第1話「布団スタジオの朝雑談」
夜勤明けの朝は、世界の向きが逆だ。
店を出た瞬間、コンビニの自動ドアが背中に「お疲れさまでした〜」と締めの風を吐き出す。
空は、まだ夜と呼べるような濃紺の名残をなんとか抱え込んでいて、その上から通勤前の白い光が、じわじわと上書きしようとしている。
俺は制服の上からパーカーを羽織って、店の横の細い路地を抜ける。
背中の名札がカサついて擦れる感触が、やけに気になった。
足元のスニーカーは、レジの後ろで立ちっぱなしにされた九時間分の疲労を、底からじわじわ返してくる。
コンクリの地面に足を置くたび、膝の軟骨が、小銭みたいな音を立てずに崩れてる気がする。
「……おつかれ、俺」
誰にも聞こえないボリュームでつぶやいて、マスクの内側で息を吐く。
コンビニの看板は、昼間よりも今のほうが存在感がある。夜の名残と朝の中間で、一番どうでもよさそうなタイミングなのに、一番目に刺さる。
幹線道路のほうから、トラックの低いエンジン音。
歩道では、通勤前のスーツ組が、まだ余裕のある顔でコンビニコーヒーを飲んでいる。
その横を、同じ制服を着た俺が、勤務終了後の死んだ眼で通り過ぎる。
向こうはこれから「一日が始まる人」、こっちは「一日が終わる人」。
同じ紙コップのコーヒーでも、タイムラインが違うと、だいぶ味が変わる。
アパートの階段を上る途中で、左手首がまた主張してくる。
制服の袖口が、アトピーで荒れた部分に擦れて、昼間より痒みが増幅したみたいになっている。
俺は階段の踊り場で立ち止まり、袖を少し捲って、人目も気にせずガリガリ掻きむしった。
――ああ、まだ生きてる。
手首の熱と痛みで、視界がわずかにクリアになる。
寝不足と蛍光灯の光でぼやけていた輪郭が、痒みの一点だけにピントを合わせてくる感じ。
三階。いつもの自分の部屋の前に着く。
ドアの前には、ネットスーパーの段ボール箱が潰されて積んであり、誰かの洗濯物の柔軟剤の匂いが、廊下全体にねっとり張り付いている。
鍵を回し、ドアを開けると、埃っぽい空気が「おかえり」とも「まだいたの」ともつかない表情で出迎えてくる。
六畳ほどのワンルーム。
部屋の半分を、古びた布団が占拠している。そこが俺の「スタジオ」であり、「ベッド」であり、「現実逃避ブース」だ。
「ただいま、布団スタジオ」
靴を脱ぎ捨てながら、軽口みたいに挨拶する。
誰も返事はしない。代わりに、冷蔵庫のモーターがブーンと喉を鳴らした。
シャワーは、いつも「そこそこ」で終わる。
夜勤明けのシャワーを本気で浴びると、そのまま気持ちよく寝落ちしてしまうからだ。
俺には、寝落ちする前にやるべきことがある。朝雑談配信――通称「朝雑」だ。
風呂場の鏡には、くまのできた三十三歳の男が映っている。
髪は寝癖なのか汗なのか分からない方向にハネていて、目の下のクマは、ちょっとしたアイシャドウレベルで濃い。
「……おはろ、じゃねえよ。おやすみ顔だよな、これ」
「おはろ」は、炎上前から使っている挨拶だ。
“おはよう+ハロー”を無理やり合成した、寒いオリジナルのつもりだったが、リスナーにはそれなりに定着していた。
炎上後も、その挨拶だけは、なんとなく続けている。
タオルで髪をざっと拭いて、ドライヤーは半分ぐらいで妥協する。
寝る前にまた汗だくになるのに、真面目に乾かすのもバカらしい。
部屋に戻ると、まずカーテンをきっちり閉める。
朝の光は、配信のリングライトの天敵だ。
隙間から差し込む白が、スマホのカメラに変なゴーストを作る。
カーテンを閉め切ると、六畳の部屋は一気に夜に戻る。
コンビニの看板の緑と白が、薄い生地を透かしてじわっと滲んだ。
