第18話
深夜。 世界が凍りついたような静寂の中。
ふとイルゼは目を開けた。
夢を見ていたわけではない。寒さで目覚めたわけでもない。ただ、胸の奥で何かが冷たく警鐘を鳴らしたのだ。
(……なに?)
廃墟の外で風が鉄骨を鳴らす音以外、何も聞こえない。
隣のテントからは、ラデクの規則正しい寝息が変わらずわずかに聞こえている。
なのに肌が粟立つような悪寒が背筋を駆け上がる。
ここにいてはいけないという、生物としての生存本能。
いや。もっと鋭敏で、イルゼ自身も制御できない何かが、脳の裏側で信号を発しているような感覚。警告。接近者あり。自身の直観がそう告げている。
イルゼは音を立てないよう、慎重にシュラフから身を起こした。
衣擦れの音さえも躊躇われる静けさの中、テントのジッパーをミリ単位でゆっくりと下ろす。
凍てつく空気が流れ込んでくる。
顔を出し、闇に慣れた目で凝らし、耳を澄ませる。
……聞こえた。 風の音に紛れて、確かに何かが雪を踏む音。
(人工精霊? ……ううん、違う)
人工精霊ならこんな不格好な足音は立てない。
奴らはもっと静かで、機械的で、完璧だ。
この足音にはムラがある。
ためらい、疲れ、恐怖、そして隠しきれない欲望。生々しい「人間」の気配。
そして風に乗って漂ってきた微かな臭い。
何日も風呂に入っていない饐えた体臭と、安っぽい合成煙草の甘ったるい香り。
それは清潔無臭な人工精霊からは絶対にしない、生命の証だった。
(人間……? こんな廃墟に?)
一瞬、楽観的な希望が頭をよぎる。だがその気配に友好的な色は微塵もなかった。
彼らは忍び足で、獲物を追い詰めるハイエナのように、じりじりとこの場所を包囲しようとしていた。
イルゼの脳裏にラデクの言葉が蘇る。
――『備えがあれば憂いなしだ。俺たちみたいな人間には、敵が多いからな』
敵とは、人工精霊だけではない。
極限状態の世界では、人間こそが最も恐ろしい捕食者になり得る。
イルゼは息を殺してテントを出ると、コンクリートの床を這うようにして隣のテントへ近づいた。ラデクはまだ深く眠っている。
彼が仕掛けた鳴子は鳴っていない。
敵はまだ罠の手前で足を止めている。慎重な手合いだ。
「……ラデク」
イルゼはテントの入り口をわずかに開くと、風の音よりも小さく、けれど鋭く囁いた。
「起きて。……誰かいる」
ラデクの目が一瞬で見開かれた。寝起き特有の呆けは一瞬もない。
まるでスイッチが入った機械のように、意識が瞬時に覚醒する。
彼はイルゼを認識すると、小さく頷いて「了解」の合図を送った。
そして枕元の拳銃を引き寄せながら、音もなく身を起こす。
その背中からは先ほどまでの疲労の色が消え、冷徹な戦士の殺気が立ち昇っていた。
ラデクの視線がコンコースの入り口、暗闇の奥を射抜く。
そこにはかつての同胞でありながら、今は魂を人工精霊に売り渡した堕落者たちの影がゆらりと揺らめいていた。
「……チッ、
ラデクが吐き捨てるように呟く。
その声は人工精霊に向けるものよりも遥かに冷たく、そして軽蔑に満ちていた。
ラデクは音もなくテントのジッパーを開くと、闇に溶け込むように外へ滑り出た。
イルゼもそれに続く。手には愛用のデザートイーグル。その重みが、今は唯一の頼りだった。
「……数は六人か? 装備は不明だが、人工精霊の支援を受けている可能性がある」
ラデクが極限まで声を潜めて囁く。
コンコースの柱の陰に身を隠すと、闇の奥から男たちの話し声が反響して聞こえてきた。
「おい、本当にここにいるのか? こんな廃墟に」
「反応があったんだよ。熱源反応だ。間違いねえ。例の賞金首じゃないのか?」
下品な笑い声。イルゼの眉がぴくりと動く。
彼らは
