第31話 8-3 聖女の抱擁と呪いの浄化
光。
それは、視界を白く焼き尽くすほどの、圧倒的な光量だった。
私が噛み砕いた『高純度聖水』の硝子管は、本来ならば大聖堂の浄化儀式で数ヶ月かけて消費するほどの聖なるエネルギーを、わずか数ミリリットルの液体に凝縮した劇薬だ。
それが口腔の傷から直接血中に取り込まれ、体内の魔力回路を駆け巡り、血液と混ざり合い、私の肉体を一つの巨大な「聖なる炉」へと変えていた。
熱い。全身の血管が沸騰し、皮膚が内側から溶け出しそうだ。
視界の端には、魔力過多を示す雑音のような光の粒が明滅している。
だが、思考は驚くほど冷徹だった。
「どきなさい、ガロン!」
私は黄金のオーラを纏ったまま、砲弾のように飛び出した。
床板が踏み込みの衝撃で爆ぜ、石屑が舞う。
狙うはガロンではない。
部屋の中央で黒い瘴気に飲まれ、理性と肉体を崩壊させつつある魔獣――ジークハルトだ。
「馬鹿な……! その光量はなんだ!? 貴様、自爆する気か!?」
ガロンが狼狽し、杖を振って闇の障壁を展開する。
彼の影から無数の黒い触手が伸び、私を捕らえようと殺到する。それは物理的な質量を持った影であり、触れたものを腐食させる呪いの泥だ。
だが、私の体に触れる前に、それらはジュウジュウと音を立てて蒸発していく。
今の私は、高出力の浄化装置そのものだ。半端な呪いなど、その輝きに触れることすら許されない。
「グルァァァッ!!」
魔獣と化したジークハルトが、接近する光の塊に反応した。
理性を失った彼は、私を敵と認識しているのか、それとも単なる障害物と見ているのか。
赤く濁った瞳が私を捉え、丸太のように太くなった腕が振り上げられる。
その先端には、鋼鉄さえ切り裂く鋭利な爪。
まともに喰らえば、防御ごと私の首を跳ね飛ばすだけの威力を持っている。
だが、私は避けなかった。
避ければ、彼に触れることができないからだ。
ガギィン!!
鋭い爪が、私の肩口に食い込む――直前で、見えない壁に阻まれた。
『聖女の加護』。
私の意志とは無関係に、溢れ出した過剰な魔力が、自動的に最強硬度の物理結界を形成していたのだ。
火花が散り、衝撃波が周囲の家具をなぎ倒す。
爪が弾かれ、ジークハルトが体勢を崩した。
「捕まえた!」
私はその懐に飛び込み、巨大化した彼の首に抱きついた。
黒く変色した剛毛は針金のように硬く、肌からは腐臭を帯びた瘴気が陽炎のように立ち上っている。
触れているだけで、皮膚が焼けるような痛みが走る。聖女の加護をもってしても防ぎきれない、呪いの侵食。
それでも、私は腕を離さなかった。
「暴れないで、ジーク! 私よ、リディアよ!」
「ガァァァッ!!(放せ! 殺す! 喰らう!)」
彼は狂ったように暴れ、私を振りほどこうとする。
圧倒的な筋力差。暴れる巨体に振り回され、足が浮く。普通なら吹き飛ばされているところだが、私は身体強化の術式をフル稼働させ、さらに靴底のスパイクを床に食い込ませて耐えた。
ミシミシと全身の骨が軋み、筋肉が断裂しそうになる。
「聞き分けのない子は……こうよ!」
私は彼の首に額を押し当て、意識を集中させた。
体内で暴れまわる聖なる奔流を、放出するのではなく、一点に集束させる。
イメージするのは、彼の体内深くに根を張り、複雑に絡み合った『呪い』の術式構造図。
それを、私の魔力で強制的に解析し、上書きし、初期化する。
これは魔導具の修理と同じだ。欠陥だらけの回路を焼き切り、正常な回線を繋ぎ直す作業。
「術式介入。管理者権限、強制奪取。……対象、『ジークハルト・フォン・ガルディア』!」
私の魔力が、光の針となって彼の体内へと浸透していく。
どす黒い呪いの泥の中に、黄金の光の根を強引に張り巡らせる。
拒絶反応が起きる。
呪いが私の魔力を異物として排除しようと襲いかかってくる。
精神が削られるような吐き気と、魂が凍りつくような悪寒。
耳元で、数千人の怨嗟の声が響くような幻聴。
『諦めろ』『無駄だ』『壊れてしまえ』。
うるさい。
そんな雑音に、私の声がかき消されてたまるか。
私には、最強の武器がある。
神への祈りよりも、どんな高等魔術よりも強い、確かな実感。
「帰りましょう、ジーク。……シチューが、冷めちゃうわよ」
それは、魔法の言葉でも何でもない。
ただの、日常の呼びかけ。
けれど、その言葉には、私が彼に向けた全ての感情が込められていた。
憐れみでも、崇拝でもない。
同じ屋根の下で暮らし、同じ釜の飯を食べ、寒い夜に温もりを分かち合った「家族」としての情愛。
彼がくれた信頼。私が返したい想い。
それを魔力に乗せて、呪いの泥の底に沈んでいる彼の魂の核へと、直接叩き込む。
――『家族を守るための愛』。
ドクンッ!!
二人の心臓が、同時に大きく脈打った。
その瞬間、私の額と彼の首の接触点から、眩い光が炸裂した。
ジークハルトの体から噴き出していた黒い瘴気が、内側から溢れ出した黄金の光によって浄化され、霧散していく。
まるで、夜明けの太陽が闇を払うように。
こびりついた汚れが、高圧洗浄機で洗い流されるように。
「ギ、ギャアアアアッ……!!?」
悲鳴を上げたのは、ジークハルトではなく、背後で呪いを制御していたガロンだった。
呪いの核となっていた黒水晶が、私の魔力との共鳴に耐えきれずに破裂したのだ。
術式崩壊による魔力逆流。
ガロンが血を吐き、あられもない姿で吹き飛ぶのが気配で分かった。
光が収束していく。
私の腕の中で、巨大だった魔獣の輪郭が崩れ、縮んでいく。
鋼鉄のように硬かった黒い毛皮が、光の粒子となって剥がれ落ちていく。
その下から現れたのは、白い仔虎でも、魔獣でもなく――。
温かな、人の肌の感触だった。
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