第5話 三歳:歩き出した世界と、知への渇望

 つかまり立ちができるようになると、わたしの世界はさらに広がった。

 視点が高くなるだけで、見慣れた部屋が全く違う景色に見える。家具の配置、ドアの向こう側、窓の外の風景。

 すべてが新鮮で、好奇心を刺激した。


 わたしは、抱っこされるのを嫌がるようになった。


「まー! やー!(マール、降ろして! 自分で歩くの!)」


 言葉はまだ「あーう」と「んー!」くらいしか出ないけれど、全身でそう主張して、マールの腕からすり抜けようともがく。

 マールは少し寂しそうだったけれど、わたしの意志を尊重してくれた。


 仕方なく床に降ろされると、わたしはすぐに近くのソファやテーブルにつかまり、伝い歩きを始めた。

 一歩一歩、自分の足で床を踏みしめる感覚。足の裏から伝わる、木の床の硬さと温度。

 それは、何にも代えがたい「自由」の味だった。


「まー!」


 マールのスカートに掴まって引っ張り、部屋の外に出たいと訴える。

 マールは見守っていた母とアイコンタクトをしてからドアを開けてくれる。さぁ、お屋敷探検だ。


 わたしは廊下の壁を伝い歩きでよちよちと歩く。

 もちろん、マールや母は、ハラハラしながらわたしの後ろをついて回った。

 メイドさん達や他の使用人達もそのあとに続いている。振り返るとわたしを先頭にお屋敷中の人達がついてきているんじゃないかと思うほどだった。

 あ、お父様も執務室から顔を出している。


「あーう(みんな心配しすぎだよー。お仕事大丈夫なの?)」


 もちろん転びそうになると、すぐに手が伸びてくる。


「あらあら、危のうございますよお嬢様」

「もう少しゆっくりね、レヴィーネ」


 わたしは、その過保護な手を、時に利用し、時にすり抜けながら、屋敷中を冒険した。

 廊下の果てにある大きな扉、父の書斎の重厚な机、食堂の長いテーブル。

 そのすべてが、わたしにとっては巨大なアスレチックであり、征服すべきリングだった。


 そんな毎日だったから、時々転んだりもした。

 家具の角に頭をぶつけたりもしたし、段差でつまずいて顔面から倒れたこともある。

 けれど、どういうわけか、大きな怪我をすることは一度もなかった。たんこぶ一つ、青あざ一つできないのだ。


(この身体は随分頑丈なのね。さすが辺境伯家の血筋だわ)


 わたしは、そんな風に軽く考えていた。

 これが後になって、赤ん坊の頃から無意識のうちに「身体強化魔法」を使っていたせいだと知ったときには、さすがのわたしも驚愕することになるのだが、それはもう少し先の話だ。


◆◆◆


 月日は流れ、わたしは三歳になった。


 もう、よちよち歩きではない。しっかりと大地を踏みしめ、走ることができる。

 言葉もだいぶ話せるようになり、自分の意志を明確に伝えられるようになった。


 この頃になると、わたしの「冒険」の舞台は、さらに劇的に広がっていた。


 まずは、屋敷の中だ。

 ヴィータヴェン辺境伯家の屋敷は、前世のわたしの感覚からすれば、ちょっとしたお城くらいの規模があった。

 天井は首が痛くなるほど高く、廊下はどこまでも続いているように見える。


 前世の後半、わたしの世界は六畳ほどの病室が全てだった。

 窓から見える四角い空と、隣のベッドとの仕切りカーテン。それが世界の果てだった。


 けれど今は違う。

 わたしは、その気になれば屋敷の端から端まで、自分の足で走り抜けることができるのだ。


 タッタッタッ、と軽い足音が、磨き上げられた木の床に響く。その音が嬉しくて、わたしは用もないのに廊下を往復した。

 階段だって、手すりに捕まりながら一段一段上り下りするだけで、ちょっとした登山気分が味わえる大冒険だった。


 そして、何よりもわたしを感動させたのは、「外」の世界――屋敷の庭園だった。


 天気の良い日には、母イリーザやマールが、わたしを散歩に連れ出してくれた。


 これまでも、おくるみに包まれたり、父や母に抱きかかえられたりして外に出たことはあった。

 けれど、「自分の足で地面を踏みしめて歩く」という行為は、それとは全く別種の、なんともいえない深い感動をわたしにもたらした。


 柔らかい芝生の弾力、小道に敷かれた砂利の硬さ、太陽に温められた土の匂い。

 前世の後半、わたしの足裏が感じるものといえば、ベッドのシーツか、車椅子の冷たいフットレストだけだった。

 それが今、この両足でしっかりと大地と繋がっている。


(ああ、わたしは本当に、自分の足で立っているんだ)


