お化けクジラ編
一日の内で最も気温が高くなる時間帯になり、サンサンと陽が照りだした。海の地平線から黄金色の光が、地上に向かって伸びている。
報酬を受け取って冒険者ギルドから出た後、クレタがネメアに話しかけた。
「これから私の元仲間の家まで行くわよ。あの子が住んでる所までちょっと遠いけど、徒歩で行きましょう」
「分かりました。どのくらいかかりますか?」
「走れば30分くらいかしら。私が先頭を走るから、後を付いてきて」
「えぇ!? 走るんですか?」
「これも修行の一環よ」
そう言って、クレタはネメアから背を向けると、さっそく走り出してしまった。ネメアは慌てて彼女を追いかける。
彼女はとても足が速いため、すぐに5メートルも差が開いてしまった。だが、彼は置いていかれないよう必死で走ったため、それ以上差が開くこともなかった。彼女の背中を追いながら、自分も随分速く走れるようになったなぁと、自己肯定感が上がった。
しばらく走り続けて、息も絶え絶えになってきた頃。木造の平屋の家が建ち並ぶ住宅街に出た。開け放たれた窓や戸から、熱風が吹き付けている。前を走っていたクレタはそこで足を止め、後ろを振り返った。
「着いたわよ。ここに私の元仲間が暮らしているの」
「ゼェハァ、ゼェ、ゼェ……良かった、付いてこれた……ふぅー」
ネメアは膝に手をつき、深く息を吐いた。心臓がバクバクと脈打ち、血液が激しい川の流れのように、全身を循環している。
彼が息を整えると、今度は歩いてクレタの元仲間の家を目指した。ここら一帯は、金属製品を造る鍛冶屋の家が多いようで、高くて子気味の良い金属を叩く音が次々と聞こえてくる。街の奥に進むにつれ、その音はどんどん大きくなっていった。
やがて住宅街の最奥までやってくると、周りの家屋と比べて一際大きな平屋が現れた。クレタはその家の扉を10回ノックした。ノックの回数が多いように感じて、ネメアは彼女に問いかけた。
「どうしてそんなに扉を叩いたんですか? 二、三回ノックすれば、気づいてもらえるんじゃないですか?」
「私が訪ねた時専用のノックなの」
彼女が疑問に答えた直後、家の中からバタバタと廊下を走る音が聞こえてきて、ガラッと扉が開かれた。
「クレタ!!」
オレンジ色の髪を低い位置でお団子結びにし、鮮やかな黄色のエプロンを着た女性が、クレタに抱きついた。クレタは大きく目を見開いたが、その後クスッと笑ってハグを返した。
「久しぶりね、ムパリ」
「もー! 久しぶりすぎだよ! あたし、ずっとずっとクレタに会いたかったんだから!」
「ウフフ、ごめんなさいね」
抱擁をやめ、ムパリはクレタに尋ねた。
「わざわざこんな離島まで来てくれたってことは、何か事情があるんだよね?」
「そうよ。詳しいことは後で話そうと思うんだけど、まずはこの子を紹介させて。私の弟子よ」
クレタは自分の一歩後ろにいたネメアの背中を押した。彼はペコリと頭を下げて自己紹介した。
「ネメア・レオです。クレタさんにはとてもお世話になっています」
「クレタのお弟子さん!? ネメアさんっていうのね。あたしはムパリ・ケイロン。よろしくね」
ムパリはネメアに向かってニッコリと笑うと、彼をギュッと抱き締めた。砂糖菓子のような甘い香りが、フワリと鼻をくすぐる。彼の顔はリンゴのように真っ赤に染まった。この人はクレタさん以上にパーソナルスペースが狭いのかもしれないと彼は思った。
挨拶が済むと、ネメアとクレタはムパリに家の中へ招かれた。玄関に入ると、石畳の廊下が左右に伸びていて、右側が工房、左側がリビングになっていた。ムパリが、右側の工房に向かって呼びかけた。
「あなた~お客さんが来たわよ~」
彼女の声が廊下中に響き渡る。すると、ネメア達の死角になっていた場所から、作業着を着た男が現れた。その男は、左目の瞼が赤く腫れて垂れ下がり、鼻の位置は低く、腰は折れ曲がっていて、お世辞にも整った見た目をしているとは言えなかった。むしろ、少し目を反らしてしまいたくなるような醜さだ。彼が横に並び立つと、ムパリは口を開いた。
「ネメアさんに紹介するね。この人はパトス・ケイロン。あたしの旦那さんよ」
目元をほんのり赤くして、ムパリはパトスの腕にギュッと抱きついた。ネメアは彼女の発言に驚愕した。申し訳ないが、こんな見た目の男がこんな可愛い女の人と結婚できるなんて到底信じられない。彼は口をぽかんと開けて静止しそうになった。だが、挨拶しないのは失礼だと思い、頭を下げた。
「こんにちは。クレタさんの弟子の、ネメア・レオです」
ネメアが挨拶すると、パトスはこくりと頭を下げた。それだけだった。パトスが何も話さなかったため、その場は水を打ったように静まり返る。ネメアはなんて不愛想な人なんだろうと呆気にとられた。そんな彼の気持ちを察して、ムパリが苦笑しながら弁明した。
「パトスは無口なの。だけど、言葉に出ないだけでとっても優しいのよ。それに、鍛冶の腕前が一流なの」
ムパリの言葉にクレタが続いた。
「私達が冒険者パーティーを組んでいた頃は、パトスさんに武器や防具を造ってもらっていたのよ。丈夫なのに軽くて、世界一優れていたわ。しかも、私達は皆のために命を懸けて戦ってくれているんだから、お代はいらないってタダでくれたの」
美人な女性二人に擁護されてまんざらでもないのか、パトスは宙を見上げてポリポリと頭をかいた。ネメアは出会ったばかりで彼の人柄をよく知らないので、「へーそうなんですね」と軽い返事を返すに留めた。
「ずっと玄関で立ち話するのもなんだし、リビングへ行きましょ」
ムパリが話を切り替え、ネメアとクレタをリビングに通した。リビングの壁の至る所に、立派な剣や斧などの武器が飾られている。柄の装飾は貴族のドレスのように美しく、突然動き出して切り裂かれてしまいそうなほど、刃が鋭く光っている。ネメアは一目見ただけで、飾られている武器が非常に上等な物だと気が付いた。
「わぁぁ、壁の武器、めちゃくちゃ凄いですね。これで戦ったら、どんな魔物も一撃で倒せそう」
感嘆の声を漏らしたネメアに、ムパリは満面の笑みを浮かべた。
「そうでしょそうでしょ! これ全部パトスが造ったのよ。椅子に座ってじっくり眺めてて。私、お茶とお菓子を持ってくるから」
大きな木製のテーブルの周りに並べられた椅子二脚を引いて、ネメアとクレタに座るよう促すと、ムパリは廊下に出ていった。二人は勧められた席に着き、パトスはその向かい側にある椅子に腰かけた。
ネメアは武器の鑑賞を始め、クレタはパトスに話しかけた。
「久しぶりねパトスさん。ムパリが戻ってきたら、この島に来た事情を話そうと思うのだけど、その前に私の個人的なお願いを聞いてもらえないかしら」
クレタは右耳につけた真珠のピアスを握りしめ、アイテムボックスを自分の横に召喚した。そこから、セイレーンを撃退するために、底を引っ搔いて駄目にしてしまった鍋を取り出した。
「これを直してほしいの」
鍋を机の上に置くと、パトスはそれを手に取って傷の具合を確かめた。彼は首を縦に振り、彼女の鍋を直すことを承諾してくれた。
「ありがとうパトスさん」
お礼を聞くと僅かに目を細め、パトスは自分の足元に鍋を置いた。クレタがアイテムボックスを真珠のピアスに封印した時、お盆を持ったムパリが戻ってきた。お盆には人数分のティーカップとクッキーが入った器が乗せられている。ティーカップを配り、クッキーが入った器を真ん中に置くと、彼女はパトスの隣の席に座った。
ティーカップには黄金色の冷たい飲み物が入っていて、上には輪切りのレモンが浮かんでいる。お礼を言ってネメアが一口飲むと、レモンのさっぱりとした香りが口に広がった。クレタもそれを一口飲み、ムパリとパトスに自分たちがここへ来た経緯を話し始めた。
「私達、連絡船の護衛の依頼を受けてここへ来たの。普通、護衛の依頼はメンバーが四人以上いる冒険者パーティーでないと受けられないのだけど、受付け係の人が私達に依頼を受けさせようと、船長さんに話を付けていたのよ。私が前、ネメアちゃんとゴーレム討伐の依頼を受けるために、良くない交渉をしたせいで目を付けられちゃったみたい」
「えー!? 良くない交渉!? クレタ、どんな交渉しちゃったの!?」
ムパリはクレタの話に驚き、机に手をついて身を乗り出した。
「私達がゴーレムを倒せたら、報酬の半分を懐に入れて良いって約束しちゃったの。それから、私達は個人的なお願いも聞いてくれる人だと思われちゃったみたい」
「あちゃ~、交渉する人を間違えちゃったね」
「えぇ。もう少し誠実そうな人と話をするべきだったわ。それでね、その受付け係の人から、この島でたまに採れるライフライトっていう宝石を、できれば持ってきてほしいと頼まれてしまったの」
「ライフライト!?」
これまたムパリは驚愕して、今度は椅子からガタッと立ち上がった。隣に座るパトスは、険しい表情を浮かべている。
「何に使うつもりだ?」
ネメア達が家を訪ねてから、初めてパトスが口を開いた。深く、骨の髄まで響くような重い声だった。彼が口を開くのは相当大事な話がある時だけだ。嫌な予感がして、クレタは自然と肩がこわばった。
「分からないわ。恐らく、お金稼ぎのためでしょうけど……」
彼女が答えると、ムパリが椅子に座り直して話を始めた。
