第3話 静寂に灯る声

 日が沈むと、白い屋敷は淡い影をまとった。

 昼の光が消え、廊下のランプが順に灯されていく。

 白い壁も床も、夜は輪郭がわずかに沈み、静かな空気だけが広がった。


 カレンは、クラリスに指示された作業をこなしていた。

 廊下の隅を拭き、棚の埃を落とす。

 動作はまだぎこちない。

 力の入れ方が不均一で、布の滑らせ方にも偏りがある。


 それでも朝よりは整っていた。

 力任せに押しつけることはなくなり、ゆっくりと動作を調整しようとしている。


「そう、それくらいの力で大丈夫よ」


 後ろから、年配のメイドが静かに声をかけた。

 彼女は他のメイドや使用人たちと違い、警戒した様子を見せない。

 むしろ、自然な距離で寄り添うように教えている。


「布は押すより、滑らせるつもりでね。無理に力を入れないの」


 メイドは手本を見せ、カレンの手元を確認する。

 カレンは命令ではないが、“教示”として受け取り、動作を真似ようとする。


 布の動かし方がわずかに良くなる。

 滑り方も、先ほどより均一だった。


 カレンは自分の手の動きを見つめる。

 そこには、かすかな“調整”の感覚があった。


 旧連合軍の訓練所で、反復動作や負荷調整を行っていたときの微かな記憶。

 言葉として思い出すのではなく、身体の奥で僅かにうずくような感覚だけが残っていた。


 カレンは手を止めず、布を動かし続ける。

 年配のメイドは柔らかい声で続けた。


「そうそう。上出来よ。ゆっくりでいいから、ひとつずつ覚えましょうね」


 カレンは頷く。


「了解」


 声は淡々としていたが、その動きには確かに“修正”が蓄積していた。


 廊下の奥から別の使用人が通り過ぎた。

 怯えたような視線をカレンに向けると、控えめに会釈して歩いていく。


 カレンは応じないが、通り過ぎる気配に合わせて、ほんの少し頭を下げた。


 理由はない。

 それでも、朝にはなかった反応だった。


 作業を終えると、カレンは布を畳み、決められた位置へ静かに戻した。

 そのとき、廊下の向こうからクラリスの声が届いた。


「カレン。こちらへ」


 クラリスの声に従い、カレンは廊下を進んだ。

 屋敷の奥へ行くにつれ、灯りの数は減り、白い壁には細い影が伸びていた。


 読書室の前に着くと、扉は半分ほど開いていた。

 カレンは命令に従い、足音を立てずに中へ入る。


 部屋は小さかった。

 白い壁と白い棚が並び、中央の机には一つだけランプが灯っている。

 その淡い光が、クラリスの髪と薄いナイトドレスを照らしていた。


 クラリスは椅子に座り、本を開いていた。

 ページをめくる音が、夜の静けさに溶けていく。


 カレンは扉のそばに立ち続けていた。

 クラリスは視線を上げ、静かな声で言う。


「そこに立たれると落ち着きませんわ。こちらに座りなさい」


 命令として認識し、カレンは椅子へ移動した。

 座る動作も正確で、乱れはない。

 姿勢は背筋を伸ばし、呼吸の周期も一定。


 クラリスは本を閉じ、カレンの方へ体を向けた。


「夜の屋敷は静かでしょう? 白い壁は、光がなくなると別の表情を見せますの」


 カレンは応じない。

 視線はクラリスへ向いているが、理解は伴っていない。


 クラリスは続ける。


「……白というのは、人を映す色ですわ。明るいときは何もかも整って見えますけれど、夜になると、寂しさもそのまま映し出しますの」


 短い間があった。


 カレンはわずかに首を傾ける。


「理解が困難です」


 クラリスはその答えに対し、揺れることなく穏やかに微笑んだ。


「ええ、それで構いませんわ。わかる必要もありません。わたくしが話したいだけですもの」


 ランプの光が揺れ、クラリスの髪に淡く反射する。

 読むはずだった本は閉じられたままで、クラリスは静かに言葉を紡いでいく。


「あなたがここにいてくれることで、この部屋は少しだけ温かく感じられるのです。

 奇妙なことですわね。ずっと、わたくしは一人でも平気だと思っていましたのに」


 カレンはその言葉を処理しようとした。

 しかし意味の理解まで至らず、ただ視線が一度だけ揺れた。

 クラリスを見る、次の瞬間には部屋の壁を見る。


 その微かな揺れを、クラリスは静かに見守った。


「カレン。あなたは、わたくしの言葉を否定しませんのね」


「否定の条件がありません」


「ふふ……そういうところが、わたくしには心地よいのです」


 クラリスはもう一度微笑み、ランプの明かりの下で静かに目を伏せた。

 部屋の中には、紙の匂いと、夜の白い静寂だけが残っていた。

 