次にやることは、布団の再配置だ。
部屋の奥側に布団をずるずる引きずり、壁際に押し付ける。
その布団の端を半分折り返して、即席の「天蓋」みたいにする。
その下に、ノートPCとマイクスタンドと、小さいリングライトと、スマホ用の三脚。
全部、布団の中に押し込む。
熱がこもるのは分かっている。
息苦しいのも、背中に汗をかくのも、声がこもって録音環境としても最悪なのも、百も承知。
それでも俺は、布団でスタジオを作る。
理由は簡単で、壁が薄すぎるからだ。
このアパートの防音性能は、ほぼ「ない」に等しい。
普通の声量で喋ると、隣の生活音と混ざって、謎のコラボ配信になってしまう。
布団で頭まで覆って、マイクを口の近くに寄せ、声を抑えながら喋る。
それが、今の「三影ルカ」の配信スタイル――名付けて「布団スタジオ」だ。
「よし……セッティング完了」
ノートPCの電源を入れ、マイクのケーブルを確認する。
USBオーディオインターフェースの青いランプが、かろうじて生きていることを示していた。
スマホも布団の中に連れ込む。
アプリの通知は一括でオフにして、配信アプリだけ起動。
小さな画面に、俺の顔が、布団に囲まれた暗い洞窟から覗いていた。
「……いいね、今日も牢屋感マシマシだね」
自分の顔を見て、ため息まじりに笑う。
リングライトをつけると、瞳に小さな光の輪が映り込んだ。
その光だけが、かつて「リングライト芸人」みたいにいじられた頃の名残だ。
配信タイトルを打ち込む。
【朝雑】夜勤明けコンビニ店員の布団スタジオから【行ってきます待ち】
タグに「雑談」「社会のすきま」「夜勤明け」「元Vtuber」とか、適当に放り込む。
炎上ワードは避ける。というか、避けても検索結果にまとめサイトが出てくるから意味はないのだが、気持ちの問題だ。
深呼吸を一度。
喉の奥に、さっきまでレジで連呼していた「温めますか〜?」の残響が残っている。
「……よし。配信開始」
タップ一つで、俺は“発信する側”に切り替わる。
真っ暗な画面に「ライブ開始」の文字が数秒表示され、コメント欄が空っぽのまま開いた。
「……おはろ〜。三影ルカです。今日も布団から失礼しま〜す」
布団の中で声を抑えながら、いつものテンションより半音ぐらい落としたトーンでしゃべる。
自分の声が、布団と壁に跳ね返って、耳のすぐそばで二重に聞こえた。
数秒の遅延を挟んで、コメント欄に最初の文字が流れる。
〈おはろ〜〉
〈おはろ!〉
〈起きれた!〉
〈夜勤明けおつ〜〉
ユーザー名の横には、小さなアイコン。
炎上前から見覚えのある名前も、ちらほら混ざっている。
視聴者数のカウンターが、ゆっくりと増えていく。
12、18、25……40。
「同接40、集合〜。いつものメンバー+αって感じかな」
俺がそう言うと、コメント欄がざわっと流れた。
〈出勤前にのぞきにきた〉
〈電車待ち〜〉
〈学校行きたくな〜い〉
〈テスト前に現実逃避しに来ました〉
「出勤前勢と通学勢、いつもありがとう。
この配信はですね、皆さんを社会に送り出すための、布団の中からのささやかな祈祷配信となっております」
〈布団教〉
〈ご利益:ぎり遅刻しない〉
〈行きたくない会社でも行けるようになる配信〉
〈それ労基的にアウトな宗教では〉
「労基は関係ないでしょ。ブラックなのはウチの時給だけで十分だわ」
くすっと笑いながら、布団の端を少し持ち上げて、換気する。
リングライトの熱と、自分の呼吸で、布団の中はもうじんわり汗ばみ始めていた。
視界の端に、自分の左手首が入る。
さっき掻いた部分が、赤く盛り上がっている。