 一歩踏み出すたびに、足裏から伝わる情報が、わたしが「自由な肉体」を手に入れたことを高らかに証明していた。


 辺境伯家の庭園は、前世で知っていた「庭」という概念を軽く超越していた。

 それはもう、手入れの行き届いた小さな森か公園と呼ぶべき広さだった。


 色とりどりの花が咲き乱れる花壇、見上げるほど巨大な古木、綺麗に刈り込まれた芝生の広場。

 そして、その向こうには、遮るもののない青空がどこまでも広がっている。


(広い……!)


 初めてこの庭に自分の足で立ったとき、わたしはあまりの開放感に、しばらく言葉を失って立ち尽くしてしまったほどだ。


 風が頬を撫でる感覚。太陽の光が肌を温める感覚。草の匂い、土の匂い。

 病室の窓ガラス越しではない、生の空気が肺を満たす。


「お嬢様、あまり遠くへ行かれてはなりませんよ」


 マールが日傘をさしながら、少し後ろをついてくる。


「はーい! でも、あっちのおはなもみちゃいの!」


 わたしは、繋がれていた母の手をそっと離すと、芝生の上を駆け出した。

 柔らかい緑の絨毯が、わたしの足を受け止めてくれる。


(この芝生、最高のマットね!)


 わたしは嬉しくなって、わざと芝生の上でゴロゴロと転がってみせた。

 前世で憧れた、芝生の上でのピクニックや運動。それが今、現実のものとなっている。


「ふふ、レヴィーネは本当に元気がいいわね。まるで子犬みたい」


 母が目を細めて笑う。その笑顔が太陽みたいに眩しい。


「おかあさまも、いっちょにはちろー!」

「ええ、いいわよ。レヴィはかあさまを捕まえられるかしら?」


 母はそう言うと、わざとゆっくりとわたしから逃げるのだ。

 わたしはキャッキャと笑いながら、全力で追いかける。

 騎士だった母が本気を出したら三歳児のわたしが捕まえられるはずもないのだけれど、この「追いかけっこ」が楽しくて仕方なかった。


 疲れたら、マールが広げてくれたシートの上でお茶の時間だ。

 甘い焼き菓子と、ミルクたっぷりの紅茶。


「美味しいですか? お嬢様」

「うん! まーるのおかし、だいしゅき!」


 広い空の下、大好きな人たちに囲まれて過ごす時間。

 わたしの三歳児としての毎日は幸せと嬉しさと大好きがあふれていた。

 この永遠に続けばいい。この温かい世界で、ずっと笑っていたい。


 幼いわたしは、心からそう願っていた。


◆◆◆


 身体の自由と同時に、知の世界への扉も開かれ始めた。

 三歳になったのを機に、母やマール、そして父の補佐も務めている初老の執事、バルドが、わたしの教育係として加わり始めたのだ。


「レヴィーネ様、本日は文字のお稽古でございますよ」


 バルドは、銀縁眼鏡をかけた、いかにも「デキる執事」といった風情の人物だ。

 父が領地経営の面で最も信頼を置いている男であり、その知識量は膨大で歩く図書館のような人だ。

 常に父の後ろに控え、父からの相談事には常にあらゆる可能性を考慮した答えを用意しているように思えた。すごい。

 ただ、わたしと遊んでいる父に「旦那様、そろそろお時間です」と告げては父に不満顔をさせるのが、彼の重要な仕事の一つでもあるらしい。

 しょんぼりするお父様の身体をぽんぽんと叩いて元気づけるのはわたしの仕事だ。またね、お父様。


 前世の記憶というアドバンテージがある分か、わたしが言葉を話し出すのは早かった。

 とはいえ、まだ身体の年齢に引っ張られて、「~でしゅ」とか「~なのよ」といった、よちよち言葉になってしまうのが玉に瑕だが。


 しかし、文字はさっぱり読めなかった。

 こちらの世界の文字は、前世のどの言語とも似ていなかった。

 だから、わたしは結構真剣に、それこそ食い入るように勉強に取り組んだ。

