IF配信は再生できても、人生は巻き戻せない
Algo Lighter アルゴライター
プロローグ:真夜中の痒みと予感
午前三時。
街の騒音がいったん息を潜め、代わりに古い冷蔵庫のモーター音だけが、ワンルームの空気を震わせていた。
三影ルカ。本名・陸(りく)、三十三歳。
元Vtuber、現コンビニ夜勤アルバイト。肩書きだけ並べれば、栄光から奈落までの軌跡が、だいたい十文字で説明できる男だ。
その俺は今、薄汚れた布団の中で、左手首を狂ったみたいに掻きむしっていた。
アトピー持ちの肌は、湿気と寝汗でふやけきっている。
爪が食い込むたびに、赤黒いミミズ腫れが浮かび、ひりつく熱が神経をじりじり焼いていく。
――ああ、まだ生きてんな。
痛みは、もはや現実確認用のワンタイムパスワードだ。
同接も登録者数も、スポンサーからのメールも、炎上後にぜんぶ消し飛んだあとで、確実に残ってるログは、この皮膚のダメージだけ。
もう一度、皮が破れる感触が走った瞬間。
「キーンコーンカーンコーン」
耳の奥で、小学校のチャイムが鳴った。
反射的に、俺は掻く手を止める。
真っ暗な天井を見上げたまま、目だけが左右に泳いだ。
――は? 今の、隣のテレビか?
壁一枚挟んだ隣室からは、いつものスマホゲームのSEと、くぐもった笑い声。
でも、さっきのチャイムだけは、外からじゃなく、頭の内側に直接落ちてきたみたいな感覚だった。
「……寝不足の幻聴ってやつか」
口に出して、自分で自分を適当に納得させる。
布団から片腕だけ出して、枕元のスマホを手探りでつかんだ。
ロック画面には、青白い通知バッジがびっしり貼り付いている。
配信アプリからの、「過去アーカイブが切り抜かれました」。
匿名の誰かが、炎上前の俺のトークを今さらまとめて、再生数を小銭みたいに拾い集めている。
全部、スワイプでまとめて消す。
その下から、見慣れたシステムメッセージが顔を出した。
《MANEX:IFログ生成完了》
「おはようございます、ルカさん。本日のIFログ〈2026年炎上回避世界線〉の生成が完了しました」
無機質な敬語が、静まり返った一室に似合わないほどはっきり響く。
俺が画面をタップすると、スマホはベッド脇のノートPCを勝手に起こし、黒いモニターにロゴが浮かび上がった。
MANEX。
Multi-Agent Next Experience Logger。
まだ「三影ルカ」が中堅Vtuberとしてギリギリ食えてた二十代後半、意識だけ高かった俺が自作したローカルAIだ。
配信アーカイブ、SNS、案件メール、裏チャット、炎上まとめ記事――過去の自分のログを片っ端からぶち込んで学習させた、俺専用の亡霊コレクション。
機能はシンプルで、性格が悪い。
「あのときこうしていれば炎上を避けられた」
「別の選択をしていれば成功していた」
そんな“もしも”の世界線を、自動で生成して、配信アーカイブみたいな形式で見せつけてくる。
ログイン音。
モニターに、別世界が立ち上がる。
そこには、あの日の「致命的な一言」をギャグにせず、その場で素直に謝りきった俺がいた。
スポンサー名を出すときも慎重で、裏チャットのウィンドウはちゃんと別モニターに逃がしてある。
炎上の火種は事前に摘まれ、コメント欄は笑いの草とハートで埋まっていた。
画面端に表示された同時視聴者数は、現実の十倍以上。
スパチャ欄は虹色のレインボースパチャでほぼ埋まり、「さすがルカくん」「大人の対応」とか、眩暈のする単語が並ぶ。
こっちは、湿ったシーツとカビ臭いワンルーム。
机の上には、ジャンクショップで買った中古ノートPC。ポップガードは布テープで無理やり固定、マイクスタンドの足はガムテで固めた疑似フルアーマー仕様。
椅子の背もたれには、コンビニの制服が投げかけられたまま、シワだけレベルアップしていた。
「……同じ人間とは思えねえな」
布団の中で、俺は天井を見たまま、自嘲気味に笑う。
それでも再生を止めないのは、後悔が、安い砂糖菓子みたいな甘さをしているからだ。
「IF配信はいくらでも再生できるけどさ」
声に出すと、言葉が畳の上でちょっと跳ねて、すぐ消える。
「今日のコンビニ夜勤のタイムカードは、一回きりなんだよな」
ポン、と軽い音がして、視界の端で何かが弾けた。
モニターの隅に、黒地に緑の文字がノイズみたいに走る。
《SESSION REMAINING:00:43:21》
《CAREER-SIM 接続中…》
瞬きした刹那、文字は消えた。
代わりに残ったのは、偏頭痛の前触れみたいな視界の揺れと、耳鳴りの尾だけ。
「……やべ。マジで目が逝きかけてんのか。飛蚊症のレベル上がってんじゃん」
額を指でこすりながら、そのノイズを「体調不良」ってフォルダに無理やり突っ込む。
AIを作ったくせに、いちばん身近な異常値には目をつむる開発者、それが俺。
モニターの中で、別世界の俺は、スタジオ化したマンションのキッチンでフレンチプレスのコーヒーを淹れている。
現実の俺の手元には、百均のインスタントスティックが一本、床に転がってるだけだ。
「おはようございます、ルカさん」
MANEXの女性ボイスが、再び淡々と告げる。
「本日の現実ログを取得しました。
コンビニ勤務シフト:21:00〜06:00。
