第32話 8-4 氷の皇子の帰還と北への旅立ち

 光の粒子が晴れ渡った廃屋の中央。

 そこには、もはや醜悪な魔獣の姿も、愛らしい仔虎の姿もなかった。

 代わりにいたのは、一人の青年だった。

 床に片膝をつき、崩れ落ちそうになった私を、その逞しい腕でしっかりと抱き止めている。

 透き通るような白磁の肌。月光を紡いだかのような銀髪が、肩にかかってサラリと揺れる。

 彫刻のように整った顔立ちは、神々しいまでの美貌を誇っているが、その表情には冷たさはなく、深い慈愛と安堵の色が宿っていた。

 そして、何よりも目を引くのは、その瞳。

 氷河の奥底を思わせる、冷たくも美しい蒼氷の色。かつて仔虎の瞳に宿っていた理性の光が、今は完全な形で戻ってきている。

 そして、極めて重要なことだが。

 彼は、糸一本纏わぬ、生まれたままの姿だった。

 鍛え抜かれた筋肉が、黄金比のようなバランスで配置されている。無駄な贅肉など一切ない、戦士の肉体美。

「……リディア」

 低く、艶のある声が、私の名前を呼んだ。

 それは『翻訳首輪』の合成音声ではない。彼の喉から発せられた、本物の肉声だ。

 私はぼんやりと彼を見上げた。

 魔力枯渇による強烈な眩暈で、視界が霞んでいる。

「じ……ジーク?」

「ああ。戻った。……君のおかげだ」

 彼は安堵の息を吐き、私を力強く抱きしめた。

 人間の男性の腕だ。仔虎の時とは違う、圧倒的な質量と、頼りがいのある感触。

 肌と肌が触れ合う。私のボロボロの戦闘服越しに伝わる、彼の高い体温。心臓の力強い鼓動。

 ……待って。状況を整理しましょう。

 美青年。全裸。密着。

 ――許容量超過。

 私の脳内回路が思考停止寸前になったその時、瓦礫の山が崩れる音がした。

 ガロンだ。

 彼は血まみれになりながらも、怨念と執念だけで立ち上がっていた。

 その顔は憎悪で歪み、目は血走り、もはや人間のそれではない。

「おのれ……! おのれェェェッ!! 私の研究を、私の悲願をッ! よくも台無しにしてくれたな! 小娘ぇぇぇッ!!」

 ガロンが壊れた杖を振り上げる。

 残った魔力をすべて注ぎ込んだ、自爆覚悟の闇魔法。

 どす黒い火球が膨れ上がり、部屋中の空気を歪ませる。

「死ね! 貴様らごとき、跡形もなく消し飛べッ!」

 火球が放たれた。

 私は動けない。魔力切れだ。指一本動かす力も残っていない。

 だが、ジークハルトは動じなかった。

 彼は私を抱いたまま、片手だけをガロンに向けた。

 その動作は優雅で、かつ絶対的な王者の風格を漂わせていた。

「……騒がしい」

 冷徹な一言。

 次の瞬間、部屋の空気が絶対零度まで凍りついた。

 パキィィィン!!

