影が守ったもの
雪沢 凛
澪標
第1話 影が滲む夜に
コーヒーメーカーが最後の一滴を落とした。
閉店の合図みたいに、静かな店内に小さく響く。
慣れた手つきは音ひとつ立てず、薄暗い照明の下で影だけがゆるく揺れた。
椅子はすべてテーブルに伏せられ、布の擦れる気配すら聞こえそうな静けさが漂っている。
「
背後から
彼は裏口にもたれ、指先でタバコの箱を軽く叩いている。癖というより、癇に障るほど似合っていた。
「店内禁煙」
澪は顔も向けずに答える。
「もう閉めたんだし、いいだろ?」
石田が笑いながらライターを鳴らした、その瞬間だった。
澪の指先が、ほとんど見えないほどわずかに動く。
空気の中で水滴が一粒、生まれた。
落ちるようにして、火のつく直前のタバコにぽたり。
じゅ、と小さな音。火花は即座に消え、白い煙だけがふっと漂う。
「……おいおい」
石田は煙草の先の水跡を見つめ、それから澪に目を向けた。
「Eランクでもそれだけ使えたら、ちょっとした芸になるだろ。モテるんじゃね?」
冗談めかして笑ったが、その目の奥にうっすら羨望が滲む。
だがすぐに肩をすくめ、溜息まじりに言う。
「……ま、外の連中はそんな風に見ねぇけどな。見せたところで、バカにされるだけだ」
「こんな程度、使い道ないよ」
澪は淡々とタオルを掛ける。
「だろうな。そういうの、何度も言われてきたんだろ?」
石田の言葉に、澪は返さない。
ただエプロンを外した。その掌には、さっき生み出した小さな水滴が数粒。
彼はそれを軽く振って落とした。水は床に散って、跡形も残さない。
店を出ると、夜風が冷たい。
街灯が影を細長く伸ばし、澪の足元を寂しげに引きずっていく。
掌を上げると、そこに小さな水珠が浮かんだ。光に揺れ、儚く瞬く。
「……この程度」
ひとりごとのような、嘲りのような声。
手を振ると、水滴はぱんと弾け、空気に溶けた。
足音が夜道に響く。
こういう孤独には慣れていた。
誰も気にかけない。弱すぎる力に、価値なんてない。
――ただ、この夜だけは違った。
焦げる匂いが風に混ざる。
澪は顔を上げた。
街角の向こうが赤く明滅し、人々のざわめきが波のように押し寄せる。
火の色が空を照らし、悲鳴が散った。
立ち止まる間もなく、澪は駆け出していた。
商業ビルの脇。
濃煙が押し寄せ、警報がやっと遅れて鳴り始める。火舌が内側から吐き出され、人々が次々に飛び出してくる。
「中に……まだ!」
誰かが泣き叫ぶ。
澪は迷わず袖で口元を覆い、身を低くして中へ飛び込んだ。
視界は赤に塗りつぶされる。
本で読んだはずの知識を必死に掘り起こす。
――炎そのものより、煙が怖い。
床すれすれを進め。呼吸は浅く。
分かっているのに、胸が潰れそうにざわつく。
焦燥の熱さが、肺の奥まで焼いた。
――落ち着け。
自分に言い聞かせたその時だ。
咳の音。
曲がり角の向こう。
澪は走り、倒れた看板に押し潰された親子を見つける。
少女は泣きじゃくり、母親は力なく腕を伸ばして庇っていた。
澪は歯を食いしばり、看板の端を掴む。
――びくともしない。
熱が皮膚を刺す。
力が逃げていく。
胸の奥から、あの感覚がまた聞こえた。
『無理だ。お前にはできない』
掌に薄い水膜が勝手に滲む。
顔を覆い、わずかに呼吸が楽になったが――あまりに少ない。
「……動けよ!」
自分に吠えるように叫ぶ。
腕は震え、折れそうで、それでも上がらない。
そのときだった。
火光に伸びた自分の影が、ぐらりと歪んだ。
――影が、動いた。
黒が液体のように滲み、金属と床の隙間に潜り込む。
ごり……と低く軋み、看板がわずかに持ち上がった。
澪は息を止めた。
頬をつたう汗が冷たい。
これは……自分の力なのか? それとも――。
「……嘘だろ……」
思考より先に、体が動いた。
澪がもう一度押し上げると、それに呼応するように黒い影が横へ押した。
「行け!」
母親を抱き起こし、少女の背中を強く押す。
三人は転がるように出口へ走った。
だが頭上で、鋼材が悲鳴を上げる。
次の瞬間、炎の塊が天井から崩れ落ち、通路を呑み込もうとする。
澪の瞳孔が狭まった。
本能で身を投げ出し、二人をかばおうとする。
――終わった。
炎が迫るその刹那、足元の黒影がふわりと舞い上がった。
幕のように広がり、落ちてくる火を叩き潰す。
熱が消えた。
ありえないほど唐突に。
澪は母子を押し出すようにして走り、出口へ転がり出た。
外へ踏み出した瞬間、背後で火が再び爆ぜ、入口を奪い返すように燃え上がる。
澪は膝をつき、冷たい空気をむさぼるように吸い込んだ。
まわりで何人かがざわめく。
「……今の、何だ……?」
「見間違いだろ……」
声は掠れて散り、だが澪の耳には鋭く突き刺さった。
足元を見る。
自分の影だけが震えている。炎の赤とは相容れない色で――水ではない。
「……これ……?」
胸の奥が殴られたように痛む。
喉が焼けたみたいに乾いて、呼吸が乱れていく。
考える前に、澪は駆け出していた。
逃げるように、夜の闇へ。
◆
警戒線の向こう。
消防士たちの怒号が飛び交う。
黒いコートを着た男が、静かにその線を越えた。
重いブーツが濡れた地面を踏むたび、ぱち、と小さく弾ける。
彼自身は何もしていないのに、周囲の炎が左右に割れた。
彼を避けるように伏せ、一本の道を作る。
「大学生が飛び込んだらしいぞ……」
「火が一瞬だけ沈んだって証言も……気のせいじゃないかって話だが……」
ヒソヒソ声が聞こえるが、真炎の表情は動かない。
ただ歩を進め、焦げ跡を辿る。
やがて、赤く焦げた学生証が落ちているのを見つけた。
拾い上げ、指先でなぞる。
「霧崎……
名を、噛みしめるように読み上げた。
写った横顔を見つめ、目の奥に冷たい光を落とす。
「……やはり、君か」
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