 知ることは楽しいし、絵本を教科書にしたバルドの授業はわかりやすかった。

 文字だけでなく新しい知識をどんどんと吸収した。


 それは、ただ良い子でいるためではない。

 わたしがこの世界に生まれて以来、ずっと気になっていた「あること」を確認するためだった。


 日々の生活の中で、わたしはいくつかの「違和感」というか、前世との決定的な違いを感じ取っていた。


 まず、「魔物」の存在だ。

 父の執務室で盗み見た(というか堂々と膝の上に乗せてもらって見た)報告書や、騎士たちの会話から、この世界には野生動物とは明らかに一線を画す、凶暴な生物が存在することを知った。

 我がヴィータヴェン辺境伯家は、国境に面しているだけでなく、そうした魔物たちの領域である「常闇(とこやみ)の森」という場所に面しているらしい。

 そこに棲まう魔物たちが人類の生活圏に入らぬよう、防衛ラインを築き、定期的に間引きを行うこと。それが、我が家の、ひいては父の最も重要な仕事だったのだ。

 父とバルドが時折、険しい顔で騎士たちと打ち合わせをしているのは、このためだったのだ。


 次に、テクノロジーの違い。

 屋敷の中をどれだけ歩き回っても、電気製品らしきものが一切存在しない。コンセントもなければ、電球もない。夜の明かりは、燭台やランプだ。

 その代わりに、「魔石」と呼ばれる、不思議な光を放つ石を動力にして動く道具があった。

 お風呂のお湯を沸かしたり、部屋を暖めたりするのに使われているようだ。


 そして極めつけは、寝物語だ。

 母やマールが夜寝る前に聴かせてくれるおとぎ話には、必ずと言っていいほど、杖を持って火の玉を放つ魔法使いや、剣に雷を纏わせる魔法戦士が登場する。


 これらの状況証拠から導き出される仮説は、ただ一つ。


 ――この世界には間違いなく「魔法」が実在する。


 ある日の勉強の時間、わたしはバルドに、ついにその質問をぶつけた。

 絵本に描かれた、杖から光を放つ魔法使いの絵を指差しながら、できるだけ真剣な顔で。


「ばるど。このえほんのひとがやってる、キラキラしたやつ。これは、ほんとうにあるの?」


 バルドは眼鏡を押し上げ、穏やかに微笑んだ。


「はい、左様でございます、レヴィーネ様。これは『魔法』でございますね。選ばれた者にしか扱えませんが、確かにこの世界に実在する力でございます」


(――ッシャオラァ!!)


 わたしは心の中で、プロレスラー顔負けのガッツポーズを決めた。

 興奮のあまり、小さな椅子から転げ落ちそうになるのを必死でこらえた。


 魔法! ファンタジーの代名詞!

 前世の病室で憧れた、あの理不尽で、美しく、そして強力な力。

 それが、おとぎ話ではなく、実在する技術としてこの世界にあるのだ。


 わたしの脳内で久しぶりにプロレス脳が、高速回転を始めた。


(もしわたしが魔法を使えたら? 毒霧? 火炎攻撃? それともどんな危険な場面でも受け身が取れる肉体強化? 夢が広がりすぎる……!)


 わたしは、バルドが少し引くくらい目をキラキラさせながら、身を乗り出して次の質問を繰り出した。


「わたちも! わたちも、それ、できるようになる!?」


 バルドは少し困ったように、けれど優しく答えてくれた。


「それは……いずれ、教会での『洗礼式』にて判明いたします。ですが、旦那様も奥様も優れた魔力の持ち主でございますから、レヴィーネ様もきっと、素晴らしい才能を秘めておいででしょう」


 その言葉を聞いた瞬間から、わたしの「勉強」への熱意は、さらに数段ギアが上がったことは言うまでもない。

 さっさと文字を学び終えるのだ。図書室で魔法関連の本を探して、読み漁らなければならないのだから。

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