小姓の奉公
6月2日 未明 京
丹波亀山城を出立した明智光秀率いる軍勢は桂川を渡河しようとしていた。
雑兵は亀山城出立時に下りた軍令の
『洛中での馬揃えを行う』という命になんの疑問も抱かずにここまで来ていたが、新しく下りた下知に驚きと興奮を覚えた。
『我が殿はこれより天下の主にお成りになる、手柄は本能寺と妙覚寺での働き次第』
全軍の興奮は最高に達し、侍から雑兵に至るまでこの言葉を深く考えずに天下様と唱えていた。
明智軍は怒涛の勢いで桂川を渡河し四条大路をわれ先にと駆け出していた。
明智軍先鋒の大将斎藤利三は、市中に入ると、町々の境にあった木戸を押し開け、潜り戸を過ぎるまでは幟や旗指物を付けないこと、本能寺の森・さいかちの木・竹藪を目印にして諸隊諸組で思い思いに分進して、目的地に急ぐように下知した。
3000ほどで本能寺を囲み終えたのは午前四時ほどであった。
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「来たか」
本能寺に残る僅かな他の小姓と共に弓の準備をしていた愛平はそうこぼす。
東の空が白み出した頃、本能寺の周囲は、すでに無数の松明に囲まれ、異様な熱気を帯びていた。総大将、明智光秀の命を受けた重臣、斎藤利三率いる明智軍の一隊が、寺を完全に包囲している。
「者ども、かかれ! 信長は既に終わりよ! 生け捕りか、首級を挙げよ!」
利三の号令が響き渡る。門を打ち破らんとする兵たちの鬨の声が地鳴りのように本能寺を揺らした。
小河愛平は、信長から授けられた脇差を腰に備え、静かに立っていた。彼の傍らには、愛平と共に残ることを選んだ数名の小姓たちが、それぞれ弓や火縄銃を構え、覚悟の表情で寄り添っている。
「愛平殿、敵がここまで…!」
若い小姓の一人が震える声で告げた。明智兵が戸を破り、次々と本堂になだれ込んできたのだ。その数、数十。対する愛平たちはわずか十人。
「案ずるな」
愛平の声は、信長と瓜二つに低い。信長から賜った濃紺の小袖を纏い、信長の髪型を真似た彼の姿は、まさしく「第六天魔王」そのものだった。
「信長様は、我々に重要な役目を与えられた。光秀めに、この本能寺で信長様が討ち取られたと、確信させる役目をな」
愛平は静かに呼吸を整えた。彼の脳裏には、信長から告げられた言葉が蘇る。
「短時間でも徹底的に抗戦せよ。討ち取られる時は決して顔を見られぬ様に火を放て。お前の死は光秀に『信長を討ち取った』安堵をもたらすだろう。その隙が奴めの命取りとなるのだ」
そして、信長から直接手渡された茶碗と脇差の感触。それは偽りの遺物であり、信長の死の証左となるものだった。
弓と火縄銃を構え、押し寄せる明智兵へと応戦した。火縄銃の轟音が狭い堂内に響き渡り、火薬の煙が視界を遮る。狙い澄まされた鉛玉が先頭の兵士たちを容赦なく貫き、続けざまに放たれる弓矢が明智兵の進軍を阻む。しかし、明智軍もすぐに態勢を立て直し、後方から火縄銃隊が火蓋を切ろうとするが小姓らの矢がそれの邪魔をする
「でああぁぁぁ!!」
愛平の鋭い気合と共に、一人がまた一人と倒れていく。明智兵はまさかここまで激しい抵抗があるとは夢にも思わず、一瞬怯んだ。
しかし、多勢に無勢。やがて小姓の一人が槍衾に倒れ、また一人、また一人と絶命していく。愛平の体にも、いくつもの浅い傷が刻まれていった。それでも彼は倒れない。信長の計略のため、まだ戦わねばならぬ。
「信長め! そこか!」
明智兵の放った矢が愛平の肩を深く貫く。だが、彼はひるまなかった。
傷口から血が滲み、彼の濃紺の小袖を紅く染め上げていく。
愛平は、もはや自身が長くはないことを悟った。彼の視線の先には、既に火を放っていた寺の奥で燃え盛る火の手が見える。彼の命と引き換えに、本能寺は炎上し、信長の生存を覆い隠すための煙幕となるのだ。
「利三様! 恐らくあれが信長です!」
兵士たちの声が響く。まさにその時、愛平は、信長が残した最後の言葉を思い出した。
「決して顔を見られぬ様に火を放て」
愛平は、残された最後の力を振り絞り、火を放つための火打ち石を懐から取り出した。寺のあちこちから上がる火の手が、彼の表情を妖しく照らす。
「かかれーっ!」
斎藤利三が最前線に躍り出て、自ら槍を構えた。その狙いは、紛れもなく愛平ただ一人。
無数の槍が、刀が、愛平に殺到する。彼は、最早避けることさえ諦めたかのように、その場に仁王立ちになった。
「…信長様……ご武運を…!」
愛平は、脳裏に浮かべ、火打ち石で近くの襖に火を点けた。本堂には既に油を巻いていたため炎は瞬く間に燃え広がり、愛平の全身を包み込む。
炎と煙に巻かれながらも、彼は最後まで信長として立ち続けた。
そして、無数の刃が、ついに愛平の体を貫いた。
「討ち取ったりーッ!」
明智軍の兵士たちが歓喜の声を上げる。
炎上する本能寺の中で、信長が、信長の茶道具と脇差と共に、灰燼に帰した。
顔は炎に焼かれ、判別は不可能。しかし、その遺体のそばから見つかった信長の遺品が、明智軍に「信長討ち取った」という確信を与えたのだ。
こうして、小河愛平は織田信長の生きた証として、本能寺の炎の中に散っていった。彼の壮絶な死は、信長の計略を成功させるための布石となったのだ。
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本堂を燃やし尽くした炎は明智軍本陣からも見えていた。
「首実検をさせぬつもりか」光秀は舌打ちを漏らした、信長の首級を得るためと周囲への延焼を防ぐため配下に放火の厳禁を命じていたのだ。
「まぁ良い、信長が殺せたのは上々、あとは信忠の方だけだが……」
妙覚寺へ派遣した明智光忠からの報告がやけに遅く、そこだけが気掛かりであった。
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