第2話 幼なじみの午後

 チャイムが鳴ると同時に、教室は一気にざわめき、学生たちが廊下へ流れ出した。

 石田が片手で鞄を担ぎ、隣の席の澪をちらりと見る。


「よぉ、ヒーローさん。腕どうしたんだ?」


 澪は視線を落とし、包帯の巻かれた腕を一瞥して淡々と答えた。

「大したことない。かすり傷だよ」


「へぇ〜?」

 石田はわざとらしく目を細め、声を潜めて笑う。


「聞いたぜ。昨夜、大学生が火ん中に飛び込んだって噂――」

 語尾を伸ばしながら、意味ありげに澪を覗き込む。


「まぁカッコいいけどさ、正直バカだろ? 死んだら元も子もないって」


 澪はわずかに眉をひそめ、話を避けようと顔をそらした。

 その時――。


「……澪」

 澄んだ声が後ろから響いた。


 振り返ると、教室の扉の向こうに 水無瀬みなせ エリスあお が立っていた。

 廊下の陽光が差し込み、金茶の髪に淡い光輪が生まれている。

 青い瞳はいつもより鋭く、真っ直ぐ澪を射抜いていた。


「……碧?」


 石田が眉を上げ、「おっと」とばかりに身を引く。

「エリスちゃんのお迎えか。じゃ、俺は退散すっから。お幸せに〜」


「ち、違――」

 否定するより早く、碧が澪のそばに歩み寄り、包帯に視線を落とした。

「聞いたわ。昨夜のこと……」

 声は低く抑えているのに、震えが隠せない。

「どうしてあんな無茶を? また何かあったら、どうするつもりだったの」


 澪は目をそらし、小さく答える。

「……ただ、居合わせただけだ」


 碧は険しい表情を見せたが、それ以上責めず、静かに言った。

「……せめて、家まで一緒に歩くくらいはさせて」


 ◆


 校舎を抜け、小道を並んで歩く。

 木漏れ日が揺れるたびに、空気が少し柔らかくなる。


「私ね、英語もフランス語も小さい頃から習ってたの」

 碧はどこか得意げに胸を張る。

「文芸論でも発音でも任せてよ。澪の心理学レポート、ナレーションつけよっか?」


「誰が頼むかよ」


「昔は違ったのに」

 碧が悪戯っぽくまばたきする。

「ゲームの説明書読めなくて、私の後ろに隠れて泣きそうだったくせに」


「……それは言うな」

 澪は耳の先を赤くし、視線をそらした。


 近くを通る学生たちが、二人をちらりと見て囁く。

「エリスさん、ほんと綺麗……混血の青い目って反則だよな」

「水無瀬家の娘だろ? 水行すいぎょうの名門って噂の……」


 碧の肩がわずかに震え、歩みが止まる。

 澪はすぐ気づいたが、あえて口を挟まなかった。


「……あんなの、何も知らないくせに」

 碧は押し殺した声で言う。

「できることなら母方の姓を名乗りたい。あの名を背負うの、もう嫌なの」


 言い終えて、気まずそうに澪を横目で見た。

「……ごめん」


 澪は静かに首を振る。

「謝ることじゃない。碧のせいじゃないし、俺のでもない」


 その横顔を見た瞬間、澪の胸に複雑な感情が揺れた。

 幼い頃の光景がよみがえる。

 ――碧が自分の鞄を片付けてくれた日。

 ――いじめから庇ってくれた日。

 ――父を亡くした、彼女の家が自分を迎え入れてくれた日。


 碧はふっと笑い、雰囲気を変えるように肩をすくめた。

「だからね、澪。あんまり無茶しないこと。ヒーローだって、誰かに助けられていいんだから」


 その言葉に、澪の足が一瞬止まった。

「……あ」


「どうしたの?」

「学生証……失くした。たぶん、昨夜」


 碧の顔色が変わる。

「それはマズいわ。届け出る?」


「教務で再発行できるし……」

 澪はポケットを探るが、硬貨が数枚触れるだけ。

 手続き料の三千円が重くのしかかった。


 碧はその一瞬を見逃さなかったが、何も言わなかった。

「とにかく、先に学生支援センターへ行ってみよ。届いてるかもしれない」


「……分かった」


 ◆


 学生支援センター。

 職員は名簿を確認し、残念そうに首を振った。

「今のところ、学生証の拾得物はありませんね。再発行なら三千円になります」


 澪の眉がわずかに寄る。

 息を吸い、言葉を探していると――。


 背後から低い声が落ちた。

「霧崎 みお。これを探していたんじゃないか?」


 二人が同時に振り返る。


 黒いスーツに身を包んだ青年が立っていた。

 二十代後半、鮮やかな赤の短髪が光を吸うように揺れ、切れ味のある目元は見るだけで息を呑む迫力を持っている。

 指先には、一枚の学生証。


 碧が素早く歩み寄り、それに目を落とした。

「……これ、れいのだわ。届けてくださってありがとうございます」

 わざと「れい」に力を込めて発音した。


 男は一度カードを見て、薄く笑みを浮かべる。

「なるほど。霧崎……れいか」


 わざとらしく読み直し、軽く頭を下げる。

「失礼、さっきは読み違えた」


 顔を上げた時、空気がわずかに重くなる。

 男の視線は鋭く、澪を逃がさぬように縫い止めた。


「霧崎澪君。少し時間をもらえるかな」


 澪は瞬時に身構えた。

 だが表情には出さず、手を差し出す。

「助かったよ。でも悪い、これからバイトなんだ。コーヒーくらいおごるけど、今はちょっと――」


 男は短く笑った。

 だがその笑みは、刃先のように危うい光を帯びていた。


 学生証を懐に戻し、別のカードを差し出す。

「安心して。長くはとらないから」


 碧が受け取った瞬間、息が止まる。

「……篝?」


 その姓に、血が凍る。

 ――五行の『火』を司る名門、篝家。


 澪も覗き込み、黒地に金の文字を見る。


 篝 真炎

  高級執行官

  異能監察局


 胸が強く跳ねた。

「昨夜の火事の件なら、俺じゃない。Eランクの水行だし、ただ通りかかっただけで」


 すぐに碧が続いた。

「そうです! 本当に偶然なんです。見ての通り、怪我もしてて――」


 真炎の笑みが、ゆっくりと鋭さを帯びる。

「昨夜の件、ね?」


 低い声で繰り返し、わずかに首を振る。

「違うよ。僕が聞きたいのは――」


 視線が澪を深く貫いた。

「一ヶ月前。地下鉄で起きただ」


 息が止まった。

 全身が冷え、喉が強張る。


 碧の表情もみるみる青ざめる。


 一ヶ月前――

 地下鉄で起きた異能事件。

 そしてあの日、二人は確かにそこに巻き込まれていた。

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