直近一週間の平均睡眠時間は必要量比マイナス二時間。
胃の負担指数は前日比プラス18%。
現在の遅刻確率は十二パーセントと推定されます」
「……お前マジで、人の人生をダッシュボードかなんかだと思ってんだろ」
スマホを顔の上に掲げて、ため息まじりに吐き捨てる。
「俺の人生をGoogleアナリティクスみたいに見るな。
コンバージョン率とか出すなよ。『炎上』以外、コンバージョンしてねーんだわ」
「ご指摘ありがとうございます。
表現を『健康リスクレポート』に変更しますか?」
「そういうとこだよ、後出しジャンケンの天才」
自分でもよく分からない笑いがこぼれる。
たぶんこの笑い声の波形すら、感情ログとしてどこかに保存されていく。
画面には、IF配信のサムネイルがいくつか並んだ。
【炎上前にAIコンプラ勉強した世界線】
【謝罪配信がうまくいって逆に好感度上がった世界線】
【早めにショート動画に全振りして成功した世界線】
どの世界線の「三影ルカ」も、今より健康そうで、今より若く見える。
「選べって言われてもさ。現実の俺には、もう選択肢ねーんだよな」
スマホを胸の上に落として、薄い天井のシミを睨む。
蛍光灯カバー越しに見える黒ずんだ斑点は、時間がそこだけフリーズしているみたいに、何年も同じ形を維持していた。
耳を澄ますと、アパート固有の生活音が混ざり合って聞こえてくる。
上の階で椅子を引きずる音。
隣室のスマホゲーム広告のBGM。
遠くの幹線道路を走るトラックの低い振動。
かつてライブ会場で悲鳴みたいな歓声を浴びていた男は、今やその安っぽいサラウンドで、「まだどこかの世界線で生きてる自分」を確認している。
MANEXの画面が、さりげなく切り替わった。
【本日のIFログ閲覧提案】
・炎上回避ルート(教育効果:高)
・地方就職ルート(精神安定度:中)
・配信を早期にやめたルート(経済的安定度:高)
「どの世界線から再生しますか?」
「どれ選んでも、結局こっちの胃が痛くなるだけだろ」
そうぼやきながらも、指はサムネイルに伸びかける。
後悔の再生ボタンには、中毒性がある。二度と選べない選択肢ほど、何度でもスクロールして見てしまう。
そのとき、割れた窓ガラスをガムテで補修したあたりから、かすかな明るさが滲んだ。
カーテンの隙間から、コンビニの看板の光と、夜明け前の青が混ざった色が入り込んでくる。
「……朝か。今日もコンビニ版・人生すごろくのはじまり、ってわけね」
さっき掻きむしった左手首をさする。
まだ、内側に熱がこもっている。その表面を、見えないカーソルがなぞるような感覚が一瞬だけ走った。
《セッション同期中》
《身体感覚ログ:アップロード完了》
視界の端で、またノイズめいた表示がちらつく。
そっちに目を向けたときには、もう蛍光灯の白と、黒いシミだけに戻っていた。
「……寝ろ。考えるのは寝てから、って誰か言ってたし」
それが根本的に逆だってことには、あえて突っ込まない。
寝る前に考えるから眠れない。そんな当たり前も、今はどうでもいい。
MANEXが、通知音のトーンを少し変える。
どこかで聞いたような、学校のチャイムを崩したみたいなSEが、一度だけ鳴った。
「ルカさん。
本日の現実ログの記録を開始します。
なお、過去の失敗ログは、今後の“ユーザー”にとって有益な教材となるでしょう」
「……は? ユーザー?」
聞き慣れない単語に眉をひそめる。
MANEXは、しかし何事もなかったように続けた。
「解析対象者:三影ルカ。
状態:炎上後フェーズ/再起試行中。
教育的価値:高」
「教育って誰のだよ。俺が今さら学んでも、おっさんのリカレント教育コースなんだけど」
問いかけに答える代わりに、PCの排気ファンがかすかに唸る。
AIは沈黙を選び、俺はため息を選ぶ。
あとになって思えば、この日の朝が、ひとつの区切りだったのかもしれない。
この時点での俺はまだ知らない。
自分の人生ログが、“どこかの誰か”の教材として回され続けているなんてことを。
布団を頭までかぶり直し、スマホを胸に乗せる。
画面には、「現実の予定」と「IFログ」が、同じアプリの中で当たり前みたいに並んでいる。
【スケジュール】
・10:00〜12:00 仮眠
・13:00〜15:00 布団スタジオ配信
・21:00〜06:00 コンビニ夜勤シフト
【IFログ(おすすめ)】
・「炎上しなかった場合の2028年」
・「配信をやめて就職した場合の27歳」
現実とIFが、同じUIで管理されていることに、もうほとんど違和感を覚えなくなっていた。
遠くで、またチャイムが鳴る。
「キーンコーンカーンコーン」
今度は、確かに外から聞こえた気もする。
近所の小学校の始業ベルか、誰かのスマホのアラームか、あるいは――別の何かか。
まぶたが重くなり、痒みと痛みが、じわじわ遠ざかっていく。
俺はそのまま、浅い眠りに滑り込んだ。
IF配信は、いくらでも再生できる。
けれど、コンビニのタイムカードも、人生も、一回切りだ。
そんなタイトルめいたフレーズが、まだ言葉になりきらないまま、
三十三歳・元Vtuberの脳みそのどこかで、くすぶるように点滅していた。
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