桃色カフェテリア

@Mc_Murry

1話目 Dig in!

料理の起源は、人類が火を利用し始めた時代にさかのぼる。

人類の祖先は、森林火災や落雷によって偶然加熱された動植物を口にした経験を通じ、加熱によって味が変化し、消化が容易になることを知ったと考えられている。特に肉類は、加熱によって病原体のリスクが減り、栄養の吸収効率も高まるため、健康面で大きな利点があった。このような恩恵の理解こそが、人類が火を維持・管理し、やがて意図的な調理へと応用していく契機となった。


火の利用が定着するにつれ、植物の根や穀物を煮る・焼く・乾燥させるといった行為も広まり、硬い食材の可食性が向上したことで、食文化は飛躍的に発展した。また、集団生活が進むにつれて、塩漬け・発酵・乾燥といった保存技術も生まれ、これらは後の調理文化の確固たる基盤となった。


* * *


 私、鷹森紅音は、ただいま不調の極みにある。理由は単純で──朝食を取れなかったからだ。

 本来、我が家では家族全員で朝食を囲むのが日課。しかし、よりによって入学式の今朝に限り、家族全員(弟を除く)が盛大に寝坊した。遅刻を避けるためには急いで家を出るしかなく、朝食は諦めざるを得なかった。……そして現在に至る。


紅音「式の間だけでも、お腹が鳴りませんように……」


 静かに願った。入学早々、空腹で注目を集めるような悲劇は何としても、絶対に、断固として避けn


「ぐぅ〜」


 よりにもよって、会場が静まり返っていたタイミングでである。

 これは絶対、響いた。


* * *


担任「それじゃあ気を付けて帰れよ〜」


 式が終わり、周囲はすっかり帰宅モード。談笑しながら教室を出ていく生徒たちを横目に、私はまだ席に沈んでいた。


紅音「……終わった」


 小さくため息が漏れる。お腹が鳴った瞬間の記憶はあいまいだ。ただ、校長らしき人の長話の最中に鳴ってしまったこと、そして何人かが笑っていた気がすることだけは覚えている。


 みんなが帰り支度をする中、それでも立ち上がれなかった。精神的ダメージが想像以上に大きかったのだと思う。


紅音「家に帰れば何か食べられるけど……正直、もう限界。今日、本当に何も食べてないんだし……」


 この状態で帰るのはつらい。

 そこでふと思いつく。


紅音「コンビニで何か……いや、待って。財布、持ってきてない?」


 カバンを確認した瞬間、嫌な予感は確信に変わった。

よりによって今日、財布を忘れていた。加えて交通系ICの残高も十数円ぽっちときた。

こんなことなら、面倒くさがらずに電子決済デビューしておくんだった。

……こんなの、う〇い棒しか買えないじゃないか!!


 完全に手詰まりである。

 家までは40〜50分程度。だが今の私には、灼熱の砂漠を歩く旅人の距離感だ。


 とはいえ、原因は自分の寝坊。誰を責めることもできない。


 気持ちを切り替え、重い足取りで立ち上がろうとしたそのとき──。


「!?」


 突然、目が合ってしまった。

 本来ならそそくさと退散するところだが、視界に“お弁当らしき物体”が飛び込んでくる。


 空腹の私は、その誘惑に抗えなかった。

 まるで磁力に引かれるように、無意識で彼へと歩み寄っていた。


青目の青年「……どうしたの?」


紅音「あっ、いえ、なんでもありません!!」


 ──いや、ある。めちゃくちゃある。

 はたから見れば、どう見ても“用がある人間”の距離の詰め方だ。

 しかも視線が完全に弁当に釘付け。目は口ほどに物を言うとはこのことだ。


青目の青年「……ちょっと食べる?」


 突然の救いの手に、私は慌てて手を振った。


紅音「い、いやいやいや!! 初対面で恵んでもらうとか……いくら何でも、……!」


 ぐぅ~~~。


 ……鳴った。

 最高に気まずいタイミングで盛大に鳴った。


 沈黙。

 今朝の羞恥心を軽く更新する破壊力だ。


“目は口ほどに物を言う”というが、この場合は“腹の音が全部語った”で間違いない。


青目の青年「……もう一度だけ聞いていい?」


紅音「……はい(泣)」


 観念して答えると、彼は少し照れたように微笑んだ。


青目の青年「……ちょっと弁当作りすぎちゃってさ。よかったら食べるの手伝ってくれる?」


紅音「ぜひ!! ぜひとも!!! 喜んで食べさせていただきます!!!」


 空腹に負けた? いや違う。

 これはただの──人間の尊厳が復活した瞬間だ。



青目の青年「はい、これ割りばし。適当に食べてよ」


紅音「本っっ当にありがとう!! いただきます!!」


 差し出された弁当箱の中には、生姜焼きと唐揚げという万人が好きであろうおかず。さらにキャロットラペ、ほうれん草のおひたしetc...彩りのバランスも良い。まさしく“理想の弁当”そのものだ。


