第3話 再誕:夜に輝く月の名

 真っ暗で、温かい。


 それが、わたしが渡辺鷹乃としての短い人生を終え、この世界に産み落とされる前に感じたのは、絶対的な安らぎだった。

 そこは、狭くて、けれど無限の安堵に満ちた宇宙だった。

 羊水に浮かぶ心地よい浮遊感。わたしは誰かの胎内にいるのだ。

 前世の最期、呼吸すらままならなかった苦しみ、身体が鉛のように重く感じ、チューブやコードに繋がれていたあの感覚が嘘のように、この場所はただひたすらに穏やかで、守られていた。


 そして、その暗闇の中で、時折、世界を震わせるように、二つの愛おしい声が響いてくる。


「……待ち遠しいなあ、早く出ておいで、ぼくらの天使ちゃん」


 低い、よく響く男性の声が、お腹越しに優しく、甘く語りかけてくる。

 その声色には、これから生まれてくる命への、隠しようもない期待と、とろけるような愛情が滲んでいた。


(て、天使ちゃん……?)


 わたしは羊水の中で、思わずまだ未発達な小さな手で顔を覆いたくなった。


 病気に縛られたあまり長くはなかった前世だけれど、中身の精神年齢は、さすがに思春期を過ぎ、十八歳になろうとしていたのだ。

 その呼び名は、いささか気恥ずかしさが過ぎるというものだ。


 「天使ちゃん」という響きに含まれる、あまりに無垢で甘い期待感、そして何より「か弱く、守られるべき存在」というニュアンスが、わたしのまだ柔らかい背骨をムズムズさせる。


「ふふ、あなたいつもそれね。でも本当に、早く会いたいわね、私たちの天使ちゃん」


 柔らかく、しかしどこか芯のある強さを感じさせる女性の声も、愛おしそうにそれに同意する。


 両親の愛情は、肌を通して痛いほど伝わってくる。

 前世の両親が、病床のわたしに注いでくれた、あの切実で温かい愛情と同じ種類のものだ。

 自分は望まれてここにいるのだ、愛されているのだという実感は、何よりも心地よいものだった。


 けれど、やっぱりどうにも照れくさい。

 そして、ほんの少しだけ、前世の記憶がもたらす反抗心が芽生える。


(ああもう、わかった、わかったから! 元気に生まれるから、その呼び名は勘弁して!)


 わたしは、その照れくささと、ささやかな自我の主張を込めて、狭い空間でもぞもぞと動いて位置を定め、ウンと足を伸ばして、内側から母の腹壁を蹴りつけた。


「あら、またお腹を蹴られたわ。……ふふ、元気な子」

「ははは! そうか、そうか。頼もしいな! きっと君に似て活発な子になるぞ」


 二人が幸せそうに笑い合う気配が、振動となって伝わってくる。

 その温かい波動に包まれながら、わたしはこの世界が、少なくとも前世の無機質な病室ではないこと、そして自分が新しい命として心から歓迎されていることを自覚し、深く、深く安堵した。


◆◆◆


 そして、時は満ちた。


 突然、世界が収縮し、圧倒的な圧力がわたしを押し出し始めた。

 世界がひっくり返るような衝撃。そして、目も眩むような白い光の中に、わたしは放り出された。


 肌を刺す、初めて触れる外界の冷たい空気。

 肺という器官に初めて流れ込む、酸素の熱さ。喉が焼けつくような感覚。


 わたしは、本能のままに、文字通り産声を上げた。


「オギャアアアアアアア!!」


 それは、ただの生理現象ではなかった。

 前世の最期の苦しさから解き放たれ、新たな生を受けたという、魂の底からの歓喜の咆哮だった。


 手足が動く。空気が吸える。どこも痛くない。チューブも、心電図のモニターもない。

 その当たり前の奇跡に、涙が溢れて止まらなかった。

 泣くことさえ、今のわたしには全身を使った喜びの表現だった。


「旦那様、とっても元気なお嬢さまですよ!」


 部屋の外からだろうか、弾んだ声が聞こえる。


「そうか! もう入っても大丈夫かい?!」

「もう少しお待ちくださいね! 奥さまとお嬢様のお支度にまだかかりますので!」

「わかった! それにしてもすごい泣き声だね!」

「お嬢様が元気な証拠でございますよ!」


 わたしの泣き声に遮られながらのそんな会話を、わたしはぼんやりとした視界で白い天井を見上げながら聞いていた。

 そこには、前世の病室に充満していたあの嫌な消毒液の匂いはない。

 あるのは、清潔なリネンの香りと、どこか木や土や草の匂いが混じった、力強い生活の匂いだ。


(ああ、わたしは生きている。自由に動ける体で)


