途方もない監獄

鈴星

第1話 鉛の檻・シン

 鉄格子。冷たい金属製の柵。刑務所。

 檻というと、こういったおどろおどろしい光景を想像する。

 ――出られるかな。

 淡い期待を抱いて掴んでみるものの、ヒヤリとする触感に思わず手を放す。その温度を忘れない掌を見つめ、次にその囲いを見る。

 ――出られない。

 期待は散る。何かに突き放されたような疎外感を覚えると共に、諦める。


 ここは檻のなかだ。今のたとえ話と違って、仰々しい鉄の柵に囲われているわけではないし、看守もいないが、確かに檻だ。

 僕たちはこの出られない檻のなかで生活している。不便は無い。物品が不足すればいつの間にか檻のなかに現れるし、埃は溜まらないし、勝手に風呂は沸く。さながら桃源郷。郷と言うには生活圏が狭いが、慣れればなんともない。

 この檻は鉛でできている。たまに削って使うが、少し経つと削った部分は元に戻っている。他にも、風呂、机、台所の全てが鉛でできている。机はものを書く時に裏面が大変なことになるから木の板を置いて使っている。


 さて、昼飯にチャーハンでも食べよう。炊飯器にはもちろん温かい米がある。冷蔵庫には卵。鉛製の皿にラップを掛けて、そこに米、卵、塩胡椒、鶏出汁の素を入れる。電子レンジで温めたら卵チャーハンの完成。


「――シ……――繋がったか?」

 誰かから話しかけられた。コップにしては小さい陶器から聞こえる。これは最初からここの檻のなかにありながら鉛製でなかった物だ。


「――シン、聞こえる?」

 陶器から声が響く。

「コウ、どうしたの?」

 この陶器を通して、僕はたまにコウと話す。コウから話しかけられれば話せるが、僕はコウに話しかけることができない。僕からだと別の人に繋がるが、その人はもう話さなくなった。

「昼は何作った? 参考にしようと思ってな」

「チャーハンだけど、コウは作れないでしょ。出来合いのもの食べなよ」

「それじゃあつまんねーだろ。何をやるにも面倒なほうを選んで手間暇かけるんだ。そうやって時間を潰さねえとやってらんねえよ」

 最近コウは口癖のように言う。つまらない、と。

「面倒なこと、よくやるよねー。必要無いのに。眠れば暇じゃなくなるよ」

「そう言われてもなー……」

 コウはぐだぐだ何か言っていたが、そのうち焦った声で「フライパンが――」と言いかけて会話は途切れた。火事にでもなったのだろうか。

 コウに話しかける手段が無いので、ひとまず気にしないことに決めてチャーハンを食べ、その後檻の端に敷いてある布団に寝転がる。


 檻の隙間から、数十メートル離れた隣の檻が見える。その檻は土でできているようだった。泥団子が作りやすそうな、湿り気のある濃い茶色の土。

 そこで十に満たないくらいの少女がクッキーを食べながら絵を描いていた。

「ねーえ、モトちゃーん」

 おかっぱ頭の少女が右手にクレヨン、左手にクッキーを持ったままこちらを振り向いた。


 モトちゃん。本人がそう名乗った。僕ら全員、自分を示す名前を知らないのだ。だから最初に思いついた二文字を名乗る。

 みんな気づいたらここに居て、戻ろうとするが戻り方が分からなくて、戻る場所もいつの間にか忘れて、冷静になるためにまずここを知ろうとする。そして慣れた頃には、戻ろうなんて気がすっかり失せている。


 彼女は、彼女の檻の中でこちらに一番近いところまで来て「なーにー」と返してくれる。

「何を、描いてるの?」

「ネコちゃん」

「ネコ?」

「うん。飼ってたの、思い出したの」

「飼ってた……? お友達なの?」

「うん、友達だし、家族なの」

 それからモトちゃんは座り込んで再びスケッチブックに向き合った。せっせと手を動かしてクレヨンでひたすら線を引く様子からは、こども特有の集中力が見て取れた。前はもっと無機質な子だったが、最近は遊ぶ姿を多く見かける。

 少女はああ見えて僕より古参だ。このルールを教えてくれたのも彼女。


 辺りが暗くなるまで寝転がっていた。目を瞑ったり、開いたり、眠ったり、それで夢を見たり、歌ったり、次は何をしようかと考えたり。

 堕落、という言葉が浮かぶ。しかし、時間の流れさえ曖昧でルールの存在しないここで、果たして堕落はあり得るのだろうか。

 いや、ルールは存在する。

〈檻から出てはいけない〉

 誰かが明言したわけではない。みんな、暗黙のうちにそうしている。部屋であり檻であるここから出るのは罪だと。だって、檻だから。

 僕はここに来て長いが、檻の外を歩く人を見たことは無い。


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