紅音「…何から行けばいいんだろ。最初からメイン攻めは、こう…申し訳ないというか…」


青目の青年「好きに食べなよ。入学式のときからお腹減ってたんでしょ?」


紅音「うっ…やっぱり、あれ、聞こえてたんだ……」


青目の青年「笑っちゃうくらい盛大に鳴ってたからね。少なくとも同じクラスの人は全員聞こえてたんじゃない?」


 やっぱり、思い出すだけで胃が痛い。入学初日から黒歴史を刻むつもりはなかったのに。

 でもこうして弁当を分けてくれる人が現れたのだから、人生なにが起きるかわからない。渡りに船である。


紅音「ん~じゃあ…これ! いただきます!」


 生姜焼きを一枚、そっと箸でつまみ、口へ運ぶ。

 噛んだ瞬間、生姜の香りがふわっと鼻に抜け、豚肉の旨味がじゅわっと染み出してくる。


紅音「……超美味しいよ! 本当にありがとう!」


青目の青年「よかった~。まあ、自信があるとは言えない出来だけど」


紅音「このお弁当、自分で作ったの!? すごいね!!」


青目の青年「ありがとう。でも、生姜焼きと唐揚げは自分だけど残りは冷凍食品と作り置きを詰めただけだよ?」


 いや、それでも充分すごい。

 私は料理が人並み程度だし、まして早起きして朝から弁当なんて作ろうものなら難易度“Extra Hard”である。(今日すでに盛大に1敗済)


それから私たちは他愛のない話をしながら、のんびりと弁当をつついた。

 彼の名前が 久我翠斗 だとか、家はここから二十分ほどで近いこと。

 私が今日、入学式に遅刻しかけた上に財布まで忘れてきたことまで話してしまったけれど、不思議と居心地が良かった。


紅音「ごちそうさまでした!!」


翠斗「お粗末様でした。満足した?」


紅音「峠は越えたよ〜ほんとにありがとう!!優しい人がいてよかった~!!」


翠斗「礼には及ばないよ。困ってる人に手を差し伸べられるのって……大事なことだからね。ほんとに…」


 ありがたいけど、なんだろう。

 どこか人の内側に触れちゃいけない場所を踏み込んでしまったような、微妙な感覚が残る。


紅音「せめて何かお礼でも……あ、じゃあさ、なんか言ってみて!」


翠斗「そうだな……じゃあ、友達になってよ」


紅音「へ? と、友達? そんなのでいいの?」


私は情けないと思うと同時に少し戸惑ってしまった。散々迷惑をかけてしまったのに友達になりたいという返事が来るとは思ってもみなかったのだ。本当に情けない限りである。


翠斗「じゃあ百万円ほど貸してくれる?」


紅音「ぜひ!ぜひ友達になりましょう!」


 反射で即答してしまった。

 百万円は絶対無理だけど、友達なら…


翠斗「じゃあよろしく。連絡先はどうする?」


紅音「あっ!!そういえば!! えっと……これでできたかな?」


 スマホを操作して画面を見せると、久我君が覗き込んでくる。


翠斗「……うん、大丈夫だ」


紅音「よかった〜……じゃあ、今日はこれで解散?」


翠斗「うん。また明日」


紅音「じゃあね! 明日はちゃんとご飯用意してくるから〜!」


 その宣言をした瞬間、

 “いやそれ明らかなフラグじゃない?” と、脳内の私が全力でツッコんだ。

 ……でもまあ、明日は今日よりマシなスタートを切れるはずだ。


* * *


翠斗「ん〜やっぱ少し食べ足りなかったな……帰ったら作り置きでも食べるか」


帰路についてる最中に俺は思った。あまりにお腹を空かしている様子だったので弁当を分けてあげたが育ち盛りの高校生(初日)には物足りなかった。まぁ家はそこまで遠くないし。


翠斗「ん?このハンカチ…」


自分のポケットに手を突っ込むと見覚えのない白色のハンカチが入っていることに気づいた。確認すると自分のやつは反対側のポケットに入っている。これも同じく白にワンポイントのやつなので間違えて取ってしまったと考えるのが自然だ。さっきまで一緒にいたのは自分と鷹森さんのみ。つまり…


