彼をいら立たせていた。
その陽介が、最近になって美久にやけに近づくようになった。
「今日も頑張ってるね、美久ちゃん。記録つけるの、大変だろ?」
練習後、美久が片付けをしていると、陽介が近づいてくる。汗を拭きながらもどこか余裕のある笑み。
美久は少し笑って返す。
「まあ、慣れましたから」
「健太はさ、いつも自分のことしか見てないだろ? 君の苦労とか、ちゃんと分かってるのかな」
唐突な言葉に、美久は戸惑う。
「そんなこと…ないですよ」
「でもさ、恋人ならもっと支え合うべきじゃない? 見てると、美久ちゃんばっかり頑張ってる気がしてさ」
優しい言葉。
慰めるようで、毒を含んでいる。
それに、美久はまだ気付いていなかった。
◆
「最近、美久と陽介よく話してるよな」
キャプテンがぼそりと健太に言ったのは、練習後のロッカールームだった。
「そう? 気にしてなかった」
「まあ、気にしなくてもいいと思うけど。あいつ、ちょっとコンプレックス強いとこあるからさ。変なこと吹き込まれてなきゃいいけど」
その一言で、健太の胸に小さな棘が刺さる。
(…そんなはずない。美久は俺を信じてくれてる)
自分に言い聞かせるように頭を振った。
◆
しかし、その棘は少しずつ、確かに大きくなっていった。
ある日、美久が健太の練習を待たず先に帰った。珍しいことだった。
健太は気にせず残って練習したが、帰り際、校門の前で――
「じゃあ、またね」
「気をつけて帰れよ」
陽介と美久が並んで歩きながら別れる姿を見てしまった。
息が詰まり、健太はそのまま声もかけずに立ち尽くした。
(…何話してたんだろ)
疑う自分が嫌だった。
けれど、その光景は胸の奥の不安を確実に形にしていく。
◆
「健太、ちょっと話したい」
その言葉を美久が口にした日、むし暑い夏の空気はいやに重たかった。
二人は大学の裏門近くのベンチに座った。
美久は落ち着かない様子で指先をもてあそぶ。
(嫌な予感がする…)
健太は笑顔を作ろうとしたが、喉が乾いて言葉が出ない。
美久は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「私たち、別れよう」
世界が真っ暗になったようだった。
「……え?」
「ごめん。健太には、もっといい人がいると思う」
声が震えている。
だが、言葉は決して撤回する気配を見せなかった。
「どうして?」
やっと絞り出した言葉。
すると美久は、小さく震える声で言った。
「…陽介さんに、支えられてたの。私、ずっと健太に合わせてばかりで…ほんとは寂しかった。陽介さんだけが私の気持ち、分かってくれる気がして」
胸の奥で何かが崩れ、砂のように音もなく落ちていく。
(陽介…)
(あいつは…ずっと俺をライバルだと思ってて…)
(その相手と…美久が…)
言葉にできない感情が、喉にひっかかる。
「そうか」
それだけ言うのが精一杯だった。
泣きそうな顔をした美久が「ごめんなさい」と頭を下げる。
その姿を見ても、不思議と怒りは湧かなかった。
ただ――
(終わったんだ)
強烈な現実だけが、胸の奥で冷たく響いていた。
◆
別れ話から数日後、美久は本当に陽介のもとへ行った。
部員たちは驚きと呆れを隠せなかったが、健太は何も言わなかった。
ただ、ひたすら練習に打ち込んだ。
投げれば投げるほど、胸の痛みを忘れられる気がした。
しかし夜、寮の天井を見上げると、どうしようもない虚しさだけが襲ってくる。
(なんでなんだろうな)
(俺は…ちゃんと向き合えていたのか?)
そんな後悔だけが募る。
◆
夏の大会が近づいたある日、キャプテンがぽつりと呟いた。
「健太、無理してねえか?」
「してないよ」
「…お前、強えよな。でも、無敵じゃねぇんだぞ」
キャプテンのその一言が、胸にじんわりと染みた。
(俺は…無敵じゃない)
(だからこそ、投げるしかなかったんだ)
夕日が沈むグラウンドで、健太はひとり、黙々と投げ続ける。
ボールに込めたのは悔しさでも憎しみでもない。
ただ――
(強くなりたい)
その一心だった。
そして、三人の未来へ続く、長く苦しい10年が始まるのだ。
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