第2話


「アパートで十分です。というか、アパートでお願いします」


 即日入居できる物件の条件を聞きながら、結城は改めて自分の境遇を考えた。スキルと莫大な金があれば、一時的に地球での生活基盤は整えられる。だが、この生活は長続きしない。


 スキルは万能ではない。


【未来視】も【探知】も、正確には「未来と物質の可能性を感知し、最も確率の高い道筋を予測する」能力だ。競馬のように、複雑に見えてルールと対象が限定された世界では、全要素を読み切れるため必勝が可能となる。


 しかし、社会は違う。


 人間の感情や法制度、経済の変動。それらはあまりにも要素が多く、予測の精度は急激に落ちる。そもそも、金を持てば持つほど、銀行は資産の出所を尋ねるだろう。税務署が動けば、結城の持つ数億の現ナマは、一瞬で「不審な金」として凍結される。


「……お客様、こちらでいかがでしょう。最寄り駅から徒歩十分、築年数はそこそこですが、清潔感があり、保証人が不要。敷金礼金合わせて八万円。残り二ヶ月分の前家賃を含めても、二十万円でお釣りが出ます」


 営業マンが差し出した物件情報には、ごくありふれた木造アパートの部屋の写真が載っていた。六畳一間のシンプルな作りだが、日当たりは良さそうだ。


「これに決めます」


 結城は即断した。金があるうちに、まずは世間から隔絶された「隠れ家」を確保する必要がある。数億円は亜空間収納に預けたままだ。手元にある現金を、生活費の足しに使うことにした。


「ありがとうございます! では、こちらに必要事項をご記入いただけますか」


 営業マンが笑顔で書類を差し出す。名前、生年月日、そして——勤務先、緊急連絡先、保証人。


 結城の顔から血の気が引いた。異世界での十年間で、彼は「社会の歯車」としての常識を綺麗さっぱり失っていた。


「……あの、職なし、身元保証人なしでも、契約は可能でしょうか?」結城は、営業マンが笑顔を維持できるぎりぎりのラインを探りながら尋ねた。


 営業マンの笑顔が、ぴしり、と凍った。彼の手元には、先ほど結城が机に並べた百万円札の束が三つ。その強烈な存在感が、営業マンの頭の中で「怪しさ」と「大金」を天秤にかける。


「お客様、失礼ですが……その、お持ちの現金の出所は……?」


「競馬です。今日、当てました」結城は正直に答える。


「……なるほど」営業マンは額の汗を拭った。「しかし、今後家賃を継続的に支払う能力、つまり安定した収入が必須となります。お客様の場合、ご両親など、緊急連絡先として身元を保証してくださる方はいらっしゃいますか?」


「両親は……十年前に他界しています」

 結城は、それが異世界への旅立ちとほぼ同時だったことを思い出した。


「そうですか……」

 営業マンは困惑しきった表情で腕を組んだ。


 その時、結城の頭の中に、ちりり、と微かなノイズが走った。スキル【未来視】が、次の行動の最適解を提示する。

『信用を偽造し、即座に安心感を与える』

 結城は深くため息をつくと、諦めたように頭をかき、営業マンに声を潜めた。


「実は、正確には職なしというわけではないんですよ」


 結城は、先ほど手に入れたばかりの数億円の札束が入った紙袋を、目の前の机の上に、ドン、と置いた。営業マンの視線が、紙袋に釘付けになる。


「さっきの競馬は、あくまで手慣らしです。俺は、十年ほど海外で傭兵をやっていましてね」


 結城はそこで一旦言葉を切り、テーブルの上の水を一口飲んだ。シャツ一枚の異装、鍛え抜かれた体、そしてその場にそぐわない札束の束。その全てが、荒唐無稽な嘘にリアリティを持たせる。


「最近足を洗って、地元に戻ってきました。傭兵稼業の報酬は、税金や出所の追及を避けるために、すべて現金で受け取っています。この金は、すべて正当な仕事で得た金です」


 結城は営業マンを真っ直ぐ見つめた。彼は【未来視】で、営業マンが今、『もしこれが本当なら、深く突っ込まない方が良い』という思考に達していることを知っていた。


「つまり、俺は今後、生活費の心配をする必要は一切ありません。契約に必要な前払金は、家賃五年分、今日ここで一括でお支払いします。これで、安定した支払い能力の証明になりませんか?」


 営業マンの瞳は、札束と「傭兵」という単語の間を何度も往復した。彼の頭の中では、「面倒な書類手続き」と「大口契約成立のインセンティブ」が激しく戦っている。


「……五年分、ですか。ええと、家賃五年分で、およそ七十二万円になりますが……」

「結構。ついでに、清掃費用や管理費などもすべて含めて、百万円でどうでしょう。書類は、『自営業』として処理してください。緊急連絡先は、後日、弁護士を立てます。一週間で準備しましょう」


 結城は、残りの二百万円の束から、さらに札を抜き取り、百万円を営業マンの目の前に差し出した。


 営業マンは、一秒もかからず『契約成立』の未来を選択した。


「かしこまりました! すぐに手続きを進めさせていただきます!」


 営業マンの態度は一変し、満面の営業スマイルが戻ってきた。こうして元勇者は、言葉のスキルと札束の力で、なんとか現代社会の第一関門を突破したのだった。

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