「はい、というわけでですね。
タイトル通り、夜勤明けのコンビニ店員が、たった今の現場の愚痴をこぼしながら皆さんを送り出すコーナー、はじまりはじまり〜」
〈待ってた〉
〈廃棄弁当の話聞きたい〉
〈今日も出た? 謎客〉
〈炎上前より夜勤ネタ充実してない?〉
「おい、最後のコメント。なんか地味に傷つくからな」
笑いながら、さっきのシフトを頭の中で巻き戻す。
レジの前に立った人たちの顔が、パラパラ漫画みたいに連なる。
「えー、まず一人目。深夜二時に来る、“絶対に割り箸いらないって言わないおじさん”」
〈いる〉
〈いるわ〉
〈こっちのコンビニにもいる〉
「お弁当一個買うごとに、『あ、箸二膳ね』って言うの。
しかも、絶対に『二膳』って言うの。
なんかその“二膳”に、見えない誰かへの言い訳が詰まってる気がして、渡すたびに泣きそうになるんだけど」
〈やめろwww〉
〈独身の胃に刺さる〉
〈二膳おじさんのメンタル想像したらしんどい〉
「で、五回に一回ぐらい、『今日は一膳で大丈夫です』って言うの。
そのときの“何かが決まった感”すごいからね。
こっちも『了解です』じゃなくて、『おめでとうございます』って言いそうになる」
コメント欄が草と「やめろ」で埋まる。
数字は相変わらず40前後をうろうろしている。
「あとね、今日いちばんの強者は、廃棄弁当コーナーに、ガチで名残惜しそうな目を向けてたお兄さんかな」
〈廃棄ってもらえるの?〉
〈バイトの特権?〉
〈ルカくん何食べてんのいつも〉
「店による。うちは、前の店長が厳しかったんだけど、今の店長はわりと『いいよ〜自己責任で〜』って感じだから、期限ギリのおにぎりとか弁当とか、ありがたく頂いております」
〈いいな〉
〈でも体に悪そう〉
〈胃の負担指数+18%〉
「誰だ今、MANEXみたいなこと言ったやつ」
思わず笑ってしまう。
リスナーの中には、プロローグで俺が説明したMANEXの存在を知っている人も何人かいる。
炎上のころ、つい配信で口を滑らせてしまったのだ。
「まあね、廃棄弁当で命をつないでる元Vtuberがここにいるわけですよ。
IF配信の中の俺は、スポンサーから高級弁当差し入れられてんのにね。
こっちは、賞味期限切れ三分前の唐揚げ弁当だからね。世界線格差ヤバくない?」
〈世界線格差w〉
〈唐揚げ弁当うらやましいけどな〉
〈IF世界線だと廃棄も出ないほど売れてそう〉
〈現実はお腹を満たしてくれる廃棄のほうが強い〉
「はい名言いただきました。『現実はお腹を満たしてくれる廃棄のほうが強い』。
これ、今度サムネに使っていい?」
〈やめろw〉
〈炎上不可避〉
〈企業案件二度と来ない〉
「もう来ないから安心しろ」
笑いながらも、喉の奥に小さな棘みたいなものが残る。
布団の中はさらに熱がこもり、リングライトの光が目にじんじん刺さってきた。
話しながら、俺は常に声量をモニタリングしている。
布団スタジオは、声を抑えられる代わりに、少しでもテンションを上げるとすぐ「うるさい」と隣にバレる。
だから、笑いも怒りも、喉の手前で急ブレーキをかける癖がついた。
その証拠に、ちょうど俺が「廃棄のほうが強い」って言った瞬間、隣室から「へっくし!」と派手なくしゃみが聞こえてきた。
マイクがその音を拾って、コメント欄が騒ぐ。
〈今の隣?〉
〈くしゃみwww〉
〈隣人さん起きちゃった?〉
「あ、ごめんね。隣の人のくしゃみ、たぶん入りました。
あの……今のが世界線の壁です。薄いです」
〈世界線の壁ペラペラ〉
〈布団1枚+石膏ボード5ミリ〉
〈コラボ配信かな?〉
「やめろ、勝手に隣人コラボにすんな」