??「おーい!! ここにいたのかよ。途中まで一緒に帰ろうぜ」


突然聞きなれた声が耳に入ってくる。中学からの同級生で高校も同じの友達、三雲大貴(みくも たいき)だ


翠斗「うん、もしかして待ってたりした?」


大貴「いや。でもいいのか? クラスみんなで飯食いに行くってやつ、もう終わって解散しちまったぞ」


ああ、そういえばホームルームの時に誰かが言っていた。クラスの親睦会みたいなやつ。でも財布がない俺に行けるわけがない。


翠斗「ごめん……実は財布忘れてきちゃって」


大貴「なんだよ。そういうことだったのか」


 正直に話すと、彼は肩をすくめて笑った。


翠斗「まあ、そもそもそういう集まりがあるって思ってなかったから」


大貴「そうか……まあ、まだ仲良くなる機会はいくらでもあるだろ」


翠斗「そうだな……ふふっ」


大貴「なんだよ。なんか嬉しそうだな。……なんかあったのか?」


翠斗「友達ができた」


 一言そう告げると、目を丸くした。


大貴「よかったじゃん。でも、こんな短時間でどうやったんだ?」


翠斗「やっぱ財布忘れるのも、悪いことばっかじゃないってこと。よし、帰ろっか」


 そう締めくくると、納得してない顔で追いかけてくる。


大貴「おい! どういうことだよ、聞かせろよ〜!」


 吹き抜ける春風が心地よくて、俺は軽く笑いながら歩き出した。


――なんだかんだ言って、今日は悪い日じゃなかった気がする。


* * *


紅音「ただいま〜!」


紅音母「お帰り。朝も昼も用意できなくてごめんね」


紅音「いやいや、家族全員そろって寝坊だからね……間に合っただけで奇跡だよ」


紅音弟「姉ちゃん、こういうときに限ってホントやらかすよな(笑)」


 弟の何気ない一言が、ド派手に胸へ突き刺さる。

 今日は久我くんがいなかったら、本気で詰んでいたのだ。

 だから何も言い返せない。


紅音父「大丈夫だったか? 買い食いしたなら、その分少し補填しようか?」


紅音「ありがとう。でも大丈夫。ありがたいことに、ご飯を恵んでくれた人がいて」


紅音母「そんな子がいたのね。あとでちゃんとお礼しなさいよ?」


紅音「うん。連絡先も交換したんだ」


紅音父「よかったな。ただ……友達は……いや、なんでもない。楽しく高校生活送ってくれるのが一番だ」


 お父さんが言い淀む。

 その一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられた。


紅音弟「中学の頃は色々大変だったしな。高校ぐらい、楽しみなよ。JKブランドは賞味期限短いぞ〜」


紅音「うるさいよ、もう」


 本当に、私は家族に恵まれている。

 だからこそ、みんなのためにも――そして自分のためにも、高校は楽しみたい。

 あわよくば青春もしたい。


紅音「じゃあ普段着に着替えてくるね。今日、蒸し暑かったし」


紅音「いいわよ。服は適当に選んで。あ、ハンカチとティッシュはちゃんと出しておいてね」


紅音「はーい」


 そう答えて、自室へ戻る。


紅音「えーっと……確かここに……あった。これでいっか。外出るわけじゃないし」


 ラフな格好に着替え、荷物を片付け、洗濯物を出し――

 あとはベッドでごろごろ……したいところだが。


紅音「……じゃない。ティッシュとハンカチ出さないと」


 制服のハンガーに手を伸ばし、ポケットを探る。

 左ポケットからティッシュ。

 右ポケットからハンカチを――


紅音「……ない! ハンカチ忘れてきた!!」


 一気に気分がしおれる。

 また学校に取りに戻らなきゃなんて……最悪だ。


 プルルルル――。


紅音「ん、誰だろ? 久我くん!? まさか……もしもし?」


 胸がどきっと跳ねる。

 もし私の記憶が正しければ、ハンカチは――


翠斗「もしもし。鷹森さん、今大丈夫かな?」


紅音「うん! もしかして要件って……」


翠斗「そう。ハンカチを間違えて持って帰っちゃって。もしかして鷹森さんのやつじゃないかな?」


 まさにそれである。

 飲み物をこぼしたときに使って、机の上で乾かしたまま忘れて帰ったあのハンカチだ。


紅音「本当にごめん! 今から取りに――」


翠斗「いいよ。こっちで洗濯しておくから。こっちが間違えて持って帰っちゃったのが悪いし」


 よかった……着替えたばっかりだったし、正直ありがたい。

 しかも洗ってくれるなんて。


紅音「ありがとう。今日はお互いに災難だったね(笑)」


翠斗「ふふっ、そうだね。返すのは明日でいいかな?」


紅音「大丈夫だよ。じゃあまた学校で!」


翠斗「うん、じゃあまた学校で」


 そう言って、数秒待ってから通話を切った。

 ……友達同士の電話って、どんな感じで切るのが正解なんだろう。

 忘れたわけじゃないけど…うん、たぶん。


紅音「『じゃあまた学校で』……なんか青春っぽいかも。友達もできたし、財布忘れたのも案外悪くなかったかも」


 そうつぶやきながら、ベッドにダイブする。

 今日は最悪のスタートだったのに、終わってみれば良い一日だった。

 明日も頑張ろう――そう思える日だった。


* * *


紅音母「今日は紅音の好きな豚肉の生姜焼きよ! 朝も昼もしっかり食べられなかった分、いっぱい食べなさい!」


 ……マイナスとは言わないが、複雑な気分にならざるを得なかった。

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