「ライフライトは、身に着けているだけで寿命が伸びると言われているの。実際に、それのネックレスを着けている島長が、今年で90歳を迎えるのにピンピンしてる。それだけ強い力が籠っている宝石なの。
もし、島外の人にライフライトの存在が知られたら、それを求めて多くの人がこの島に押し寄せちゃう。きっと、盗賊みたいな人も現れる。だから、ライフライトは島外不出の宝石で、発掘されたものは全て島長の家に保管されているの。それなのに、どうして受付け係の人はライフライトの事を知っていたのかな?」
クレタ達の会話を黙って聞いていたネメアは、背筋が凍り付いた。ヘスのせいで、良からぬ事に巻き込まれるのではないかと不安になる。レモンティーを一口飲んで落ち着こうとしたが、心地の良い冷たさを失い、生ぬるく感じられた。
辺りに重たい空気が立ち込める。せっかくの旧友との再会を暗い空気のままにしたくないと思い、ムパリは話を明るい方向へ持って行った。
「きっとその受付け係の人は、アンドロメダ島出身なんだよ。クレタが言うようにお金稼ぎがしたいだけで、悪用しようなんて考えてないはず。それに、ライフライトはできればほしいってだけでしょ。そんな怪しい奴の為に、わざわざ貰ってくる必要ないよ」
「フフッ、それもそうね」
肩を下ろしてクレタは微笑み、ネメアも緊張を解いた。二人が安心したのを見て、ムパリは話題を変えた。
「ねえ、どれぐらいこの島にいるの? 長い間滞在するつもりなら、この家に泊まっていく?」
「良いの? じゃあお願いしようかしら。帰りの船が出航するまで一週間あるの」
「分かった! 後でお客さん用の部屋を案内するね」
「ありがとう。それから、ネメアちゃんに稽古をつけてもらっていいかしら。彼、全ステータスマックスを目指して、私と修業しているのよ」
「へー! もちろん構わないよ。今日はもう日が暮れちゃうから、稽古は明日からにしましょう。改めてよろしくね、ネメアさん」
ムパリはネメアに右手を差し出し、握手を求めた。彼は「よろしくお願いします!」と威勢よく返事をし、彼女の手を握った。可愛い女の人と握手することができて、彼はたちまち元気になった。
それから、クレタとムパリは積もる話に花を咲かせた。クレタは、ネメアと過ごした日々の事を語り、ムパリはパトスとの幸せな結婚生活について語った。二人の男達は、自分の事を楽し気に話す彼女達の様子に、終始無言で照れるしかなかった。
二時間後。皿の上に乗っていたクッキーと、全員分のティーカップが空になり、ムパリが話を切り上げた。
「さて、そろそろクレタ達に泊まってもらう部屋を案内しようかな。付いてきて」
席から立ち上がり、彼女はネメアとクレタを客室へ連れていった。部屋の中はとても広く、左右の壁に沿って十台ものベッドが並べられている。それぞれのベッドの横にはサイドテーブルが置かれていた。
「この部屋は普段、パトスの鍛冶の技術を学びに来た職人さんが泊ってるんだけど、今のところそういう人が来る予定はないし、二人で広々使っていいよ。好きなベッドを選んで」
「わぁすごい! どこにしようかな~」
ネメアはさっそく、どこのベッドを使おうか選定し、右の壁のど真ん中にあるベッドに腰を下ろした。
「じゃあ俺、ここにします。真ん中って特別な感じがするんですよね、えへへ」
「ネメアちゃんがそこにするなら、私は向かい側の真ん中のベッドにしようかしら」
便乗して、クレタは左の壁のど真ん中にあるベッドに腰を下ろした。二人の様子に、ムパリはクフクフと笑った。
「フフフ、二人とも大胆だね。船の護衛の依頼で疲れてるだろうし、ゆっくり休んでて。あたしは夕飯の支度をするから」
手を振って、ムパリは客室から出ていった。彼女の厚意に甘えて、二人は靴を脱ぐとベッドに横たわった。ネメアはすぐに目を閉じて眠ってしまったが、クレタはヘスの事が気にかかり、もやもやして眠気がやってこなかった。
以前、彼にファイヤースネークの脱皮した皮を持ってきてほしいと頼まれた時、それを薬屋に売るのかと聞いたところ、何かを隠すように口ごもった。ファイヤースネークの脱皮した皮は秘薬の材料になると言っていたが、そんな話は一度も聞いたことがない。
あの時は単にお金目当てだろうと思っていたが、それ以上の目的があるように思えてきた。アンドロメダ島からいつもの冒険者ギルドがある町に戻ったら、何を目論んでいるのか、彼を問い詰める必要がある。彼女は深い溜息を吐いた。
…………
ネメアが目を覚ますと、客室は真っ暗になっていた。空が夕闇に飲まれたようだ。近くに人気を感じて横を向くと、大きな黒い塊がもぞりと動いた。
「おはようネメアちゃん、夕食の準備が整ったそうよ」
「ギャー!!」
自分の目と鼻の先にクレタの顔があり、驚いた彼は思わずベッドから飛び上がった。全身に鳥肌が立ってしまう。
「心臓に悪いですよクレタさん!! 何もそんなに近くで話しかけなくてもいいじゃないですか!!」
「ウフフ、ごめんなさいね。つい驚かせたくなっちゃって」
「もう! クレタさんってば本当に俺のことからかうのが好きですよね」
口をへの字に曲げながら、彼は靴を履いてベッドから退いた。彼女と共に客室を出ると、廊下に空腹を誘う良い香りが漂っていた。
「うわぁ、美味しそうな匂いがします」
「ムパリの手料理は絶品よ。さ、冷めないうちにリビングへ行きましょ」
彼女の言葉を聞いて、どんな料理が並べられているのだろうかとワクワクしながら、彼はリビングに入っていった。
テーブルの上には、フワフワと湯気の立つグラタン四つと、柔らかそうな白いパンが入ったバスケットが置かれていた。それらはダイヤのように輝いて見えて、目線が吸い寄せられる。ネメアは口の中でよだれが溢れだし、それをごくりと飲み込んで席に着いた。
向かいに座るムパリは、ネメアとクレタが着席すると、食事をするよう促した。
「二人とも、どうぞ召し上がれ」
「はい! いただきます!」
元気よく返事をして、ネメアはスプーンを手に取り、グラタンを掬った。上にたっぷりとかかったチーズが伸びて、皿の端から落ちそうになる。慌ててそれを絡めとると、彼は息を吹き掛けることも忘れてぱくりと頬張った。
濃厚なチーズの旨味とホワイトソースの優しい甘味がほどけて、口内が幸せで満ちていく。舌を火傷してしまいそうなほどアツアツだったが、そんなことは気にならないぐらい美味しい。噛み締めると、柔らかいマカロニと共に何かがほぐれた。鮭が入っていたようだ。鮭の身はホクホクしていて食べ応えがあり、噛めば噛むほど塩気をまとった旨い汁が滲み出てくる。
ムパリの料理に感動し、彼は大きな声で彼女を褒め称えた。
「このグラタンすっごく美味しい!! 毎日でも食べたいぐらいです。ムパリさんはめちゃくちゃ料理が上手ですね」
「ウフフ、ありがとうネメアさん! そうやって素直に誉めてもらえるの、とっても嬉しいな」
称賛を受けた彼女は、花が咲き誇ったような笑みを浮かべた。その顔があまりにも可愛らしくて、ネメアは思わずポッと顔が赤くなってしまう。その様子を見て、彼女の隣に座るパトスは、密かに眉を潜めた。彼も一口グラタンを食べて、感想を告げる。
「今日もムパリの手料理は美味しいな」
パトスが喋った事にムパリは驚いた。
「えっ、突然どうしたの? いつも食事中は黙々と食べてるのに」
最初は驚きの感情が勝っていたが、いつもは何も言わない旦那に褒められたのがじわじわと嬉しくなってムパリは桃色に頬を染めた。
「んふふ、パトスもありがと」
夫婦の馴れ合いを間近で見せられたネメアは、ムパリさんは絶対に他の男を好きにならないだろうなと、少し落胆した。二人には末長く幸せでいてもらおうと気持ちを改め、邪心を振り払う。
夕食の時間が終わると、パトスは傷が付いた鍋を直しに行き、ネメアとクレタとムパリは、明日から始める稽古のことについて話し合った。
その結果、早朝にこの町をランニングで一周し、休憩を挟んだらムパリと戦って、昼食の後はクレタに武術を習い、その後は自主学習する、という内容に決まった。
ムパリと戦うと言うことで、ネメアは彼女のステータスについて聞いてみた。
「ムパリさんのステータスってどんな感じなんですか?」
「あたしのステータス? えっと、どうだったっけ? あたし、ステータスカードができてすぐの頃に冒険者をやめちゃったから、覚えてないんだよね」
「ステータスカードができてすぐの頃? 前はステータスカードがなかったんですか?」
「うん。昔はステータスとか関係なしに、手当たり次第に魔物を倒しにいってたんだよ。でも、それは危険じゃないかってことになって、ステータスカードが作られたんだ」
「へー、そうだったんですね。でもきっと、全てのステータスがマックスで、どれか一つは200までいってたんじゃないですか?」
「アハハ、そうかも。もしかしてネメアさん、あたしと戦う事が不安なの?」
「はい。だってムパリさんはクレタさんの元仲間ですし、絶対強いじゃないですか」
「大丈夫。あたしからはネメアさんに一切攻撃しないよ。ネメアさんが、飛び回るあたしに攻撃して」
「飛び回る?」
ネメアは大きく首を傾げた。逃げ回るなら分かるが、飛び回るとはどういうことだろうか?