 ガロンの放った火球が、空中で凍結した。

 燃え盛る炎の形状を保ったまま、黒い氷の塊となって落下し、床に当たって砕け散ったのだ。

 物理法則を超越した、概念的な凍結。

 それだけではない。

 ガロンの足元から、鋭利な氷柱が瞬時に生成され、彼を檻のように取り囲み、拘束した。

「な、に……ッ!?」

 ガロンが驚愕に目を見開く。

 魔法の発動速度、威力、精密さ。すべてが桁違いだ。

 これが、帝国の『氷の戦鬼』。人間に戻り、全盛期の魔力を取り戻したジークハルト・フォン・ガルディアの実力。

「貴様の処遇は、帝国へ戻ってから決める。今はそこで頭を冷やしていろ」

 ジークハルトが指を握り込むと、氷の檻が収縮し、ガロンを首から下まで完全に氷漬けにした。

 声を発することもできず、恐怖の表情を浮かべたまま凍りついたガロン。

 圧倒的な決着。

「ふぅ……」

 ジークハルトは軽く息を吐き、私に向き直った。

 その蒼い瞳から冷徹さは消え、代わりに深い心配の色が浮かんでいる。

「大丈夫か、リディア。無茶をしすぎだ」

「う、うん……。なんとか」

 私は彼の顔をまともに見られず、視線を逸らした。

 どうしても、彼の裸体に目がいってしまう。筋肉質な胸板、引き締まった腹筋。

 魔導具の設計図ならいくらでも直視できるのに、生身の男性の裸は、刺激が強すぎて目のやり場に困る。

 彼は私の反応を見て、ふっと笑った。

 そして、落ちていた大判の毛布を拾い、腰に巻いた。

「リディア」

 彼は改まって、私の手を取った。

 その手は大きく、温かい。仔虎の時のプニプニした肉球とは違う、ゴツゴツとした男の手だ。

「君には、命を救われた。それだけじゃない。俺の凍っていた心まで、君は溶かしてくれた」

 彼は真剣な眼差しで、私を見つめた。

 その言葉は、あの『翻訳首輪』を通して聞いていた愛の囁きと、全く同じ響きを持っていた。

 濾過機構を通さずとも、彼の想いは変わらないのだ。

「俺は、君を愛している。……家族としてではなく、一人の男として」

 直截的な告白。

 普通の令嬢なら、ここで感動の涙を流して抱きつく場面だろう。

 だが、私の脳内変換機能は、相変わらず期待を裏切るものだった。

 あまりの事態に、思考回路が緊急回避行動をとってしまう。

「……あ、ありがとうございます! 最高の褒め言葉です!」

「……ん?」

 ジークハルトの顔が引きつる。

「私も、ジークのことは大好きですよ。最高に手のかかる、可愛い弟みたいで! あ、今は弟というには大きすぎますけど、要するに『家族愛』ってやつですよね! 分かります、吊り橋効果的な!」

 私は早口でまくし立てた。

 だって、そうでしょう?

 皇子様が、こんな追放された元聖女で技術オタクの変人を、本気で好きになるわけがない。

 これはきっと、命を助けられたことによる一時的な情熱、あるいは刷り込みのようなものだ。

 真に受けてはいけない。勘違いして傷つくのは私なのだから。

 ジークハルトは天を仰ぎ、深い深いため息をついた。

 そして、ボソリと呟いた。

「……やはり、一筋縄ではいかないか。まあいい、時間はたっぷりある」

 彼は気を取り直したように、私の顔を覗き込んだ。

 その瞳には、諦めではなく、獲物を狙う策士の光が宿っていた。

「リディア。君に提案がある」

「提案?」

「俺と一緒に、帝国へ来てくれないか」

 私は目を丸くした。

 帝国。北の軍事国家。寒くて、厳しくて、私のような軟弱者が生きていける場所ではないと思っていた。

「で、でも、私は王国を追放された身ですし……それに、寒いのは苦手で……」

「だからこそだ。王国は君の才能を捨てた。見る目のない連中だ。だが、帝国は違う。俺たちは実力主義だ。君のような優秀な魔導具師は、喉から手が出るほど欲しい」

 彼は私の手を握りしめ、甘く、誘惑するように囁いた。

「帝国には、この森で採れたような『氷魔石』の巨大鉱脈がある。さらに、北の果てには未解明の『古代遺跡』が眠る迷宮も発見されたばかりだ。君なら、その解析ができるんじゃないか?」

 ピクリ。

 私の耳が動いた。

 氷魔石の鉱脈。古代遺跡。

 それは、技術者にとって「宝の山」と同義語だ。

 王国の神殿では、古い文献にしか載っていなかった夢の素材や技術が、そこにはあるというのか。

「……本当ですか? 予算は? 実験設備は?」

 私は身を乗り出した。現金な女だと思われるかもしれないが、背に腹は代えられない。

「無制限だ。俺の権限で、君専用の工房を用意しよう。どんなに煙を出しても、爆発させても文句は言わせない」

 ジークハルトは、悪魔的な笑みを浮かべて言った。

 それは、私にとって断る理由のない、悪魔の契約(プロポーズ)だった。

「行きます! 今すぐ行きます! 荷造り手伝って!」

 私は即答し、痛む体も忘れて立ち上がった。

 ジークハルトは「現金なやつだ」と苦笑しながらも、満足げに私を支えてくれた。

 こうして、私と元仔虎の皇子による、北への逃避行――もとい、栄転の旅が始まることになった。

 廃屋の外では、いつの間にか雪が止み、雲の切れ間から眩しい朝日が差し込んでいた。

 雪原に反射する光が、私の新しい人生の幕開けを祝福しているようだった。

 ……まあ、その前に。

 まずはポロ村の村長さんに、お別れの挨拶と、迷惑料(ガロンから剥ぎ取った宝石類)を置いていかなければならないわね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る