第27話
廃工場の巨大なシャッターの隙間から、猛吹雪の唸り声が漏れ聞こえてくる。
拠点へと戻ってきたラデクはコンテナハウスには入らず、その手前に広がる薄暗いスペースで足を止めコートについた雪を払う。
頭上の高い位置にある天窓は雪で埋まり、工場内は静けさと冷気に満ちている。
そこで、小さな青い光が揺れていた。
「……イルゼ?」
鉄骨の柱の陰、風を避けるように置かれたキャンプ用ガスバーナー。
その前で、イルゼが小さくしゃがみ込んでいた。
五徳の上ではシェラカップが白い湯気を上げ、周囲に香ばしい香りを漂わせている。
「おかえりなさい、ラデク」
ラデクの足音に気づいた彼女は、バーナーの火力を絞りながら顔を上げた。
防寒着に身を包み白い息を吐くその姿は、廃墟に迷い込んだ小動物のように見えたが、その手つきは手慣れたものだった。
「お前、ずっとここで待っていたのか」
「流石にそこまではしないわ。少し前に貴方が戻ってくる気配を感じたの」
イルゼは立ち上がると、沸いたばかりの湯を二つのマグカップに注いだ。
粗挽きの豆が湯を吸って膨らみ、黒い液体へと変わる。
「ほら、温まるから。飲んで」
差し出されたカップからは安っぽいけれど、今の世界では何よりも贅沢な湯気が立っていた。ラデクは無言で受け取り、一口すする。
酸味の強い泥水のような味。だが食道を落ちていく熱の塊が、凍りついた内臓を内側から叩き起こしていくようだった。
「……生き返るな」
「よかった。それにしても凄い吹雪ね」
イルゼも自分のカップを両手で包み込むように持ち、息を吹きかけながら小さく口をつけた。その横顔を、ラデクは直視できなかった。
カップから立ち昇る湯気の向こうで、彼女はラデクの報告を待っている。
先ほど見てしまったモニターの光景が、網膜に焼き付いて離れない。
人工精霊が守るべき「人類」という定義から、彼女だけが弾き出されているという真実。それを、どうして本人に告げられようか。ラデクは視線を黒い水面に落としたまま、低い声で言った。
「……大した収穫はなかった」
嘘をつく声が、工場跡地の冷たい空気に吸い込まれていく。
「通信ログが残っていただけだ。人工精霊の配置データや戦況は拾えたが、それ以上の成果はない」
コンロの火が、風もないのに揺れた気がした。イルゼの手が一瞬だけ止まる。
彼女はカップに口をつけたまま、上目遣いにラデクを見た。
その瞳は、言葉の真偽を探るような鋭いものではない。ラデクが纏っている重苦しい空気を、ただ静かに受け止めようとする静謐さ。
「……そう」
イルゼは短く呟き、視線を自分の足元へ落とした。
「お疲れ様。貴方が無事に帰ってきてくれた。……それだけで充分よ」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。
追求すればラデクが傷つくことを、論理ではなく直感で理解しているかのように。そのあまりに人間的な沈黙という選択が、ラデクの胸を鋭く抉った。
バーナーの火を消すと、周囲は再び圧倒的な闇と寒さに包まれた。
だが並んでコーヒーを啜る二人の間だけには、確かな温度があった。
・ ・ ・
翌朝。
工場跡地の巨大な鉄扉を押し開けると、そこに広がっていたのは昨日とは違う種類の寒さだった。吹雪は止んでいたが、空気が重い。
都市全体が、何か悪い熱病に浮かされているような不穏な気配。
「……行くぞ」
ラデクが短く声をかけ、イルゼが黙って後ろに続く。
二人は朝食の配給を受け取るため、工場の敷地を出て中央広場へと向かった。
だが通りに出た瞬間から、異変は肌にまとわりついてきた。
すれ違う人々が、まるで汚いものを見るように道を空ける。
視線は合わせない。
けれど背を向けると、背中に無数の針が突き刺さるような感覚。
ひそひそと交わされる囁き声が、風に乗って鼓膜を撫でる。
「……あいつだ」
「測定不能のエラーが出たっていう……」
「やっぱりスパイなんじゃないか?」
「本当に大丈夫なの?」
根拠のない不安。行き場のない恐怖が、異物を見つけたことで排他心へと形を変えようとしている。
配給所の長い列の最後尾。二人が並ぶと、前の男があからさまに舌打ちをして振り返った。油にまみれた作業着を着た、疲れ切った中年男だ。だがその充血した目には、怯えと攻撃性が入り混じった濁った光が宿っていた。
「おい。……寄るなよ」
男はラデクではなく、その後ろにいるイルゼを睨みつけた。
「お前がいると、飯が不味くなるんだよ。……疫病神が」
男の足元に、拳大の石が転がっていた。
男の手が、無意識なのか意図的なのか、その石へと伸びかける。周囲の数人も、同調するように冷ややかな視線を向けてくる。誰も止めようとはしない。
衣擦れの音がした。ラデクが振り返るより早く、イルゼが一歩踏み出していた。その表情は能面のように動かない。だが彼女の右手はコートの下、ホルスターの位置へと滑らかに移動している。
敵対的行動に対する、条件反射的な排除プロセス。
「やめろ」
ラデクはイルゼの手首を掴み、強く引いた。
そしてそのまま彼女を背に隠し、男たちの前に立ちはだかる。
「……今、なんと言った?」
低く、腹の底に響く声。
歴戦の空気を纏ったラデクが放つ威圧感に、男の肩がビクリと跳ねた。ラデクの瞳が、男の濁った目を射抜く。
「俺たちが来てから、この街に実害が出たか? 何も起きていないはずだ。お前たちのその怯えは、ただの妄想だろう」
「う、うるせえ! 火のない所に煙は立たねえんだよ!」
男は虚勢を張って怒鳴ったが、石を拾おうとした手は止まり、空中で行き場を失って震えていた。ラデクは一歩、踏み込む。
雪を踏みしめる音が、やけに大きく響いた。
「その手を引っ込めろ。……同胞に向けるための手じゃないはずだ」
静かな命令。
男は数秒間、何かを言い返そうと口を動かそうとしたが、やがて気圧されたように視線を逸らし、列の前の方へと逃げるように向き直った。周囲の人間も、ばつが悪そうに顔を背ける。
暴力の連鎖は、かろうじて食い止められた。
だがそこに残ったのは和解ではない。
油と水のように、決して混ざり合うことのない決定的な断絶。
「……ラデク。手を離して」
背後で、イルゼが淡々と言った。
彼女は掴まれたままの手首を見つめている。
「……行くぞ。食料は別のルートで調達する」
ラデクは吐き捨てるように言い、列を離れた。
背中に浴びせられる安堵と軽蔑の混じった視線を、コートの襟を立てて遮断する。
その時だった。
広場のスピーカーから、ノイズ混じりの放送が響き渡る。
『ラデク・クラル。至急、中央棟へ出頭せよ。繰り返す――』
ラデクは足を止め、忌々しげに曇天を見上げた。
タイミングが良すぎる。
都市の中枢部もまた、この空気に耐えきれなくなったのだろう。
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