「あ、そういえば言ってなかったね。あたし、鳥の獣人なの」
「えーーーーーー!?」
ムパリの衝撃の告白に、ネメアは思わず叫んだ。彼の声は家中に響き渡った。
…………
次の日。日が昇ってすぐにネメアはクレタに揺すり起こされて、しょぼしょぼする目を擦りながら外へ出た。そこにはすでにムパリが待っていて、二人は彼女と共にランニングを開始した。ネメアは、クレタとムパリに置いていかれないようにしなければと思っていたが、彼女達はペースを合わせてくれた。
ペースを合わせてくれる理由をムパリに聞いてみると、「朝の内から全力を出しすぎると、その後疲れて動けなくなっちゃうでしょ? だから、加減してあげてるの」と、答えが返ってきた。それを聞いたネメアは、ムパリさんはクレタさんほどスパルタではないのかもしれないと気が緩んだ。
ランニングが終わり、休憩を兼ねて朝食を挟んだ後。特訓をするために、ムパリとネメアは居住区から離れた空き地に向かった。彼女は、エプロンを身に纏った妻の姿から、防具を身に纏った戦士の姿に変化している。袖のない上着を着ているのか、腕は無防備の状態だ。
彼女は靴と靴下を脱ぎ、腕を大きく広げた。すると、両腕は羽毛がびっしりと生えた翼に、両足は鉤爪のある鳥の足へと変化した。助走を着け、髪色と同じオレンジ色の翼を大きく羽ばたかせると、彼女は上空へと飛び立った。
「特訓を始めるよ。準備はいい?」
上から声を掛けられて、ネメアはどうやってムパリに攻撃を当てようか考えた。彼女は今、如意棒を5メートルまで伸ばして、攻撃が届くか届かないかぐらいの高さで飛んでいる。さすがに武術や如意棒で戦うのは分が悪いだろう。ここは魔法で攻めた方が良いかもしれない。
呪文を唱え、ネメアは火の玉を10個召喚した。それぞれバラバラのタイミングでムパリに放ち、防具に当てようとする。しかし、彼女は目にも留まらぬ速さで、流れ星のように空を舞い、風圧で火の玉を消してしまった。炎系の攻撃は通用しないのだと、彼は悟った。
それならば、木の根で一度拘束してから攻撃してみよう。ネメアはすぐに別の作戦を考えて実行した。呪文を唱えて木の根を召喚し、ムパリの足目掛けて素早くそれを伸ばす。今度は、木の根が地面から顔を出した瞬間に急上昇されてしまい、そこまで伸ばすことができなかった。驚異的な反応速度だ。
「ネメアさん、あたしを魔法で攻撃しようとしてるみたいだけど、呪文を口に出さない方が良いんじゃない? だってあたし人間だから、呪文を聞いたらどんな魔法が来るか分かっちゃうよ?」
「あっ、確かに!」
指摘を受け、ネメアはハッとした。魔物は人間の言葉が分からないので、呪文を唱えても警戒されることは無いが、ムパリは人間なので警戒されてしまうに決まっている。つい、いつもの癖でやってしまった。
だがこの話を抜きにしても、彼女は素早すぎて攻撃が当たらない気がする。もしステータスカードに回避という項目があれば、彼女はそれが200に達しているだろう。運良く不意打ちが当たれば万々歳だ。
「俺、ムパリさんに攻撃を当てられるんでしょうか?」
「できるできる! 火の玉が飛んでくるスピード、とっても速くて驚いちゃったもん。それに木の根だって、呪文が聞こなかったら捕まってたかも」
「本当ですか?」
「ほんとほんと!」
おだてられて、ネメアは自信が湧いてきた。お世辞だとしても、美人に誉められるとやる気が出る。不意打ちが当たれば万々歳、それならどうすれば不意打ちできるのか考えてみよう。2分ほどその場で頭をひねり、そして思い付いた。
ネメアは火の玉を召喚する魔法の呪文を、声に出して唱えた。彼が呪文を唱え出した瞬間、ムパリは目を丸くして、「え? あたし、呪文は唱えない方が良いって言ったよね?」と戸惑った。だが、彼が呪文を唱え終わった時、召喚されたのは火の玉ではなく木の根だった。
完全に油断していた彼女は、木の根に片足を絡めとられてしまい、バランスを崩して地面に叩きつけられた。彼は火の玉を召喚する呪文を口で唱えながら、頭の中で木の根を召喚する呪文を唱えていたのだ。この作戦は、呪文を聞けば何の魔法が来るか分かる、人間にこそ通用するものだろう。
まんまとネメアの作戦に引っ掛かってしまったムパリは、起き上がると頬を膨らませた。
「もう! ネメアさんそれはズルい!」
怒ったムパリは全力でネメアの攻撃を回避するようになり、その後彼の攻撃は一切当たらなくなった。彼もあまりに攻撃が当たらないので、意地になって魔法を連発し、鼻血を出して倒れてしまったため、そこで特訓は終わった。
ムパリの自宅へ戻って昼食をとった後。彼女と特訓をした空地へ、今度はクレタと共に向かい、武術の稽古をつけてもらった。まずは組み手を行い、クレタはネメアの戦い方を分析した。その結果、彼は身のこなしは軽やかであるものの、強烈な一撃を与える技を持っていないことを見極めた。そこで今日は、飛び膝蹴りを教えることにした。
武術に限らず、短剣や長剣、如意棒などの様々な武器で戦えたり、魔法で戦うこともできたりと、彼は根っから器用なので、飛び膝蹴りはすぐに習得できた。クレタは、彼の呑み込みの早さを褒め称えた。
昼食の時、ネメアが魔法の使い過ぎで鼻血を出して倒れたとムパリから聞き、彼女は体調を心配していたため、今日の特訓は早めに切り上げることにした。彼は自主学習に移ることになった。と言っても、何をやれば良いか分からなかったため、クレタにアドバイスを求めた。彼女は、魔法のコントロールを極めてみたらどうだと提案した。彼はそれに乗った。
クレタはムパリの家に戻り、一人空地に残ったネメアは、地面に胡坐をかいた。魔法のコントロールを極めると決めた時、彼の頭の中にムパリと特訓した時の事が思い浮かんだ。あの時自分は、口で火の玉を召喚する呪文を唱えながら、頭の中で木の根を召喚する呪文を唱えるという、器用な事をやってのけた。それなら、別の魔法を二つ同時に発動することもできるのではないかと思いついた。
火の玉を召喚する呪文を口で唱えて、頭の中で木の根を召喚する呪文を唱えてみる。すると、ひょろひょろとした頼りない火力の火の玉一つと、小さな若葉の芽がぴょこっと地面から顔を覗かせた。あまりにも情けない魔法の効果に、彼は思わず吹き出してしまった。だが、二つ同時に発動する事は可能であると分かったため、一筋の希望が見えた。
それから何度も二つの魔法を同時に発動する練習をした。100回ほど試しただろうか? 火の玉を召喚する魔法も、木の根を召喚する魔法も、どちらも魔力の消費は少ないが、流石に何度も使っていたら汗だくになっていた。もう何の呪文を唱えているか分からなくなってきた頃、突然上から声が降ってきた。
「おにーさん、何してるの?」
「うわっ!?」
完全に自分の世界に浸っていたネメアの意識の中に、外の世界の情報がなだれ込んできた。情報量に目がくらんで、視界に星がちらつく。ぼんやりとした景色の中に、声の主が顔を覗かせた。夜空に浮かぶ星のように煌めく銀色の髪を持っていて、丸眼鏡をかけている。背丈は十歳の子供ぐらいで、男女の判別がつかない。
「大丈夫?」
銀髪の子供の問いに、頬を叩いて頭をしゃっきりさせてから、ネメアはこくりと頷いた。その時、膝の上に柔らかい何かが乗ってきた。そちらに目を向けると、空に浮かぶ雲を生き物にしたような、二匹の小型の生物がいた。小さな耳と尻尾が生えていて、片方は脇腹にスリスリと体を擦り付けてくる。もう片方は「キャンキャン」鳴いた。
「こんにちは冒険者さん。何をしてるのか気になって、つい声をかけちゃった」
子供はネメアの前にしゃがみ込んで話しかけてきた。
「こんにちは。俺は魔法をコントロールする特訓をしてたんだよ。二つの魔法を同時に発動できないかなと思ってね。あの、この生き物は君が連れてるのかな?」
膝の上に乗っかり、ブンブンと尻尾をふる生物をちらりと見て、子供に尋ねた。
「うんそうだよ! この子は僕の飼い犬のオルとロス。その子たち、僕以外にはあまり懐かないんだけど、もう懐かれてるなんて凄いね!」
「アハハ、そうなんだ」
