第28話

司令官室の重厚なドアを押し開けると、そこは肺が詰まるような濃密な紫煙の霧に包まれていた。


換気扇が低い唸りを上げているが、壁紙にまでこびりついたニコチンと、煮詰まった焦燥感は排出されずに部屋の隅々まで澱んでいる。


ヤン・ヴルチェク将軍は、書類の山に埋もれるようにして座っていた。


その顔色は死人のように土気色で、目の下の隈は昨日会った時よりもさらに深く、黒く刻まれている。彼が背負っている責任の重さが、物理的な質量を持って彼をデスクへと押し潰しているようだった。


「……単刀直入に言う。出て行ってくれ」


将軍は挨拶もなしに、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。


すでに灰皿はねじ切られた吸い殻で溢れかえり、いくつかが机の上にこぼれ落ちて汚い灰を撒き散らしている。それが今の彼の精神状態そのもののようだった。


「理由を聞かせてくれ」


ラデクが努めて冷静に問うと、ヴルチェクは苛立ちを隠そうともせずに頭を抱えた。脂ぎった指の間から、呻くような声が漏れる。


「聞かなくてもわかるだろう? 現場からの突き上げだ。お前たちが来てから、苦情が鳴り止まない。『あの娘はスパイだ』『夜中に不審な通信信号が出ている』……根も葉もない噂で、司令部の機能が麻痺しそうだ」


根も葉もない噂。その一部――夜中の不審な信号――が事実であることを、ラデクは表情筋一つ動かさずに飲み込んだ。


昨晩、自分がハッキングのために回線を開いた痕跡だ。それを根も葉もない噂として処理してくれているということは、ヴルチェク自身はまだ、その信号の意味には気づいていない。


将軍はラデクたちを疑っているわけではないのだ。


ただ限界を迎えつつある組織を維持するために、民衆の不安のはけ口となるスケープゴートを追い出し、ガス抜きをしたいだけ。非常時の指導者としては、あまりに真っ当で、そしてどうしようもなく情けない判断だった。


「ホラーク博士の紹介状も、パニック寸前の連中にはただの紙切れだ。……悪いが、暴動が起きる前に消えてもらう」


ヴルチェクの目は本気だった。


その瞳には、かつての軍人としての覇気はなく、ただ現状を処理しようとする官僚の冷たい光だけが宿っている。これ以上拒めば、次は憲兵隊による強制排除が始まるだろう。


だがラデクは引かなかった。彼は無言で窓際へ歩み寄り、ブラインドの隙間を指で押し下げた。ガラスの向こうに広がるのは、鉛色の空。世界が息を止めているような、不気味な静寂が支配している。


「気圧計を見たか、将軍。急激に下がっている」

「……だからどうした」

「今夜から明日にかけて、特大のブリザードが来る。あの視界不良の中、遮蔽物のないバリケードの外に出れば遭難は確実だ」


ラデクは振り返り、ヴルチェクを正面から睨み据えた。


「俺はいい。好きに野垂れ死ぬさ。……だが、連れはまだ子供だぞ。それを承知で、死ねと言うのか?」

「……ッ」


ヴルチェクが言葉に詰まり、視線を泳がせた。


彼もまた、まだ完全には心を殺しきれていない人間だった。15歳の少女を、保身のために死地へ追いやることへの躊躇い。


ラデクはその一瞬の揺らぎを見逃さず、デスクに両手をついて身を乗り出した。 将軍の顔へと、自身の影を落とす。


「24時間だ」

「……なんだと?」

「24時間待て。嵐が過ぎれば、誰に言われなくとも出て行く。……それまで俺たちはあの工場跡から一歩も出ない。誰の目にも触れさせない。それで手打ちにしろ」


ギリギリの交渉。互いの顔の距離は数十センチ。

漂う紫煙の間で、視線が火花を散らす。


ヴルチェクは苦渋の表情で新しい煙草を取り出そうとポケットを探り、箱が空であることに気づいて舌打ちをした。


箱を握りつぶす乾いた音が、部屋の静寂を裂く。


彼にとっても、「オリジンズ」を無理やり嵐の中へ追い出して死なせたとなれば、ホラーク博士への、そして何より自分自身の良心への言い訳が立たない。


長い沈黙の後、将軍は肺の底から絞り出すように言った。


「……わかった。24時間だ」


彼は握りつぶした箱をゴミ箱へ投げ捨てた。


「だが、それ以上は待たん。一秒でも過ぎれば、強制排除命令を出す。……いいな?」

「感謝する」


ラデクは短く言い捨て、踵を返した。

背後で将軍が深く、重い溜息をつき、椅子に沈み込む音が聞こえた。


廊下に出ると、冷たい壁に寄りかかって待っていたイルゼが顔を上げた。

その表情には不安も焦燥もなく、ただ結果を待つ無機質な静けさだけがある。


「どうなったの?」

「……明日の朝まで猶予をもらった。嵐が止んだら出発だ」


ラデクの言葉を聞いたイルゼは肩をすくめると、軽く頷いた。

やはり、とでも言うように淡々としたその反応。


自分たちが疎まれ、排除される側であることを、彼女はラデク以上に理解し、受け入れている。


そんな彼女の様子を見たラデクは、こみ上げる感情を抑え込み、意識して淡々と続けた。


「……行くぞ」


ラデクは歩き出しながら、隣を行くイルゼの横顔を盗み見た。


目深に被ったニット帽の下、感情を押し殺して前を見据えるその瞳。世界中が、そして人工精霊さえもが「排除すべきバグ」だと断じた存在。


だが彼女が冷たい空気の中に吐き出す白い息は、確かに温かい生命の証だ。

世界中が敵に回っても、ここだけは守らなければならないという確かな重みが、そこにはあった。


あと24時間。


それは単なる時間稼ぎではない。ラデクとイルゼ、そしてこの都市の運命を決める、最後のカウントダウンだった。

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