 クラリスは閉じていた本を手に取り、指先で背表紙を軽くなぞった。


「これは、戦前の記録書ですの。当時の議会の動きが、淡々と書かれていますわ」


 カレンは微動だにしない。

 視線だけがクラリスの手元へ向いていた。


「難しい内容ですけれど……わたくしは、こうした静かな書物が好きなのです。飾りも、感情も、ほとんどありませんから」


 カレンは短く言う。


「理解の必要性が判断できません」


 クラリスは小さく微笑む。


「ええ。それでも、あなたと話す時間は無駄ではありませんわ」


 ランプの光が本の紙面に薄く反射する。

 その光の揺れと同じように、カレンの視線が一瞬だけ揺れる。


 意味ではなく、反応でもなく、ただ“刺激”として……。


 クラリスは静かに本を閉じた。


「わたくしの話を聞いてくれるだけで、十分ですわ」


 カレンは返事をせず、クラリスを見つめていた。


 その沈黙を、クラリスは受け止めるように穏やかに目を伏せた。



 静かな時間が流れた。

 ランプの光は変わらず淡く、部屋の中の白い空気をぼんやりと照らしている。


 クラリスは膝の上に本を置いたまま、しばらくカレンを見つめていた。

 その視線は、決して重くはない。

 ただ、どこか遠くを見ているようだった。


「……カレン」


 呼ばれた名に、カレンは視線を向ける。

 応答の必要はないと判断し、そのまま静止した。


 クラリスは小さく息を吸う。

 その息にはほんのわずかに疲れが混じっていた。


「わたくしの家族は……周りの方々が思っているより、複雑なのです」


 言葉は丁寧だったが、そこには“愚痴”に近い響きがあった。


「父は議会の中で、白を保とうと必死。“アストレア家は清廉であれ”と、そればかりを繰り返す人で……」


 クラリスは指先で本の角を押さえた。

 白い手が、わずかに強くなったのが分かる。


「母も姉も……家の名を重んじるあまり、“わたくし自身”を見てくれることはありません」


 声が少しだけ低くなる。


「何をするにしても、“アストレア家の娘として相応しいかどうか”しか問われません。わたくしが何を思い、何を望むかなど……誰も気にしてはくれませんでした」


 クラリスは微笑んだ。

 しかしその笑みは、心からのものではなかった。


「滑稽ですわよね。こんな大きな家に住んでいながら、わたくしは、一度たりとも“家族”を感じたことがありませんの」


 カレンはその言葉を理解しようとした。

 だが、意味の解析は途中で止まった。

 感情を読み取る機能は持っていない。


 それでも、クラリスの声の変化と、呼吸のわずかな乱れだけは認識した。


 認識しただけで、理解には至らない。


 クラリスは少しうつむき、夜の静けさにその言葉を沈めた。


「……だからでしょうね。あなたが黙っていてくれることが、わたくしには、とても……楽なのです」


 それは告白でも弱音でもない。

 ただ、長く胸に溜め込んでいたものがようやく外に出たような、静かな解放の声だった。


 言葉の途中、カレンの頭にノイズが走る。一度。

 彼女は三度、瞬きをした。


 理由は分からない。

 命令でも反射でもなく、ただ音を受けた身体の反応。


 クラリスはその様子を見て、小さく微笑んだ。


「ありがとう、カレン。こうして座っていてくれるだけで……わたくしは、救われるような気がいたしますの」


 カレンは返事をしなかった。

 ただ、クラリスの方を向いたまま、静かに息をしていた。


 その沈黙を、クラリスはそっと受け止めた。


 クラリスは短い沈黙のあと、ゆっくりと立ち上がった。

 椅子がわずかにきしむ。

 ランプの光が揺れ、部屋の影が形を変えた。


「……今夜は、もう休みますわ」


 その声は先ほどよりも柔らかい。

 ひとつ愚痴をこぼして、肩の力が抜けたような声だった。


 カレンは立ち上がり、姿勢を整える。


「了解」


 クラリスは読書室から自室へ向かう。

 白い衣が淡い光の筋に溶けていく。

 その途中でふと立ち止まり、振り返った。


「……カレン」


 名前を呼ばれ、カレンはわずかに視線を向けた。

 命令ではない。

 だが、その声に反応してしまう。


 クラリスは静かに微笑んでいた。

 その瞳に、輝くものが浮かんでいるように見える。


「あなたが来てくれて……わたくしはとても嬉しいのです」


 その言葉は、カレンにとって“理解不能”のはずだった。

 処理できない言葉。

 解釈の参照先もない。


 それなのに——


 カレンの胸の奥で、小さく微弱な“遅延”が生まれた。

 息を吸うタイミングが、ほんのわずかに遅れた。


 理解はない。

 だが、反応はあった。


 カレンは答える。


「……言葉の意味が処理できません」


 クラリスは首を振るでもなく、困るでもなく、ただ柔らかく微笑んだ。


「ええ。構いませんわ。わたくしが分かっていれば、それで十分ですもの」


 その言葉には嘘がない。

 押しつけもない。

 ただ静かな本心だけがある。


 廊下の灯りがクラリスの横顔を照らし、その影が白い壁に細く伸びていた。


「おやすみなさい、カレン。明日もよろしくね」


 クラリスは扉を開け、部屋の中へと静かに消えていく。


 扉が閉まる音がわずかに響き、廊下には再びランプの光だけが残った。


 カレンはしばらくその場に立ち、微かに残ったクラリスの視線の痕跡を探すように

一度だけ瞬きをした。


 そして静かに踵を返し、廊下へ出ていく。


 歩く足音はいつもと変わらず整っていたが、その歩調はほんの……ほんのわずかだけ——

 

 揺らぎを含んでいた。



(つづく)

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