人の家の犬に突然懐かれて、ネメアはタジタジになった。キャンキャン吠えていた方は体を伸ばして、彼の頬をぺろぺろと舐めている。体を擦り付けていた方は、膝の上でどっかりと丸まって、まるで自分の寝床のようにくつろいでいた。
「ねえお兄さん、君が冒険者なら伝えておきたい事があるんだけど……」
先ほどまで無邪気に振舞っていた子供が、声のトーンを落として真面目な顔になった。その場の空気は霜が降りたように冷え、「ヒュッ」と喉の奥が鳴る。目の前の子供が、ただの人間とは思えない、異質なオーラを発しているように感じたのだ。
「お兄さん、船の護衛の依頼をした時、クラーケンに遭遇したでしょ。普段は船なんて滅多に襲わないのに、変だなと思ったよね。実は最近、この島の近海でお化けクジラが現れて、クラーケンの餌になる生き物を全部食べちゃってたんだ。だからクラーケンはお腹を空かせて、君たちが乗っていた船を襲ったんだよ」
ネメアは驚いて、どうして自分の身に起こった事を知っていたのか聞こうとした。だが、唇が石のように重く感じて、開くことができなかった。子供の様子を窺うと、口に人差し指を当てて静かにするよう指示していた。
「今は僕の話を聞いて。お化けクジラは、二日後にアンドロメダ島の海岸にやってくる。上陸されたら多くの死人が出るだろうね。そうなる前に、この事をクレタとムパリに伝えてほしいんだ」
パンと手を叩いて、真剣な顔をしていた子供は表情を緩めた。ネメアは口を動かせるようになっていた。
「君は……いや、貴方は何者なんですか?」
「僕はアイドーネウス、アイちゃんって呼んでほしいな。クレタとムパリには、さっきの話をアイちゃんから聞いたって伝えておいて」
「いやあの、そういうことじゃなくて!」
「君がこのままクレタと行動を共にするなら、じきに僕の正体を知ることになると思うよ」
ろくにネメアの質問に答えないまま、アイは彼にじゃれていたオルとロスを抱き上げて、その場から煙のように消えてしまった。あまりにも消化不良な出来事に、彼はあっけらかんとした。
アイという子供の事が気になりすぎて、ネメアは集中して魔法の練習ができなくなってしまった。自主勉強を続けるのは諦めてムパリの家に戻り、クレタとムパリをリビングに呼んで、アイからの伝言を伝えた。
彼女達は最初、通りすがりの変わった子供に言われた冗談だと思って苦笑していたが、「アイちゃん」という名前を出した途端、顔色が一気に変わった。クレタが珍しく眉を下げている。
「アイちゃんがわざわざ警告してくるなんて、相当厄介な魔物なんでしょうね、そのお化けクジラって奴」
ムパリは彼女の懸念に同調した。
「きっとそうだよね。しかもお化けクジラなんて魔物、聞いたことがないよ。新しく産み出された魔物ってことかな?」
「相手の弱点や、どんな攻撃をしてくるのか分からない状態で戦うのは、骨が折れるわね」
二人の話を聞いていたネメアの頭の中は、不安と疑問が渦を巻いた。熟練の冒険者であるクレタさんやムパリさんですら知らない魔物とは、いったいどういう事だろう? 会話の中に気になる言葉が出てきたので、彼はすかさず訊いてみた。
「あの、新しく産み出された魔物って、どういう事ですか?」
彼の質問にクレタが答えた。
「これを聞いたらショックを受けるかもしれないけど、実は魔物は、精霊達によって産み出されたものなの」
「えっ!? どうしてそんなことをするんですか!?」
衝撃の事実を知ってしまい、ネメアは頭が真っ白になった。今まで出会ってきた巨木の精霊や火口湖の精霊は、好戦的ではあるが人間に害を成すような者には見えなかったのに。
呆然としている彼に、ムパリは優しく声をかけて宥めた。
「落ち着いてネメアさん。精霊達が魔物を産み出したのには、きちんと理由があるんだよ」
「理由? 精霊達には、人間を虐殺するような生き物を産み出して良い理由があるんですか?」
困惑の次は、怒りの感情がネメアの中に湧いてきた。彼は辛い過去の出来事を思い出して、歯を食い縛る。彼の様子を見て、クレタは同情するように静かに頷いた。
「やっぱり、そう思ってしまうわよね。私もこの事を最初に知った時、腸が煮えくり返りそうだった。でも、最後まで話を聞いて。精霊は世界の調和を保つために生まれてきた存在だから、人間の見方ばかりするわけにはいかないの。
人間は、生き残るのに必死な自然界の生き物と比べて、賢く、強く、そして強欲だから、新たな土地や過剰に豊かな生活を求めて、自然を破壊しつくし、戦争を起こしてしまう。それを抑制するために、精霊は魔物を産み出したり、災害を起こしたりするの」
「そんな! 全ての人間が悪だとでもいうんですか!?」
「いいえ、全ての人間が悪という訳ではないわ。だけど知性がある限り、悪になる可能性はある」
「でも…………」
ネメアは言葉を詰まらせた。俯き、唇を舐めて、何とか反論を捻り出そうとする。だが、ここでクレタに反論できたところで、精霊達に魔物を産み出すことをやめさせられる訳ではない。悔しさを募らせつつ、冷静さを取り戻すよう自分に言い聞かせた。
今自分に出来ることは、魔物を産み出すなと精霊に説得することではなく、2日後にやってくるお化けクジラを討伐して、アンドロメダ島の人々を守ることだ。
長い息を吐いて気持ちを落ち着かせると、ネメアはクレタとムパリに決意を語った。
「俺、お化けクジラが襲来するまでに、たくさん特訓を積んで強くなります。一人でも多くの人を守りたいです」
残酷な真実を知ってうちひしがれていた彼が、すぐに立て直して決意を固めた様に、クレタとムパリは感心した。
その後、ネメアは熱心に特訓に打ち込み、クレタとムパリも誠意を込めて指導を行った。そして、パトスにもお化けクジラの話が伝えられ、彼は工房に籠って何かを造り始めた。それが完成したのは、ちょうど2日後のことだった。
朝日が昇るよりも先にネメア達は目を覚まして、朝食を取り、お化けクジラと戦う準備を始めた。ネメアは、残り一本になった短剣をロープで腰に巻き付け、ボタンを押すと爪先から刃が出てくる黒い革靴を履き、ズボンのポケットに如意棒を入れた。クレタは念入りにストレッチをしている。
ムパリとパトスは工房へ何かを取りに向かった。ムパリは、内側に円形のガラス管が入っている、銀の腕輪を3つ持ってきた。紫色の液体がガラス管の中で揺れている。パトスは、何かがどっさりと入った袋を乗せて、荷車を押してきた。二人が持ってきた物の詳細が気になり、ネメアは尋ねた。
「ムパリさん、その腕輪は何ですか? それから、荷車の袋には何が入っているんですか?」
「袋の中身はまきびしだよ。あたしが戦う時に使うんだ。このまきびしは相手に刺さった瞬間、体が痺れる毒が注入されるの。パトスが作ってくれたんだ。あたしが持ってる腕輪も、パトスが作ってくれた物だよ。これを身に付けると、30分間魔力を消費せずに魔法を使えるんだって」
ストレッチをしていたクレタが、腕輪を見て「あっ!」と声を上げた。
「その腕輪、もしかして巨木の精霊から貰った薬草で作った薬が入っているのかしら?」
クレタの問いかけに、パトスがこくりと頷いた。彼はお化けクジラの話を聞いた時、彼女から薬草を6本貰いたいと要求していたのだ。渡した薬草を便利な道具へと変えてくれた事に、彼女は感激した。また、ネメアも一緒に感謝した。
「素敵な腕輪をありがとう、パトスさん!」
「俺からも、ありがとうございます!」
ネメアは、ムパリが言っていたパトスの優しさについて分かった気がした。彼は無口だが、相手の事を思いやる気持ちが人一倍強いのだろう。
支度を終えた四人は、家を出て海岸に向かった。早朝の海岸は冷たい海風が吹き付けてきて、鳥肌が立ちそうなぐらい寒い。だが、穏やかな波を黄金色の朝日が照らす景色は、思わず見とれてしまうような美しさだ。本当にこの場所にお化けクジラが現れるのか、疑いたくなってしまう。
しかし、次第に波が荒れ始め、雲行きが怪しくなってきた。遠くから、山のように巨大な影が迫りくる。徐々に見えてきたそいつは、心臓が凍りついてしまいそうなほどおぞましい姿をしていた。
ライオンの上半身に、ぽっこりと膨れ上がったクジラの下半身を持った化け物が、前足で水をかき、尾びれを優雅に動かして、海岸目掛けて前進してくる。大きさは34メートルほどありそうだ。