 小さな心臓が力強く脈打つ音。血液が全身を巡る感覚。

 この身体の奥底から湧き上がってくるエネルギーは、前世の終わりの日々には決して感じ得なかった、純粋で爆発的な生命力だった。


 ほどなくして、わたしは温かい産湯につかり、柔らかいおくるみに包まれ、誰かの腕の中に抱かれた。


 母譲りだという、産毛のような柔らかな金髪と、父譲りの黒い瞳を持った赤ん坊。

 それが、今のわたしだ。


 産着に包まれたわたしを見て、後継となる男児ではなくとも、父ユリスはわたしの誕生を心から喜んでくれているようだった。

 その目尻の下がった、とろけるような笑顔は、前世で自分を精一杯支えてくれた父の姿と重なり、胸が熱くなった。


 父は、いくつもいくつも考えてきたわたしの名前候補を挙げては、「うーむ」とああでもないこうでもないと考え込んでいる。

 そんな父の様子を見て、楽しげに笑う、出産を終えて汗で少し髪が張り付いた美しい母イリーザや、周りを取り囲む使用人のおばさまたち。


 生まれる前から歓迎されているのはわかっていたけれど、愛情が爆発してしまっているのか、父が次々と名前の候補を挙げては悩みつづけているので、このままだとわたしは前世の落語のお話みたいに長い名前になってしまいそうだ。


「あぶ」


 おくるみの中でわたしはもぞもぞウンウンと手足を動かしながら、父の顔を覗き込む。

 まだぼんやりとしか見えないけれど、確かにわたしと父は視線を交えた。

 父の大きな、少し無骨な指が、わたしの小さな手のひらにそっと触れる。

 わたしはその指を、反射的に、けれど精一杯の力で握り返した。

 その指の温かさ、大きさ。ああ、この人がわたしのお父様なんだ。


「うー(はじめまして、お父様。わたしの名前決まった?)」


 そんなわたしをじーっと見ていた父は、感極まったように、わたしのおでこの少し上あたりを壊れ物を扱うように優しく撫でながら言った。


「ふふ、ここだけもう髪があるんだね。イリーザ譲りの綺麗な金髪がくるってなっている……ああ、本当に可愛いな!」


 父の顔は、喜びで完全に緩みきっている。どこに出しても恥ずかしくない、立派な親バカだ。


「瞳の色は僕と同じだね……夜色の瞳の上に、金の三日月だ。美しく、静かに輝く、そんな子になってほしい」


 男の人は子供が産まれたということが嬉し過ぎてテンションがあがるとこうなるものなのか、それともただ単に父という人がそうなのかはまだわからないけれど、なんとも気恥ずかしくなるほどの溺愛ぶりだ。でも、その愛が心地よい。


 父は、そのまま何かを閃いたように顔を上げた。


「夜、月……そうだ。決めたぞ。ぼくらの天使ちゃん、君の名前は『レヴィーネ』だ! 夜に輝く月! うん、それがいい、そうしよう!」


 その後の母との会話によると、それはこの国の古い古い言葉なのだという。

 ヴィータヴェン辺境伯家の長女、レヴィーネ・ヴィータヴェン。それが今世のわたしの名前だ。


 わたしは嬉しくなって、ウンウンと手足を動かしながら、思いっきり大きな声で泣いて、両親とこの世界に挨拶をした。


(レヴィーネ。夜に輝く月。……とっても素敵な名前。ありがとう、お父様、お母様)


 前世の最期に願ったのは「もっと自由に、もっと傍若無人に、わがままに生きる」こと。

 こんなに美しい、静かな光を思わせる名前をもらって、そんな風に生きられるだろうか。


(……ううん、違うわね)


 わたしは心の中で思い直した。

 こんなに温かく迎えてくれた人たちがいる。この幸せな場所を守るためなら、わたしはどんな風にだって生きられる。

 夜の闇の中でこそ、月は美しく輝くのだから。


 そして、レヴィーネと名付けられたわたしは、手足をウンウン伸ばしたり縮めたりする、運動らしきものを日々繰り返した。

 それは、新しい肉体と、それがもたらす「自由」を確かなものにするためであり、同時に、「わたしはこんなに元気だから、もう心配しなくて大丈夫だよ」と、前世の両親と、今世の両親に伝えるための、わたしなりの精一杯のパフォーマンスでもあった。

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