そう言いながらも、心配で一瞬だけ布団をめくって音をうかがう。
足音が、ドアのあたりまで来て止まり、また戻っていく。
たぶんトイレだ。ドアの開閉音が、やけにリアルに伝わってきた。
布団の中に戻ると、空気がさらに重く感じられる。
リングライトの熱と、自分の吐息と、さっきのくしゃみの残響が、全部まざって、妙に生々しい。
この圧迫感――頭から布団をかぶって、視界が枠に切り取られている感じ。
どこか、VRヘッドセットをつけたときの感覚に似ている。
顔の周りだけ、世界が限定されて、外の情報は音だけ。
目の前の小さな画面に、自分のアバター――じゃなくて、今は生身の顔――だけが映っている。
現実を切り取って、自分の都合のいい画角だけを「世界」と呼ぶ行為。
それって、多分、配信もVRも、そんなに変わらない。
「そういえばさ、今日、レジでちょっとした事件がありまして」
〈事件きた〉
〈警察案件?〉
〈またあの人?〉
「あの人ではない。今日は初見の強キャラだった。
えー、深夜三時半。店内BGMが一番空虚に聞こえる時間帯。そこに現れたのが――『温めますか?って訊く前にレンジに弁当ブチ込む人』」
〈www〉
〈いるwww〉
〈あれ店員困るやつ〉
〈それは草〉
「そう、店員困るやつ。
俺が『いらっしゃいませ〜』って言った瞬間に、もう弁当をレンジにセットして、勝手にボタン押してんの。
で、『お箸いくつお付けしますか?』って聞こうとしたら、『あ、PayPayで』つって。
いや、順序! 順序よ!」
コメント欄が草まみれになっていく。
〈ルカくんの人間観察すき〉
〈夜勤配信もっとやってほしい〉
〈炎上してない世界線でもこういう話してそう〉
「してるかもね。
あっちの世界線の俺、きっと“コンビニあるあるトーク”を、案件のトークテーマとして話してるよ。
企業さんから『コンビニさんのイメージが〜』とか言われながら、上手に炎上回避しながら。
こっちは、リアルにコンビニでシフト入って、廃棄弁当食べて、布団からしゃべってる。世界線、だいぶバグってる」
〈でもこっちのルカくんも好き〉
〈炎上後もいてくれてありがとう〉
〈世界線がどうでもルカくんはルカくん〉
コメントの文字列が、視界にじっとり貼り付く。
リングライトの反射で、スマホ画面の文字が、ちょっと滲んで見えた。
そのスクロールの中に、一瞬だけ妙な表示が紛れ込んだような気がした。
〈career-sim://shift/log…〉
英語と記号が混ざった、システムログみたいな文字列。
俺が読み取る前に、コメントが次々流れていって、すぐに画面の外に押し出される。
〈行ってきます!〉
〈そろそろ会社いく〉
〈今日も布団教にお祈りしたのでギリ間に合うはず〉
〈電車来たから抜けます〜〉
「お、そろそろ“行ってきます”タイムか」
時計を見ると、朝の八時前。
会社員や学生たちが、順番に現実世界へログインしていく時間だ。
ここからは、この配信のいちばん大事な儀式だ。
「はい、それじゃあ、“いつものやつ”やりますか」
〈きた〉
〈行ってきます儀式〉
〈今日も頼む〉
「え〜、これから会社・学校・その他の修羅場に向かうみなさま。
布団スタジオから、ささやかながらエールを送らせていただきます」
俺はわざと、声のトーンを少しだけ真面目にする。
布団の中で姿勢を正し、マイクに口を近づける。
「行ってらっしゃい。
電車に押しつぶされても、上司に変なこと言われても、テストで死ぬほど白紙でも、とりあえず今日一日、生きて帰ってきてください」
〈はい〉
〈はい…〉
〈生きて帰ります〉
〈生存フラグ立ててくれる配信〉