お化けクジラの凶悪な姿に圧倒され、ネメアは思わずよろめき、尻餅を着いた。クレタが目を丸くして後ずさる。それから大きな声で皆に指示した。
「皆、砂浜から離れて堤防に向かうわよ! じゃないと、押し寄せてきた波に飲み込まれる!」
四人は慌てて砂浜を駆け上がり、堤防の影に身を潜めた。その間にネメアとクレタとムパリは腕輪をはめた。お化けクジラが海岸に到着すると、ザバーンと一気に海水が押し寄せて、砂浜が沈んでしまった。堤防から少し顔を上げて様子を見たネメアは、歯を鳴らして震える。
ムパリは顔をひきつらせながら、夫のパトスに頼みごとをした。
「海岸の近くに住んでいる人達を、今すぐ避難させて。できれば、応援も連れてきて」
彼女の頼みを深く頷いて承知し、パトスは戦いの場から退いた。それを見届けた後、彼女は袋を開けてまきびしを荷車の上に広げ、鳥の獣人の姿に変身した。それから両足の鉤爪でまきびしを掴んだ。
「あたしがお化けクジラを痺れさせる。その後に、クレタとネメアさんは攻撃を仕掛けて」
そう告げると、ムパリは翼を羽ばたかせて、灰色の空に向かって飛んでいった。
ムパリのオレンジ色の翼は、厚い雲に覆われた暗い空の中では一際輝いて見えて、すぐにお化けクジラの注意を引いた。そいつは大きく口を開けて牙を剥き出しにし、前足で弾みを着けてジャンプすると、彼女に噛みつこうとした。
彼女はヒョイッと高く飛んでそいつの噛みつき攻撃を交わし、背中側へ旋回する。鉤爪で掴んでいたまきびしを放し、翼を羽ばたかせて風を送ると、ピストルのような速さでまきびしが突き刺さった。このまきびしに含まれている毒は、普通の魔物なら一つ刺さっただけでも30秒間身体が痺れて動けなくなる。
しかしお化けクジラは蚊に刺されたぐらいの痛みしか感じなかったのか、ちょっと後ろを振り向いて、前足でポリポリと背中を掻いた。あまりにも体が大きすぎて、毒が回らないのだ。ムパリはその様子にゾッとし、もっと沢山のまきびしを当てなければならないことを悟った。
新たなまきびしを取りに行くため、彼女は堤防まで飛んでいこうとした。その時、お化けクジラが巨大なヒレで海水を掬い、上空目掛けてそれを振り撒いた。即座に不味いと感じた彼女は、ドリルのように体を高速スピンさせながら飛び、堤防の奥に突っ込んだ。背中を岩肌にぶつけて、その場に倒れ混んでしまう。
「ムパリさん、大丈夫ですか!?」
いきなり自分達の方へ突っ込んできたムパリに驚きつつ、ネメアは彼女に回復魔法をかけた。
「ありがとうネメアさん。体の方は大丈夫。だけどあたし、あいつと滅茶苦茶相性悪いかも。さっき海水をかけられそうになったんだけど、翼が濡れたら飛べなくなっちゃうから」
「なるほど。それじゃあ周りに魔法の盾を召喚しましょうか?」
「うん。そうしてくれると助かるかも」
冷や汗をかきつつ、ムパリは彼に対して微笑んだ。クレタもまた、彼女をサポートすることにした。
「私も盾を召喚する。それから、お化けクジラの注意を引き付けておくわ。ネメアちゃんも、一緒にやってくれるわよね?」
「もちろんです!」
二人は呪文を唱えてムパリの四方と頭上に盾を召喚した。ムパリはまきびしを鉤爪で掴み、お化けクジラの元へ飛んでいく。そいつはのそのそと前足を動かし、水を掻いて上陸を進めていた。ムパリを見た瞬間、そいつは口を大きく開ける。また飛びかかってくるのだろうかと重い、彼女は高く飛んだ。
だが、彼女の予想は外れた。お化けクジラは飛び上がらず、口から激流を発射したのだ。予期せぬ行動に反応できず、ムパリはそれをまともに食らってしまう。盾が攻撃を防いでくれたものの、勢いに圧倒されて吹き飛ばされてしまった。クレタとネメアも対応しきれず、その様子にただ息を飲むことしかできない。
バランスを崩したムパリは海へ落ちそうになっている。そんな中、お化けクジラが彼女の方を向いて口を開け、すかさず追撃を入れようとした。今度は何としてでもそれを阻止しなければならない。ネメアはどうすれば良いか瞬時に考え付いた。
口と頭でそれぞれ別の呪文を唱える。すると、火の玉がお化けクジラの顔面目掛けて飛んでいき、海底から生えた木の根がムパリの腹に絡み付いて、彼女の身体を海面ギリギリで支えた。
火の玉が当たったお化けクジラは思わず口を閉じ、激流攻撃が阻止される。また、召喚された木の根はすぐに引っ込んでしまったが、ムパリが体勢を整えるには十分だった。ネメアは特訓を積んだおかげで、別の魔法を2つ同時に発動できるようになったのだった。
お化けクジラの視線がネメアの方へ向いた。その隙に、体勢を立て直したムパリは空高く羽ばたき、頭上にまきびしを落とした。何か違和感を覚えたのか、そいつはパチパチと目をしばたたく。だが、まだ毒は回っていないらしい。ブルッと首を振ったかと思うと、ネメアに対して大きく口を開き、激流を発射しようとした。
隣にいたクレタが即座に呪文を唱えて、彼の前方に巨大な盾を召喚する。それが放たれた強烈な水圧を防いでくれたものの、瞬く間に壊れてしまった。ネメアはその様子を見て、ただ盾を召喚して激流を防ぎ続けるには限界があるように感じた。この攻撃は厄介なので、何か対策を考えたい。
これまでに勢いよく水を発射してくる敵に対してどのように戦ってきたのか、ネメアは思い返した。確か、これまで水に関する攻撃を仕掛けてくる敵には、殴った物を凍りつかせるグローブで戦ってきたはずだ。それならお化けクジラと戦う上でも、そのグローブで起点を作れるかもしれない。
ネメアはアイテムボックスから急いでグローブを取り出し、一旦腕輪を外して手にはめた。その間に、ムパリがこちらに戻ってきて、次に撒くまきびしの用意を始めた。彼女に、クレタが声をかけた。
「ムパリ、私も一緒にまきびしを撒くわ。二人で手っ取り早く痺れさせないと、どんどん陸に上がってきちゃう」
そう言って、彼女はお化けクジラを睨み付けた。こうしてやり取りをしている間にも、そいつは優雅に尾鰭をなびかせ、ズシンズシンと前へ進んでいる。冷や汗を一筋垂らして、ムパリは頷いた。しかし、ネメアが二人のやり取りに口を挟む。
「あの、ムパリさんは空を飛べるので大丈夫ですけど、クレタさんは直接お化けクジラに近づいたら危ないんじゃないですか? 砂浜は水に浸かって動きにくいですし、ここからお化けクジラに飛び乗るとしても、激流で攻撃されちゃいますよ」
彼の意見を聞き、クレタは難しい顔をしながら首を横に振った。
「ネメアちゃんの言う通りだけど、今は身の安全に構ってられないわ。自分が犠牲になってでも魔物から人々を守り抜く、それが私達冒険者の使命よ」
「待ってください! 俺はクレタさんに犠牲になってほしくありません! だから、クレタさんが安全にお化けクジラと戦える作戦を考えさせてください!」
覚悟の決まったクレタの表情にドキリとし、ネメアは咄嗟に腕を掴んで引き留めた。彼女は「えっ」と目を見開き、時間が止まってしまったかのように動かなくなる。彼は周囲を見渡して、頭をフル回転させた。まきびし、荷車、グローブ、激流、それぞれの点と点になった情報が、一つの線で結びつく。
「そうだ、思いつきました!」
作戦を閃いたネメアが大きな声を上げ、ムパリとクレタは彼に注目した。彼が作戦の内容を話すと、彼女達はそれに乗ってくれることになった。
堤防の上に立って、ネメアが呪文を唱え始める。お化けクジラは彼を見やると、ここがチャンスだと言わんばかりに目を細めて、口を大きく開けた。極太の水流が、真っ直ぐに彼へ放たれる。ネメアは後ろに飛び下がって堤防を降りると、それを乗り越えてきた水流を思い切りパンチした。
拳に強い衝撃と激しい痛みが加わり、全身が打ち震える。その後、指の感覚が無くなった。骨が折れてしまったのかもしれない。だが、痛みを堪えて前方を見れば、お化けクジラの口の奥から堤防の下まで、氷の架け橋がかかっていた。
「クレタさん、今です!」
「えぇ!」
まきびしの入った荷車を押しながら、クレタが氷の架け橋を全力疾走した。そして、吐いた水が凍らされてしまった事により、閉じられなくなったお化けクジラの口の中へ、荷車ごとまきびしを投げ入れた。
