第16話

「……余計な詮索はするな。お前は自分の身を守ることだけ考えていればいい」


冷徹な拒絶。

けれどその声の響きは図星を突かれた人間特有の、防衛的な硬さを帯びていた。


(やっぱり、この人は……)


無理をしている。


涼しい顔をして「最強の男」を演じているけれど、その内側はボロボロなのかもしれない。物理法則を信奉するこの男だけが、生身の肉体の限界という代償を無視できるはずがないのだから。


イルゼは膝を抱え、ラデクの横顔をじっと見つめた。


薄暗い車内、計器類のライトに照らされたその横顔。

無精髭に覆われた頬はやつれ、首筋には脂汗が滲んでいるのが見て取れた。


依然として、この男のことは分からない。

本当に元研究者なのだろうか。なぜあれだけ強いのか。なぜこんな車を持っているのか。そして、何を犠牲にして戦っているのか。


けれど激痛を隠してハンドルを握り、過去の世界について語るその不器用な横顔は、彼女が知っている「悪い人」ではないことだけは確かだった。


「次はどこへ行くの?」


イルゼが尋ねると、ラデクは地図も見ずに答えた。


「南西だ。地方中核都市クラドノを目指す」

「クラドノ……?」

「ホラーク博士たちが籠城しているメガシティの防衛線を担う、衛星都市の一つだ。そこにはまだレジスタンスの大規模な拠点が残っているはず」


ラデクは前方を睨み据える。


「俺たちがこれからどうやって生き延びるか、そしてどうやってユリアンのとこまでたどり着くのか。そのヒントがあるはずだ」


視線の先には、地平線の彼方まで続く荒廃した雪原が広がっていた。

ワイパーが雪を払う音が規則正しく時を刻む。


「寝ておけ。着くまでまだかかる」

「……うん」


エンジンの振動が、背中を通して絶え間なく伝わってくる。

魔法の乗り物にはない、荒々しく不快な揺れ。

けれどそれは確かに何かが動いているという、生命の鼓動にも似ていた。


暖房の温かい風と、微かに香るオイルと、そして隣の男から漂う痛々しい熱気。

張り詰めていた緊張の糸が緩み、抗いがたい睡魔が波のように押し寄せてくる。


ラデクの右手の震えが、気にならないわけじゃない。

むしろ、胸がざわざわする。


でも今は、その傷ついた手が操る鉄の塊の中にいる限り、少なくとも孤独ではない。


(……ありがとう)


声には出さず、口の中で呟く。

規則正しいエンジンの鼓動に包まれて、イルゼの意識は深い微睡みへと落ちていった。


ランドクルーザーは砂煙と雪煙を上げ、誰にも祝福されない荒野の旅路へと、その重たい車輪を進めていく。


・ ・ ・


不快な揺れが止まったことで、イルゼは微睡みの底から意識を引き上げられた。

重いまぶたをこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、世界の終わりを思わせる灰色一色の静寂だった。


「……着いたの?」

「いや。今日はここまで夜営する」


ラデクがキーを回し、エンジンを切る。

それまで車内を満たしていた獣の咆哮のようなアイドリング音が途絶えると、鼓膜が痛くなるほどの圧倒的な静寂が押し寄せてきた。


まるで世界から音が消滅したかのような錯覚。

イルゼは窓ガラスの結露を袖口で拭い、外を覗き込む。

そして小さく息を呑んだ。


「ここは……」


そこは死んだ街だった。

かつては十万人以上の人々が喧騒を奏でていただろう、地方の中核都市。


だが破壊されたわけではない。建物はどれも原型を留めている。

それなのに窓という窓は割れ落ち、コンクリートの壁は苔と蔦に覆われ、道路のアスファルトは雑草と雪に侵食されていた。


信号機は折れ曲がり、主を失ったまま十年以上放置された無数の車列が、雪に埋もれて白い棺桶のように連なっている。

ひび割れたショーウィンドウの中には、色褪せたマネキンが虚ろな目で通りを見つめていた。まるで帰ってくるはずのない誰かを、待ち続けているかのように。


「ここも、捨てられた街の一つだ」


ラデクはシートベルトを外しながら、フロントガラス越しに巨大なショッピングモールの残骸を見上げた。


「誰もいなくなってから十年は経ってるだろうな。人工精霊のいない不便な生活を嫌って、みんなここを出て行った」


ラデクの言葉には哀れみよりも深い、諦念にも似た冷たさが滲んでいた。


「降りるぞ。今日はあの中で休む」


二人が車を止めたのは、かつて駅のコンコースだったと思われる巨大なドーム状の建物の中だった。天井の強化ガラスは半分以上が抜け落ち、そこから雪が舞い込んでいるが、厚い壁のおかげで突き刺すような風は防げる。