「で、もし明日も元気だったら、またここに来て、布団スタジオから一緒に現実を愚痴りましょう。
もし元気じゃなかったら、そのときは……まあ、愚痴の内容が変わるだけです」
〈それな〉
〈倒れたら倒れたでネタにしてくれる男〉
〈約束したから生きて帰るわ〉
「はい、じゃあいくよ。せ〜の――」
コメント欄に、タイミングを合わせた「行ってきます」が一斉に流れ出す。
〈行ってきます〉
〈行ってきます!〉
〈いってきまーす〉
〈行ってきます;;〉
〈行ってきます(白目)〉
俺は、それをひとつひとつ目で追いながら、画面に向かって言う。
「行ってらっしゃい」
その言葉は、布団と薄い壁を通り抜けて、どこまで届いてるのか分からない。
でも、少なくとも画面の向こうで、誰かがそれを見て、聞いて、反応してくれてる。
配信者としての俺は、その事実だけで、かろうじて生き延びている。
「はーい、じゃあ“行ってきます”勢がだいたい抜けたところで、残ってるのは誰だ? 夜勤勢? 無職勢? 学生のサボり勢?」
〈夜勤明け同業〉
〈テレワーク勢〉
〈就活中ニート〉
〈布団から動けない勢〉
「お仲間多くて安心しました。
この配信は、社会の主戦場に出られなかった人々の“待機室”でもあります」
そう言いながら、俺はあくびを噛み殺す。
睡眠時間は、さっきMANEXに指摘された通り、ここ一週間まともに取れていない。
「で、俺はこのあと寝ます。
みんなが頑張って働いてる間に、元Vtuber・現コンビニ店員は、布団で爆睡します。ごめんね」
〈許可する〉
〈それがルカくんの仕事だ〉
〈夜勤はマジで体力持ってかれるからな〉
〈おやすみ配信もしてほしい〉
「おやすみ配信はね、ただの寝息ASMRになるからね。
炎上前ならワンチャン案件来たかもしれないけど、今やったら『寝てる場合じゃねーだろ』って怒られるやつだからね」
〈たしかに〉
〈炎上してもなお自虐ネタにする男〉
「炎上もIFログの一部ってことで。
はい、じゃあそろそろ締めますかね」
視聴者数は、すでに30を切っている。
出勤前のピークを過ぎて、残りかすみたいな時間だ。
でも、その「残りかす」の中に、自分の居場所がある気もする。
「今日も朝から付き合ってくれてありがとう。
夜勤勢、これから寝る勢、今からシフト入る勢、いろいろいると思いますが――」
布団の中で、もう一度、声を整える。
この締めの挨拶だけは、どんなコンディションでもちゃんとやると決めている。
「それぞれの世界線で、今日一日、なんとかやり過ごしてください。
IF配信は、また俺がいくらでも再生してやるからさ。
現実のほうは、みんな一回しかないから、大事に……大事に、適当に」
〈適当w〉
〈そこまで言っといて適当w〉
〈でも分かる〉
「じゃ、また次の配信か、アーカイブか、IFログかで会いましょう。
三影ルカでした。おつろ〜」
配信終了ボタンをタップする。
コメント欄がスッと止まり、「ライブは終了しました」の文字が画面に浮かぶ。
布団の中からスマホを引き抜くと、現実の部屋の暗さが一気に押し寄せてくる。
リングライトを消すと、視界には、カーテン越しの看板の緑と、天井のシミの形だけが残った。
「……ふー」
布団を半分めくって、上半身だけ外に出す。
首筋にまとわりついていた汗が、空気に触れて少し冷たくなった。
さっきまで喋っていた喉の奥が、じんわりと痛む。
声を抑えてしゃべるのは、普通にしゃべるよりも倍疲れる。
スマホの画面には、さっきの配信の簡易アナリティクスが表示されていた。
平均視聴者数、最大同接、コメント数、スパチャ額――炎上前よりずっと小さい数字たち。
「……まだ、見てくれる人はいる」