5秒経って、凍らせた水が溶ける。ムパリが飛んでクレタの元へ行き、彼女の背中を足で掴んで堤防に戻った。お化けクジラはまきびしを飲み込み、それでようやく毒が回ったのか、低い唸り声を上げ、力無く前足を折ってその場に伏せた。
「よし、これでお化けクジラに攻撃を仕掛けられるね」
ムパリは痺れて動きの鈍くなったお化けクジラを見て、目を細めた。
「あの水浸しの砂浜じゃ動きにくいだろうから、クレタとネメアさんは、直接お化けクジラの体の上に乗って戦った方が良いんじゃないかな。あたしが二人をそこまで運ぶよ」
「そうね、頼んだわよムパリ」
「はい、お願いします」
二人が自分の提案に納得したため、ムパリはまずクレタを運ぶことにした。翼を羽ばたかせ、彼女の背中を足で掴み、お化けクジラの元へと飛んでいく。彼女たちが自分を攻撃しに来たと分かったそいつは、前足を強く踏み込んで飛びかかってきた。痺れている分高度が低くなっているが、ムパリもクレタを運びながら飛んでいるため、避けることが難しくなっていた。クレタの頬をそいつの鋭い爪が掠める。
ネメアはムパリが無事にクレタを運べるよう、手助けする必要があると分かった。まずは回復魔法を使って、先ほど激流を殴った時に折れてしまった指の骨を治した。それから、呪文を唱えて光の球を召喚し、お化けクジラの目元へそれを飛ばした。
お化けクジラは光の球に興味を持ち、前足を伸ばしてそれを捉えようとした。光の球がそいつの手の中に納まりそうになった瞬間に、彼はそれを横に逸らした。お化けクジラは移動した光の球を追って、またまた前足を伸ばす。そうすると、ネメアはまた手の届かない位置に球をずらした。
お化けクジラの上半身はライオン、ライオンはネコ科の動物である。ネメアは、猫が光るものに反応して捕まえようとするという習性を知っていたため、それを利用できるのではないかと考えたのだ。下手にお化けクジラを攻撃すれば、激流攻撃が飛んできてしまうため、こうして気を紛らわせるのは良い作戦と言えるだろう。
光の球にお化けクジラが夢中になっている間に、ムパリはクレタの移動を終わらせることができた。クレタが光の球をお化けクジラにじゃれつかせる作業を交代し、ネメアの移動も完了した。彼はズボンのポケットから如意棒を取り出し、それを160センチメートルの長さに伸ばした。本格的な戦いの始まりだ。
「私はお化けクジラの上半身を攻撃するから、ネメアちゃんは下半身をお願い」
「了解です」
ネメアとクレタは、攻撃する範囲を分担した。さっそくクレタが、お化けクジラの背骨を左右の足で強く叩き始めた。ドコドコドコと、かなり激しい勢いで攻撃している。痛みを感じたお化けクジラは後ろを振り向き、口を開けて激流を発射する準備をした。
そんなお化けクジラの頭の上に、鋭い何かが降り注いだ。頭の後ろに、金属の羽が何枚か突き刺さる。ムパリが魔法で自分の羽を金属に変え、それを飛ばしたのだ。抜けた分の羽は回復魔法を使って再生し、また金属に変えた。目にもとまらぬ速さで羽ばたき、それを発射する。
次の攻撃はお化けクジラが前足を使って振り払い、防がれてしまった。激流攻撃をするための準備も整い、空の上のムパリ目掛けて、強烈な水流が発射される。彼女は攻撃をやめて、燕のように素早く身を反転し、激流を避けた。そいつは顔を動かし、水流を当てようと彼女を追うが、逃げ切られてしまう。
それならばと、お化けクジラは尾びれを海面に打ち付け、水しぶきを飛ばし始めた。ムパリはまたまた方向転換して水しぶきを避けるが、彼女の移動した方向にそいつは顔を向けていて、激流が放たれてしまう。これでは八方塞がりだ。彼女は何とかして逃げ回るが、このままでは飛び疲れてしまうだろう。
そんな時、尾びれ側の攻撃がいくらか止み始めた。ムパリがそちらの方へ逃げてくると、ネメアがお化けクジラの尾びれを連続で如意棒で突き、動きを止めようとしていることが分かった。彼がこうして尾びれを抑えていてくれれば、顔の方へ回って激流を避けつつ、金属の羽で攻撃できると彼女は感じた。
こうして、顔はムパリ、上半身はクレタ、下半身はネメアが攻撃するという、完璧な戦闘態勢が構築されたのだった。この状態を維持できれば、応援が駆けつけるまでもなくお化けクジラを倒すことができるだろう。
しかし、現実はそんなに甘くない。お化けクジラにある程度ダメージが入り、口から発射される激流が弱まって、尾びれの動きが遅くなってきた頃、海の向こうから何者かがやってきた。それを最初に発見したのは、空を飛んでいたムパリだった。
海の向こうからやってきた者は宙に浮いている。サーモンピンク色の髪は海藻のようにうねり、藤色のマーメイドドレスを着ていた。その者はお化けクジラと戦うネメア達をギロリと睨みつける。ムパリはその者の方へ飛んでいき、話しかけた。
「貴方はサンゴ礁の精霊ね。お化けクジラは貴方が産み出したの?」
「そうよ。アンドロメダ島の愚かな漁師達が、私の身体、サンゴ礁を漁師網で傷つけたの! だからお化けクジラに島を襲わせて、頭を冷やさせるのよ。二度と私のサンゴ礁がある海域で漁ができないようにね。だから私の邪魔をしないで!」
声を荒らげ、サンゴ礁の精霊は右手を水平に振った。すると、お化けクジラがジタバタと暴れだし、ネメアとクレタは背中から振り落とされ、水没した砂浜に落ちていった。サンゴ礁の精霊は、お化けクジラの身体の痺れを、魔法で取ってしまったのだ。ムパリは顔を真っ青にし、ネメアとクレタの方へ飛んでいった。
「クレタ、ネメアさん!」
痺れが取れて楽に体を動かせるようになったお化けクジラが、水に沈んだ二人に飛びかかった。あの攻撃を避けることは不可能だろう。ショックな光景を目にし、ムパリは息を呑んだ。
重い前足がネメアとクレタにのしかかる。このままでは押しつぶされてしまうだろう。しかし、二人は前足を両手で受け止めて持ちこたえた。
「ネメアちゃん、せーので持ち上げるわよ」
「はい!」
「せーの!」
二人は両腕に力を込めて、全力で前足を持ち上げた。お化けクジラがよろめいて後ろに下がる。その間に、走って距離を取ることに成功した。ネメアはお化けクジラが襲来するまでの期間に、自身の技を磨くだけでなく、クレタとの連帯も取れるように特訓していたのだ。その成果が出て、彼は顔を綻ばせた。
「お互いのコンビネーションを高めた甲斐がありましたね」
「そうね。よく頑張ったわネメアちゃん」
弟子の成長に、クレタもまた喜んだ。二人が無事だった様子を見て、ムパリもホッと一息吐く。
一方、サンゴ礁の精霊は眉を潜めて舌打ちした。その音を聞いて、二人は彼女の存在に気が付く。ネメアは全身の毛が逆立ち、静かな声でクレタに尋ねた。
「クレタさん、あの人ってまさか……」
「えぇ、お化けクジラを産み出した張本人みたいね。彼女はサンゴ礁の精霊よ」
返答を聞き、ネメアは頭の天辺が沸騰するように熱くなって、額に青筋が浮いた。
「あいつ、あいつがこんな化け物を産み出したんですね。許せない……!」
ネメアの心の中で、怒りや憎しみのこもった真っ黒な炎が燃え盛った。幼き日の辛く悲しい思い出が、瞼の裏で鮮明に描かれる。彼の故郷の村は、魔物の中で最も強いと言われるテュポンに襲われ、焼け野原になってしまったのだ。だから、お化けクジラにアンドロメダ島を襲わせようとしているサンゴ礁の精霊に対し、途方もない怒りが込み上げてきたのである。
「お前、どうしてお化けクジラにこの島を襲わせるんだ!!」
彼はサンゴ礁の精霊を怒鳴りつけた。彼女はフンっと鼻を鳴らし、お化けクジラの頭上に腰を下ろす。そいつは前足を伸ばして大人しく砂浜に伏せた。彼女は足を組んで、ネメアとクレタを見下ろしながら問いに答えた。
「先ほどムパリにも話したのだけれど、あんた達にも教えてあげるわ。この島の愚かな漁師達が、私の身体であるサンゴ礁を傷つけたの。だから痛い目に合わせて、二度と私のサンゴ礁がある海域で漁をできなくするのよ」
彼女の言い分に、ネメアが即座に反論した。
「それなら、漁師達に直接話をすればいいじゃないか! これは流石にやり過ぎだ!」