ラデクは慣れた手つきで、ランドクルーザーの荷台から無骨なコンテナボックスを引きずり出した。


まず取り出したのは大型の充電式LEDランタン。

彼がスイッチを入れると白い光が闇を切り裂き、埃っぽいコンクリートの床と崩れた壁を浮かび上がらせた。


明かりを確保すると、ラデクはさらに手際良く準備を進める。


彼は淀みない動作でアルミ製の折りたたみテーブルを展開し、色褪せたキャンバス地のフィールドチェアを二脚、向かい合わせに広げた。


「あの、私にも手伝わせて」


テキパキと動くラデクの背中に、イルゼが声をかける。

ただ守られるだけの客人でいることへの罪悪感と、少しでも役に立ちたいという焦りがあった。


ラデクは手を止めイルゼの顔をじっと見た後、足元の収納袋を顎でしゃくった。


「なら、そいつを頼む。テントだ。……立てたことは?」

「……ないわ」

「だろうな。いいか、まずはフレームを伸ばせ。中のゴム紐が切れないように真っ直ぐ繋ぐんだ」


ラデクは袋からポールを取り出すと、小気味良い音を立てて一本の長い棒に組み上げて見せた。イルゼもおっかなびっくり、もう一つの袋からポールを取り出す。


「こう?」

「そうだ。それをテントのスリーブ――この筒状の布に通す。無理に押し込むなよ、生地が破れる」


ラデクの指示は簡潔で的確だった。

イルゼがポールの先端を生地に引っ掛けそうになると、すぐにラデクの大きな手が伸びてきて軌道を修正する。


「力任せにやるな。道具と喧嘩してどうする」

「……意外と難しいのね」

「慣れだ。よし、そこで四隅のハトメにポールの端を差し込め」


二人がかりの作業で、あっという間にオリーブ色のドームが二つ、コンクリートの上に立ち上がった。ペグが打てない硬い床のため、ラデクはテントの四隅に予備の燃料缶や工具箱を置いて固定していく。


金属のフレームが組み合わさる乾いた音や、ナイロン生地が擦れる音が、静まり返ったドームに反響する。


ほんの数分前まで死の世界だった廃墟の一角に、奇妙なほど人間臭い生活の空間が組み上げられていくのを、イルゼは軽い達成感と共に眺めた。


「上出来だ」


ラデクが短く労うと、今度はテーブルの上に携帯用のガスコンロを設置した。

着火音と共に青い炎が灯る。


「さて、飯にするか。……イルゼ、料理はできるか?」

「えっ」


ラデクの問いに、イルゼの体がビクッと跳ねた。

彼女は視線を泳がせ指先を弄りながら、消え入りそうな声で答える。


「あー……その、やったことは、ない……かも?」

「かも、じゃなくて『ない』んだな?」

「……ごめんなさい。全部、自動調理器オート・シェフ任せだったから」


イルゼは気まずそうに肩をすくめた。


ボタン一つで完璧な栄養バランスの食事が温かい状態で出てくる世界。

そこで育った彼女にとって、食材を切ったり火加減を調整したりする行為は、映像の中でしか見たことのない概念だった。


ラデクは「やれやれ」とばかりに首を振ると、コンテナから缶詰とコッヘルを取り出した。


「お前、じゃあストラゼツまで逃げてくる間、何を食ってたんだ?」

「……非常用持ち出し袋に入ってた、高圧縮クッキーと栄養ゼリーだけ。火を使うと煙が出るし、そもそも使い方がわからなかったから」

「……よく生きてたな。大した悪運だ」

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