自分でも聞こえるか聞こえないかぐらいの声でつぶやく。
40人前後。
炎上前は、通知一つ鳴れば瞬間的にその十倍以上が集まっていた。
案件配信の日なんて、同接を見てスポンサーがニヤニヤしているのが、チャット欄越しにも分かるぐらいだった。
今は、布団の中で、声を殺して、40人に向かって喋っている。
数字だけ見れば、栄光から奈落への一直線。
でも、その40人が画面の向こうで「行ってきます」とか「おやすみ」とか打ってくれる事実が、俺をギリギリ地面につなぎ止めている。
布団からずるずる這い出て、机の上のノートPCに目をやる。
画面の隅には、見慣れたアイコン――MANEXのショートカット。
タッチパッドに指を伸ばしかけて、やめる。
IF配信を再生するには、気力が足りなかった。
「……今日は、現実ログだけでお腹いっぱいだわ」
代わりに、コンビニの袋をあさる。
さっきもらってきた、賞味期限切れ間際の唐揚げ弁当と、おにぎりが二つ。
どちらも、割引シールがまだ貼られたままだ。
電子レンジに弁当を突っ込みながら、自分でさっきの話を思い出して苦笑する。
「温めますか?」って訊く前に弁当をレンジに入れる客と、今の俺は、たいして変わらない。
チンという音とともに、朝ごはんとも昼ごはんともつかない食事が完成する。
それを布団の上に持ち込み、スマホでSNSを開いて、タイムラインを眺めながらかき込む。
タイムラインには、他の配信者の「朝活配信ありがとうございました!」のポストや、企業案件のスクリーンショット、楽しそうなスタジオ写真が流れている。
リングライトやマイクは似たようなものなのに、背景がまるで違う。
こっちは、布団と、天井のシミと、隣人のくしゃみ。
ご飯を食べ終え、空の弁当箱を脇に寄せる。
スマホの通知欄には、配信アプリからの「アーカイブ公開完了」のメッセージと、その下に――
《MANEX:本日のIFログ更新》
〈推奨視聴:炎上が起きなかった場合の“朝雑談”〉
というシステム通知が並んでいた。
「……お前、マジで空気読まねえな」
思わず笑ってしまう。
IF世界線の「朝雑談」は、きっと布団じゃなくて、ちゃんとした防音スタジオから、元気な声でやってるはずだ。
それでも、再生ボタンを押さない。
今見たら、多分、自分の現実との差がデカすぎて、変な笑いか、変な涙か、どっちかが出る。
スマホを裏返し、画面を下にして、枕元に置く。
再び布団をかぶると、さっきまで「スタジオ」だった布団が、一瞬で「棺桶」に変わる。
視界は、布団の内側の布と、かすかな光だけ。
耳には、遠くの道路の音と、上の階の椅子のきしみと、冷蔵庫のモーター音。
布団が、顔の周りをぴったり囲む感覚が、VRヘッドセットをつけたときの締め付け感と重なっていく。
世界は、俺の顔の幅と、画面のサイズぶんだけに縮小されて、その他の情報は全部ノイズとして処理される。
「……おやすみ、世界線」
誰にともなくそう呟いて、目を閉じる。
痒みと痛みと、さっきまで喋っていた言葉の残骸が、頭の中でごちゃごちゃと混ざり合う。
遠くで、また小学校のチャイムが鳴った気がした。
「キーンコーンカーンコーン」
今度のそれが、外からなのか、頭の中からなのか、判別がつかない。
どちらにせよ、俺はそこまで考える前に、睡眠の底に引きずり込まれていく。
こうして、炎上後の“今”と、IF配信地獄の狭間で、
三十三歳・元Vtuber・現コンビニ夜勤アルバイトの一日は、静かにリセットされていくのだった。
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