「話し合いなんかで解決するわけない! 人間は強欲の化身よ! 私のサンゴ礁がある海域は、沢山の魚が生息しているし、危険な魔物もあまりいない。だからどれだけ注意しても、漁師達はそこで漁をするに決まってるわ!」
反論に反論が重なる。サンゴ礁の精霊は人間を全く信用していないようだ。お化けクジラの頭上から立ち退き、彼女は堤防の先を指さした。
「お化けクジラ、まずは港町を襲撃するのよ!」
命令されて、お化けクジラはのそりと起き上がった。三人は何とかして上陸を防がねばならないと思ったが、サンゴ礁の精霊がそいつの身体を魔法で浮かせ、堤防の先に移動させてしまった。
「せいぜい、町が襲われる様子を、指をくわえて見えていればいいわ」
そう言い残し、彼女はお化けクジラの方へ飛んでいった。ネメアは歯ぎしりをし、拳をギュッと握る。そんな彼の肩にクレタが手を置いた。
「落ち着きなさいネメアちゃん。戦いの場では、冷静さを失ったものから死んでいくのよ」
そう言って宥めた彼女の目にも、強い怒りが籠っている。ムパリは彼らの元まで下がってきて、穏やかに言った。
「サンゴ礁の精霊は、自分の身体を傷つけられて気が動転しているみたい。あの子、とても臆病な性格だから。まずはお化けクジラを倒して、それから話し合いをしよう」
サンゴ礁の精霊の精神状態と、やるべき事を冷静に判断したムパリの意見を聞いて、二人はひとまず心を落ち着かせた。それから三人は戦う際の役割分担を決め、お化けクジラとサンゴ礁の精霊を追いかけた。
お化けクジラは幸いにも、まだ町中に突入していなかった。それどころか、前方で十人の人々が武器を持って戦い、侵攻を食い止めてくれているようだった。
サンゴ礁の精霊は、魔法で鋭くとがった複数の石を召喚して攻撃しているが、弓やトライデントを持った者に、その攻撃を撃ち落とされている。彼らはパトスが呼んできた応援だろう。
よくよく見れば、応援の中にネメアとクレタが見知った顔があった。ネメアはその者達に、思わず声をかけた。
「ルーゴさん! それに船員の皆さんも!」
彼の声にルーゴが反応を示した。
「ネメア君、クレタ君! お化けクジラの行く手はわしらが阻むから、攻撃は任せたよ!」
「分かりました!」
返事をして、ネメアはお化けクジラの背中目掛けて走り出した。「高く伸びろ、如意棒!」と叫び、手に持っていた如意棒を5メートルの長さに伸ばして、棒高跳びでそいつの背中に飛び乗った。後から来たクレタも如意棒を使って背中に乗る。
ムパリは、サンゴ礁の精霊がいる方へ飛んでいった。彼女はサンゴ礁の精霊がお化けクジラを手助けできないよう妨害するのが役目だ。
サンゴ礁の精霊は、応援に駆けつけた者達への攻撃をやめ、お化けクジラの背中に乗ったネメアとクレタに注目した。彼らの方へ顔を向け、胸に手を当てながら歌を歌い始める。それは、セイレーンが人間へ催眠術をかける時の歌だった。
二人を眠らされてはまずい。ムパリは、羽音を立てないよう注意しながら、サンゴ礁の精霊の背後にこっそり近づいた。そして、耳元でフーッと優しく息を吹き掛けた。
「キャッ!」
驚いて、サンゴ礁の精霊は歌うのをやめた。若干意識が遠のいていたネメアとクレタだったが、そのおかげで正気に戻った。
ネメアは地面に落ちた如意棒に、魔法で召喚した木の根を巻き付け、引き上げた。そして、如意棒を160センチの長さにし、お化けクジラのうなじを連続で突き始めた。クレタは尾びれにまたがり、強烈なパンチをお見舞いした。彼らの攻撃が響いたのか、そいつはうめき声を上げて暴れだす。
お化けクジラは前足と尾びれをジタバタさせた。背中の上では強烈な揺れが起こり、ネメアは振り落とされてしまう。咄嗟に受け身を取ったが、背中から地面に叩きつけられ、背骨が折れてしまった。
「グアアッ!」
激しい痛みに襲われた彼に、更なる悲劇が起こる。お化けクジラの尾びれが、自分に近づく者全てを凪払うように左右へ振り回されて、それに体を撥ね飛ばされてしまったのだ。「うわああ!」と悲鳴を上げながら、5メートル先の地面へ落下する。
全身が雷を浴びせられたように、ビリビリヒリヒリした。しかし、彼はこんなことでめげるような男ではない。回復魔法の呪文を唱えて、すぐに復帰した。
ネメアのいる場所の向こう側では、クレタも尾びれに撥ね飛ばされて倒れていた。彼女は打ち所が悪く気絶している。のたうち回っていたお化けクジラはそれを発見し、獲物を捕らえるならここがチャンスだと目を光らせた。サンゴ礁の精霊もまた、彼女の頭上に魔法で巨大な岩を生成し始めた。
これは早急にクレタを助けねばならない。ネメアは呪文を唱えて、遠方にいる彼女へ回復魔法を使った。ムパリはお化けクジラの顔目掛けて、金属の羽を飛ばした。
サンゴ礁の精霊が岩を生成し終わり、それに押し潰されてしまう寸前、クレタは復活した。条件反射的にパンチを繰り出して、大きな岩を打ち砕く。お化けクジラの方は、ムパリの発射した金属の羽が両目に突き刺さり、クレタを襲うどころではなくなっていた。そろそろ、止めを刺すことができそうだ。
目を攻撃されてビチビチと暴れているお化けクジラを見て、ルーゴが集まった応援に声をかけた。
「皆、あいつを押さえ付けるんだ!!」
彼を含めた10人の応援は、お化けクジラの全身に散らばり、力の限り押さえ付けた。
「ネメア君、クレタ君、今の内に!」
「はい!」
ネメアは、お化けクジラの腹の横に落ちた如意棒を拾い上げ、棒高跳びをして腹の上に乗った。それを木の根で拾い上げ、向こう側にいるクレタに渡した。彼女もまた、棒高跳びで腹の上に乗る。如意棒を回収すると、どこを攻撃するか話し合った。
「クレタさん、どこを攻撃しに行きますか?」
「頭を狙うわ。止めを刺しに行くのよ。練習していた“あの技”を使う時が来たわ」
「なるほど、了解です!」
打ち合わせが終わると、二人はお化けクジラの顔目掛けて走り出した。それを見たサンゴ礁の精霊は顔を真っ青にし、二人の行動を止めようとする。
「やめて! お化けクジラを倒すことは、私が許さないわ!」
彼女は二人を妨害するため、お化けクジラの元まで飛んで行こうとした。しかし、頭上から飛んできた何者かに捕まって、遥か上空へ連れ去られてしまう。これでは魔法の攻撃が届かない。上を向くと、ムパリが足で肩を掴んでいるのが分かった。
「貴方の相手はあたしよ!」
「離せ!」
ジタバタと暴れるサンゴ礁の精霊の肩に爪を食い込ませ、彼女は鷹の如くその場を旋回し始めた。サンゴ礁の精霊は振り回されて、妨害するどころではなくなった。
一方地上では、ネメアとクレタがお化けクジラの首元に辿り着いていた。
「さぁネメアちゃん、やるわよ!」
「はい!」
クレタは手を組んで腕を前に突き出し、ネメアは腰を屈めてジャンプをする時の姿勢を取った。しかしその時、背後でお化けクジラが顔を上げて、口を大きく開ける気配がした。
咄嗟に、ネメアは靴の中にあるボタンを踏んで、爪先から刃を出し、お化けクジラの口の裏を蹴り上げた。そいつは痛みで咆哮を上げる。足を噛まれないよう、彼は即座に靴を脱いだ。危うく激流攻撃を食らう所だったので、それを阻止した彼に、クレタは感激した。
「ありがとうネメアちゃん! 助かったわ!」
「いえいえ。クレタさんが鍛えてくれたお陰です! 今度こそ連帯攻撃をしましょう」
気を取り直して、ネメアは腰を屈め、クレタは腕を前に突き出した。ネメアはクレタの腕の上へ飛び乗り、彼女は腕を思い切り振り上げて、彼を打ち上げた。
「伸びろ如意棒ー!!」
彼が叫び声を上げると、両手で握っていた如意棒が5メートルの長さになり、それをお化けクジラの頭に突き立てた。なかなかに強いダメージが入り、そいつの頭にたんこぶができる。ただ、止めを刺すには至らなかった。
それでも問題はない。如意棒から手を離したネメアは、右手に拳をつくり、左膝を付き出した。クレタもまた、飛び上がって彼と同じポーズをとる。二人の膝蹴りが同時にお化けクジラの頭にヒットし、続けざまに二つの拳がめり込んだ。ボキッという音がして、そいつの頭蓋骨が打ち砕かれる。
「ギャオオオオオン!!!」
鼓膜を突き破るような断末魔の悲鳴を上げ、お化けクジラは絶命した。まともにその声を聞いた二人は、あまりのうるささに視界がぐらりとよろめいたが、回復魔法を使って持ち直した。これで、アンドロメダ島への脅威は去ったのだった。
