第9話 そしてブタは姿を変えた


 理科室には湿った黴臭さが充満している。


「っと言うわけで~鈴之塚先輩に熱烈的に憧れてこの学園に入学したってわけ」

「へぇ。そぉ。そんなことがあったの」

「う、うん?」

「って違うわよ!私が聞きたいのはそこじゃないっ!!なんで女の格好なのかってことなのよ」

「えっ?えっとそれは・・・」

「そりゃ優は可愛かったわよ!?綾さんの服着て喜んでたのも覚えてる!確かに可愛かった。悔しいけど、今の姿も女の私より可愛いと思う。でもだからって、どうして!?」

「嬉しい~結夏も可愛いって認めてくれるんだ♡」

「可愛いのは認めるが女装趣味は聞いてない!」

「これはその、綾からのアドバイスで『鈴之塚響の隣を目指すならカッコイイ系じゃムリ』ってなって。でもボクの可愛さに勝る人は中々いないから、極めるなら自分の得意分野でという結論に・・・。うん。勉強とかと一緒だよ。だから女にするべきと話が落ち着いてね、ね?」


 結夏はふらつきながら、トルマリン漬けにされた生物や昆虫標本の横を通り、窓を開けた。新鮮な空気を体内に取り込み息を吐いた。


「綾さん。それほどまでに以前の優が嫌いだったのね」

「うん。かなり嫌ってたよ。ブタと呼ぶにもブタに失礼だってよく言われた」


 太陽が雲に隠れ、教室が薄暗くなっていく。

 結夏は眼鏡をかけ直し、後ろにいる優の方へ振り返った。彼女の機嫌をとるように、優は両頬に人差し指を当てニッコリと微笑みかけてみる。


「そんな格好をやるからには、退学覚悟でやってるんでしょうね?」


 その言葉に、冷水がかけられたように、優の笑顔が固まった。


「たいがく・・・?」

「当たり前でしょう。男のアンタが女として入学なんて、バレたらただじゃ済まされないわよ!」

「そうか。そうだね」

「そうだね?ってわかってるの?そこまでするリスクが本当にある?普通に男として入学すればよかったじゃない」

「も、もちろん最悪のリスクは考えてたつもりだよ。でも男の姿じゃボク背が低いし鈴之塚先輩には不釣り合いなんだよ。あの美しさを下げてしまいかねない。そんなの絶対ダメだ!」

「問題起こして退学なんてしたら、この先の優の将来はないわよ」


 食い気味で話す結夏を優は黙ったまま見つめた。

 沈黙が続く中、雲に隠れていた太陽がゆっくりと姿を現して行く。


「反論しないの?」

「ううん。相変わらず結夏っぽいなって」

「どういう意味よ!?」

「昔と変わらなくて安心した」

「なによそれ・・・」


 結夏の頬にわずかに赤みがさした。優に顔を隠すように、再び窓の方へ向き直した。

 黒板には去年の忘れ物か、物理の問題が消されずに残っていた。今はまだ解くことは難しいが、この学校を卒業するころには理解できているのだろうか。


「それでももう一度、あの人に、鈴之塚先輩に会いたいんだ」

「優?」

「正直ボクも上手く説明できないんだよね。ただ、あんな醜いボクの手を握ってくれた。救ってくれたあの人に会いたい。ただそれだけだけなんだ――」


 自分の手を真直ぐに見つめた。ヘラヘラと笑っていた優の目に力が宿っている。その目に迷いはなかった。


「なっ!だから頼む結夏!約束してくれ。ボクが男だってことは誰にも言わないで欲しい!!」


 優は小動物のように震えながら、顔の前で両手を合わせた。ここで結夏が学校に暴露すれば全てが終わってしまう。優は祈る思いで頭を下げた。

 結夏はしばらく優に視線を向け、ふっと息を吐いた。


「優は、変わったね。見た目とかじゃなくてよ」

「ん?」

「幼稚園の頃は、優柔不断みたいな優しさだったの・・・。並んだ遊具の順番を譲ったり。最後の一枚のクッキーを隣の子にあげてたりして。優も誰か一人のために動くようになったんだなって」


 チャイムが鳴り出した。その音に、結夏の声がよく聞こえなかった。聞き直そうとすると、結夏は窓を閉めた。


「しょうがないわね。相変わらず世話が焼けるんだから。今のところは保留にしといてあげるわ」

「本当!?本当にいいの!?良かったぁ~さすが結夏!話がわかる。ありがっ」


 結夏の手を握り満面の笑みで優は礼を告げようとすると、その手を払われた。結夏の視線が床に落ちている。優は動かなくなった結夏を覗き込むように首をかしげた。


「勘違いしないで。今は保留にしておくだけ!優がおかしな素振り見せたら、すぐに学校に報告する。・・・私、生徒会に立候補するの。新入生代表の挨拶は優に捕られたけど。だから学校に反するようなことは絶対に許さない」


 結夏はそう言い残すと、理科室を後にした。廊下を走る足音が遠ざかって行く。

 一人取り残された理科室。そういえば、と優は思い出した。結夏は小学生のときも学級委員だった。優が苦手意識を抱くことを、結夏は率先して挑んでいる姿は、当時もすごいと思っていた。曲がったことが嫌いで正義感が人一倍強い――。今の自分は結夏から見れば、人の道を反しているのかもしれない。


 『保留』その言葉が鈍く反芻していく。優は小さく息を吐きながら、窓の外に視線を逃がした。日が傾きかけたグラウンドに砂埃が吹き荒れている。優は強く拳を握り閉めた。


「それでも、それでもボクは・・・」

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