人類を裏切り、人工精霊の手先となって同胞を狩るハイエナたち。
彼らは人工精霊から与えられる満たされた生活と、安全地帯での居住権を得るために、逃亡する人間を捕獲しては献上していた。
「……イルゼ。いいか、絶対に前に出るな」
ラデクが厳しい視線でイルゼを制する。
「俺が制圧する。お前は自分の身を守ることだけを考えろ」
「……わかったわ」
ラデクはその返事を聞くと、タクティカルベストから円筒形の物体を引き抜いた。 M84スタングレネード。ピンを抜く金属音が、静寂に小さく響く。そして敵の方へ向かって投げた。
「あ? なんだこれ」
男の一人が床を転がってきたそれを覗き込んだ、その瞬間。
強烈な閃光と170デシベルの爆音が、廃墟の闇を白一色に塗りつぶした。
暗視ゴーグルをつけていた男たちは、増幅された光に網膜を焼かれ、悲鳴を上げてのたうち回る。
その混乱の只中へ、ラデクが踊り込んだ。
「遅い」
ラデクは視界を奪われ銃を乱射しようとした男の懐に潜り込み、その手首を掴んで捻り上げる。骨が砕ける嫌な音がして銃が床に落ちた。そのまま流れるように顎を打ち抜き、意識を刈り取る。
「一人」
ラデクは止まらない。
無闇に発砲し跳弾が火花を散らす中、彼は弾道を完全に見切っているかのような動きで二人目の背後に回り込む。首筋への手刀。糸が切れたように男が崩れ落ちる。
「二人」
殺さない。殺してはならない。相手は人間なのだから。
銃を使えば一瞬で済む状況でもラデクはあえて危険な接近戦を選び、急所を外して無力化していく。
だがその手加減にはコストが伴う。
過剰な動きを強いられるたび、ラデクの体がきしみを上げ、筋肉が熱を持って悲鳴をあげる。
それでも彼の背中は雄弁に語っていた。
俺たちは獣じゃない。人間としての線引きを守るんだと。
だが。イルゼはその光景を冷めた目で見ていた。
(……効率が悪い)
彼女の思考は恐怖よりも先に効率を考えていた。
ラデクはなぜ殺さないのだろうか? 人工精霊を蹂躙していた時と同じようにすれば、一瞬で済むだろうに。
人間は気絶させても、目が覚めればまた追ってくる。
拘束する手間も、食料の無駄も発生する。ここで排除するのが、最も確実で低コストな解決策なのに。
その時だった。
「くっそ、化け物が……! 死ねぇぇ!!」
閃光の影響が少なかった一人が柱の陰から飛び出し、ラデクの背中へとアサルトライフルを向けた。ラデクは前の敵の制圧にかかりきりで、体勢が崩れている。回避行動が間に合わない。
「ラデク!」
イルゼが叫ぶよりも早く、彼女の脳内で奇妙な感覚がスパークした。
時間が、二重に見える。
今の光景と、コンマ数秒後の未来の光景。
男が引き金を引き、銃口からマズルフラッシュが迸り、弾丸がラデクの太腿と脇腹を食い破る映像が、鮮明な確定事項として脳裏に投影されたのだ。
(――右、20度。射線、通る)
考えるよりも先に、イルゼの右手が動いた。
デザートイーグルを構える。その動作に一切の躊躇も、震えもない。
重たい銃身が吸い込まれるように未来の着弾点ではなく、敵の頭部へと向かう。
ラデクの「前に出るな」という命令が頭をよぎる。
だが次の瞬間には、別の論理がそれを上書きしていた。
『対象は敵性存在。味方の生存確率低下を確認。推奨行動:排除』
躊躇い? 恐怖? 倫理?
そんなものはノイズだ。
イルゼは息を止めることすらなく、日常の動作の一環のように、静かに引き金を引いた。
.50口径の轟音がコンコースの空気を震わせる。
放たれた大口径弾は、引き金を引こうとしていた男の眉間を、あまりにも正確に捉えた。
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