第4話 乳児期:魂のトレーニングと温かい腕
わたしを取り巻く大人達の反応を見るに、どうやらわたしは他の赤ん坊より早く、そして活発に体を動かせているようだった。
そうはいっても、かつて鷹乃だった頃にも赤ん坊だったことはあるのだろうが、さすがにその頃のことを覚えているわけもない。
ひたすらウンウンと手足をばたつかせ、おくるみはあたたかくて柔らかいけれど、たくさんジタバタしたいわたしにはちょっと邪魔なのだとうにゃうにゃと抗議した。
父が仕事の合間に嬉しそうに覗きに来ては、わたしの小さな足をくすぐってくる。
わたしはそれを、反射的に(ときどき意識的にドロップキックのつもりで)蹴り返した。
「元気だなぁ!」と喜ぶ父の声を聞くのが、わたしも嬉しかった。
そしてひたすら動いたら寝る、とにかく寝る。
母の母乳をたっぷり飲んで、げっぷをして、電池が切れたように(今世では「魔石が切れたように」というそうだ)深く、泥のように眠る。
前世の、薬で強制的に眠らされるような、いつ目が覚めるかわからない浅い眠りとは違う。
生命活動の結果としての、充実した休息だ。
「お嬢様は本当にお元気ですねえ」
産後の肥立ちもあって休んでいる母の代わりに、もっぱらわたしの面倒を見てくれていたのは、乳母のマールだった。
穏やかな笑顔の、ふくよかで温かい雰囲気の中年女性だ。彼女の腕の中は、母とはまた違う安心感があった。
「あーう(まぁね! 元気が一番でしょ!)」
わたしは、マールの言葉に、意識とは裏腹に、赤ちゃんらしい声を返した。
「よく動いてよく食べてよく寝て……お嬢様がどんどん育っていく姿を見守れるのはなによりも幸せなことでございますよ。旦那様も奥様も、お嬢様のことが可愛くて仕方がないご様子ですしねえ」
マールはそう言って、わたしの体を丁寧に、傷つけないように優しく拭いてくれる。
その手のひらの温かさ、滲み出る慈愛に、わたしは前世の母や看護師さんたちの献身を思い出し、鼻の奥がツンとなった。
わたしは、どれだけ多くの愛に支えられて生きてきたのだろう。そして今も、こうして愛されている。
「はぷ!(いつもお世話ありがとうね、マール!)」
わたしは、精一杯の感謝を込めて、マールを見上げてにこりと笑った。
もちろん心からの笑顔のつもりだけれど、なんとなく前世の善玉がファンサービスで浮かべる優しげな笑顔を思い出してしまった。
応援してくれる人、支えてくれる人には、最高の笑顔で応えるのが、プロとしての、そして人としての礼儀だ。
「まぁ! なんて可愛らしい笑顔なんでしょう! 本当に天使のようですわ! 奥様にもすぐにお見せしなくては!」
マールが心底嬉しそうに喜んでくれるのが嬉しくて、わたしはさらに手足をバタつかせた。
◆◆◆
普通の赤ん坊というものがどうなのかはわからないのだけれど、前世のリハビリに比べたら、今世のこの身体はなんとも驚くべきものだった。
次第に衰えてゆく身体になんとか抗おうとするも、疲れてしまえば酷ければ一週間寝たきりになるようだった前世とは全然違う。
まだまだできることは少ないし不自由なのだけれど、疲れたらおっぱいを飲んでいても眠ってしまうし、起きれば常に元気なのだ。
筋肉痛も、関節の痛みもない。
これがどれだけ喜ばしいことか、わたしにやる気と情熱を与えてくれるかは、なかなか理解してもらえないだろう。
思う通りに動くわけではないのだけれど、日々のジタバタ運動は、脳内で前世で見たプロレスラーたちのトレーニングに変換されていた。
首がしっかりすわる前から、わたしはうつ伏せになるたびに頭を持ち上げようとした。
それは、強靭な首を作るレスラーブリッジのイメージだ。
手足のジタバタは、基礎体力をつける自重トレーニング。
特に足をウンウン伸ばすのは、プロレスラーの必修科目、何千回と繰り返されるヒンズースクワットだ。
(動け、動け、わたしの体。もう二度と、サビつかせたりしないから。わたしは、この体で生きていくんだ)
この恵まれた肉体に感謝し、それを与えてくれた両親への恩返しのために、わたしは文字通りすくすくと成長していった。
◆◆◆
生後半年を過ぎ、ハイハイができるようになる頃には、わたしの行動範囲は劇的に広がった。
ベッドから出され、柔らかい毛足の長いラグの上に降ろされると、わたしは「待ってました!」とばかりに、ものすごい勢いで部屋中を這い回った。
視界が低い。床の木目やラグの毛並みが、すぐ目の前にある。それが新鮮で、楽しくて仕方がない。
「お嬢様! そんなに急いでは……!」
マールや母が慌てて追いかけてくるが、そのスピードは普通の赤ん坊の比ではなかった。
四肢の筋肉をフル活用し、まるでリングのマットを這う小型の獣のように、障害物――おもちゃやクッションを、次々とクリアしていく。
しかし、赤ん坊の身体は頭が重い。
勢いよくハイハイすると、バランスを崩して、ころりと転がってしまうことがよくあった。
「あぶっ!」
はじめて勢い余って、前回りでゴロンと転がってしまったときには、さすがに自分でもびっくりした。
天井と床が逆さまになる感覚。
様子を見ていた母とマールは、「きゃあ!」と悲鳴を上げて駆け寄ってきた。
「レヴィーネ! 大丈夫!?」
母が蒼白な顔でわたしを抱き上げる。けれど、不思議と痛みはなかった。
柔らかいラグの上だったこともあるけれど、とっさに身体を丸め、あごを引いて、衝撃を逃がすように転がったからだ。
(これ……もしかして、受け身?)
前世で何度も動画で見た、レスラーたちがマットに叩きつけられる瞬間の動き。それが、無意識のうちに身体に染み付いていたのかもしれない。
前世のリハビリで「転び方」を教わった記憶も、役に立ったのかもしれない。
「あーう(平気、平気よお母様!)」
わたしは、心配そうな母の顔を見て、にこりと笑ってみせた。
ただ、父の前で転がったときだけは、ちょっと失敗したと思った。
ある日の夕方、執務を終えた父が、ラグの上で遊ぶわたしを見に来たときのことだ。
嬉しくて父の方へ駆け寄ろう(ハイハイだけど)としたわたしは、勢い余って父の目の前で派手に一回転してしまったのだ。ごろん、と。
「レ、レヴィーネ!?」
父は、まるでこの世の終わりを見たかのような絶望的な表情で凍りついた。
持っていた書類鞄を取り落とし、その場に膝から崩れ落ちる勢いだ。
その顔色があまりに悪かったので、わたしは慌てて立ち上がり(つかまり立ちだけど)、「ほら、大丈夫だよ! わたしは元気だよ! お父様こそ大丈夫?!」とアピールしなければならなかった。
父はわたしを抱きしめ、何度も無事を確認して、ようやく安堵のため息をついたのだった。
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