クレタがお化けクジラの胸に耳を当て、完全に鼓動が途絶えた事を確認すると、その場は歓喜に沸いた。クレタとネメアはハイタッチをして、喜びを分かち合う。
「やりましたねクレタさん!!」
「えぇ!!」
二人の手の平がパチンと合わさった。お化けクジラの腹の上から滑り降りると、応援に駆けつけた人々が彼らの周りに集まり、称賛の言葉を送った。二人も、協力してくれたその人達に感謝を述べた。しかし、そんな陽気な空気も、ムパリがサンゴ礁の精霊を連れて地面に降り立ったことによって凍りついてしまう。お化けクジラを倒されて戦意を喪失したのか、彼女は大人しくしていた。
応援の中にいた、頭に鉢巻きを巻いている屈強な男が、彼女を指差してムパリに尋ねた。
「ムパリさん、こいつがお化けクジラをアンドロメダ島にけしかけた犯人なんですかい!?」
ムパリは頷き、サンゴ礁の精霊の肩に手を置いた。
「サンゴ礁の精霊さん、この人はアンドロメダ島一の腕前を持つ漁師さんだよ。問題を解決したいなら、この人に着いていって、漁師さん達ときちんと話し合いをしましょう」
「…………」
俯き、サンゴ礁の精霊は静かに首を横に振った。
「私、こんな事をしてしまったのよ。まともに話を聞いてもらえる訳が無いわ」
「それなら、私達が一緒に着いていくよ。クレタ、ネメアさん、いいよね?」
そう訊かれて、クレタはすぐに了承した。
「そうね。サンゴ礁の精霊さんには、昔助けてもらった恩があるわ。このままお化けクジラに島を襲わせた、ただの悪い奴というレッテルが貼られるのは気分が良くないわね。私も着いていくわ。でもネメアちゃんは……」
顔を曇らせ、クレタはネメアの方を見た。彼は厳しい目でサンゴ礁の精霊を見ている。
「俺はこの人の事を擁護できません。どんな理由があれ、アンドロメダ島に住んでいる人達を傷つけようとしたという事実は変わりませんから」
彼はピシャリとそう言った。だが、胸に手を当てて深呼吸をすると、なるべく穏やかな声になるよう努めて、話を続けた。
「だけど、冷静に話し合いをしなければ、また同じことを繰り返すだけだと思います。今回の事で怒った誰かが、復讐のためにこの人を傷つけて、それに対してこの人がまた報復をしてって、争いの連鎖が起こってしまうかもしれません。それなら俺も、話し合いに参加します。悲しい犠牲者を出さないためにも」
自分の故郷と同じような、魔物による悲劇を起こしてはならないという、強い意志が彼の瞳の中にこもった。悔しそうな、それでいて深い慈悲のこもった彼の言葉に、その場にいた者達は胸を打たれる。サンゴ礁の精霊もまた、心を動かされて顔を上げた。漁師もウンウンと頷いている。
そして三人とサンゴ礁の精霊は、島一番の腕前の漁師に連れられて、漁師達の集会場に向かった。お化けクジラに島を襲わせた犯人が彼女だと分かると、案の定漁師達は怒りの声を上げた。しかし、それを三人が宥めて、精霊に事情を話させると、彼らは素直に申し訳ない事をしたと謝ってくれた。その様子を見た精霊は心を開き、自分もやりすぎだったと謝罪を述べた。
そこから話は進んでいき、漁師達とサンゴ礁の精霊の間で、『サンゴ礁の精霊の身体であるサンゴ礁がある海域で、漁をしてはならない。その代わり、サンゴ礁の精霊はアンドロメダ島の漁師が漁をしている際、海に住む魔物を近づけないようにする』という取り決めが交わされた。これで本当に、一件落着だ。
話し合いが終わると、ネメアとクレタとムパリとサンゴ礁の精霊は、漁師達の集会場を出た。その後精霊が、彼らに対してお礼と謝罪を告げた。
「皆、話し合いの手助けをしてくれてありがとう。それと……ごめんなさい。お化けクジラに貴方達を襲わせてしまって」
彼女は深く深く頭を下げた。ネメアが彼女に一つ問いかける。
「もう、あんな事はしませんよね?」
「えぇ、絶対にしないわ。私も貴方のように、怒りに任せた行動を取らず、どうすれば穏便に物事を解決できるのか、冷静に考えるようにする」
彼の問いかけに、彼女は芯の通った声でそう答えた。返答を聞いて満足した彼は、口元を緩める。彼女は改めて三人にお礼を言い、夕日に照らされて橙色に輝く海へ飛んでいった。
サンゴ礁の精霊を見送った後、三人は港へ戻った。するとそこには大勢の人々と、その中心に白くて長い髭を蓄えた、まさしく仙人と呼ぶのに相応しい装いの老人が待っていた。三人の姿を見るなり、人々は盛大な拍手を始めて、老人は右手で杖を着きながら歩み寄ってきた。
「ネメアさん、クレタさん、ムパリさん、港町の住民から話を聞きました。アンドロメダ島の危機を救ってくださり、本当に、ありがとうございます。ワシはこの島の島長です。感謝の印に、お礼の品を贈らせてください」
島長は、三人の前で深く頭を下げた。彼の後ろから秘書の女性がやってきて、三人に美しい彫刻の施された小箱を渡した。ネメアが小箱を開けてみると、そこにはハートの形をした透き通った宝石が入っていた。宝石の形から、ネメアはとある名前がパッと思い浮かび、島長に尋ねた。
「あの、これってもしかして、ライフライトですか?」
彼の問いかけに、島長はゆっくりと頷いた。
「そうです。ライフライトは貴重な宝石ですが、皆さんはアンドロメダ島の住民の命を救ってくださった英雄ですので、どうかそれをお受け取りください」
やはり、自分達が受け取った宝石はライフライトだったと分かって、ネメアは戸惑った。彼は両サイドにいるクレタとムパリをキョロキョロと見て、どうすれば良いか判断を委ねた。ライフライトが手に入れば、船の護衛の依頼を押し付けてきた悪どい受付け係、ヘスの頼みを叶えられてしまう。
困っているネメアに対しクレタは、「ヘスに、なんでライフライトが欲しいのか聞いてみましょう。それで良くない返答が返ってきたら、渡さなきゃいいのよ」と言った。そして彼女は一歩前に出て、「それでは、ありがたく頂戴します」と伝えた。
それから、人々は三人に称賛や感謝の言葉を送り始め、港町は賑やかになった。その歓声を縫うように、ムパリの夫のパトスが現れた。彼を見るなり、ムパリは顔を輝かせて、ギュッと抱きついた。
「パトス! 港町の人達を避難させて、応援を呼んできてくれてありがとう!!」
感極まったムパリは、パトスの頬にキスをした。彼は瞬く間に顔を赤くして、頭をポリポリと掻いた。
「君が無事で良かった」
彼が一言そう告げると、ムパリも頬を薔薇色に染めて、クフクフと嬉しそうに笑った。
夫婦だけの特別な時間が流れている間、ネメアはクレタと共にステータスがどれだけ成長しているのか確認する事にした。
「クレタさん、俺、ステータスカードがどれだけ成長したか見てみます」
「えぇ、そうしましょう。きっと大きく成長しているはずだわ」
『ネメア・レオ』
攻撃力 80/100
防御力 80/100
素早さ 84/100
武器を扱う技術 82/100
魔力 80/100
身体能力 83/100
「うわぁ凄い!! 全てのステータスが80台に突入しました!!」
「おめでとうネメアちゃん!!」
喜びのあまり、二人もまた互いを抱きしめあい、その場でピョンピョン跳び跳ねた。クレタから腕を離すと、ネメアは目に涙を浮かべた。
「やった……! これで、俺を追放したアレスさん達に、ステータスが並んだんだ! もう、俺のステータスは平凡じゃないんだ!」
追放された日の悔しさ、今日までのクレタとの厳しい特訓の日々を思い返し、彼は感涙を流した。人は本当に嬉しい時、喜びを通り越して涙が出てくるのだと彼は思い知った。そんな彼の涙をクレタが指で拭ってやり、再度包容した。
「本当におめでとう、ネメアちゃん」
「グスッ、クレタさんが俺の事を拾ってくれたから、俺は強くなれたんです。全ステータスをマックスにするまで、これからもよろしくお願いします」
「もちろんよ。今後とも、貴方の成長が楽しみだわ」
ネメアとクレタは、初めて会った時のように、いや、その時よりも強く固く、握手をしたのだった。
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