第一部第二章:静寂の廃墟を行く
第13話
ストラゼツが炎に包まれてから、どれだけの時間が経過しただろうか。
背後で赤く染まっていた空は、いつの間にか重苦しい鉛色の闇に変わっていた。
雪が降り積もった土を踏みしめる足音が、静かに森に響く。
ラデク・クラルは一度も振り返らなかった。
振り返れば守れなかった場所、過ぎ去った日々が脳裏に浮かぶことを知っているから。
彼はただ前を向いて歩き、枝を払い、道なき道を黙って切り開いていく。
「……っ」
背後で小さなつまずく音がした。
ラデクが足を止めると、数メートル後ろでイルゼが木の根に足を取られ、膝をついていた。彼女は体のいたるところが泥で汚れ、極度の疲労で瞳は虚ろ。
人工精霊の大軍からなんとか逃げ延びてきたのだ。
イルゼにとって、どれだけの負担だったのかは容易に想像がつく。
それに、そもそも彼女はその前日までずっと一人で逃げてきた。
どれだけの疲労が溜まっているのだろう。
泥のように積み重なる疲れが、彼女の思考を麻痺させていた。
ラデクは無言で歩み寄ると、彼女の腕を掴んで立たせた。
その手つきは乱暴ではないが、決して優しくもなかった。
「立てるか」
「……うん」
「なら歩け。ここもまだ安全圏じゃない」
ラデクの声は低く、事務的だった。慰めの言葉など吐かない。
そんなものが今の状況で何の足しにもならないことを、この男は嫌というほど知っている。
イルゼは唇を噛み締め、震える足に力を入れた。
彼女はラデクの手を振り払うでもなく、かといってすがりつくでもなく、ただ目的を果たすためだけに立ち上がった。
そして再び歩き出す。
二人の間に会話はなかった。
あるのは風が木々を揺らす音と、遠くで響く魔獣の遠吠えだけ。
今、イルゼの目の前を歩いているのは、感情を切り離し、任務を遂行するためだけに動く冷徹な兵士のような姿の男だった。
(この人は何者なの……?)
ただひたすらに足を動かす中。
少しでも疲労を紛らわせようとして、取り止めのないことを考えるイルゼ。
先ほど目にしたラデク・クラルの圧倒的な戦闘力。
そして人工精霊の支援なしでの魔法の行使。
彼は人工精霊を創り上げた、十人の天才科学者、
天才科学者ラデク・クラルという過去の評判と、イルゼの眼前を歩く狩人のような男のイメージが全く結びつかない。
本当にこの人はラデク・クラルなのだろうか、なんて考えてもしょうがないことを考えてしまう。
15年。この人には一体どれだけのことがあったんだろうか。
そんなことを考えながら、イルゼ・ノヴォトナは雪降る夜の森を、静かに歩み続ける。
・ ・ ・
夜明け前。
ラデクが足を止めたのはストラゼツから南へ二十キロほど離れた、山中の古びた廃坑の入口だった。
かつては石炭を掘り出していた場所だが、魔法エネルギーの実用化とともに放棄され、今では地図にも載っていない忘れられた場所。
ラデクは入口を覆っていた蔦や雪を慣れた手つきで取り払い、岩肌の一部に隠されていた旧式のキーパッドを操作した。
電子音が鳴り、錆びついた鉄扉が重い音を立てて開く。
「ついてこい」
イルゼが促されるままに中へ入ると、むっとするようなオイルの臭いと、カビの臭いが鼻をついた。
ラデクが壁のスイッチを入れる。
予備電源が生きていたのか、薄暗い裸電球がパチパチと瞬きながら点灯した。
どうやらここは坑道に続く作業用の入り口なのだろう。地中深くに向かってトンネルが続いていた。ラデクは慣れた様子でそのトンネルを進んでいく。
イルゼも置いていかれないように黙って彼について行った。
それからさらに数分後。
おそらくは鉱山の作業員向けの事務所のような場所。比較的整備された部屋にたどり着いた。
そこはラデクやヴラスタがいくつか用意していたセーフハウスの一つ。いざという時のために様々な物資が保管されていた。
ひとまず水と食料を確保したラデクは、イルゼにもそれを渡す。
ストラゼツから逃げ出してきてからの半日ほど。途中で雪で喉を潤しながら、ひたすらに逃げてきた。
ラデクもイルゼも保管されていた飲用水を一気に飲み干し、非常食に食らいついた。
そのまま静かに食事を続ける二人。
味気ない保存用の固形食料だったが、極限まで張り詰めていたイルゼの体にはそれが何よりのご馳走のように感じられた。
胃の中に物が収まると、凍りついていた体の芯が少しずつ熱を取り戻していく。
「ふぅ……」
イルゼは空になったペットボトルを両手で包み込むように持ち、小さく息を吐いた。
裸電球の頼りない光に照らされた埃っぽい事務室。
外の世界では雪が降り続き、人工精霊たちが徘徊しているというのに、ここだけは奇妙なほど静かで平和だった。
ふと視線を上げると、対面に座るラデクはすでに食事を終え、無言でハンドガンを分解していた。
オイルの染み込んだ布でスライドを拭き、バネの状態を確認し、また元通りに組み上げる。その手つきは職人のように滑らかで一切の迷いがない。
弾倉を叩き込む金属音が、静寂な部屋に冷たく響く。
その姿を見てイルゼは改めて思う。
やはりこの男は、教科書に載っていた白衣の賢者ではない。
血と硝煙の匂いを纏った歴戦の戦士だ。
自分達を守ってくれた頼もしい手。けれど、同時に恐ろしい手。
その矛盾する感覚に戸惑いながらも、イルゼは不思議と彼から目を離すことができなかった。
ラデクは組み上がった銃をホルスターに収めると、腕時計に目を落とした。
休息の時間は終わりだと言わんばかりに、わずかに宿っていた安らぎの色がその瞳から消える。
「動けるな。行くぞ」
ラデクは部屋の奥の通路からさらに別の拓けた空間へと移動した。
そこには防水布のカバーを纏った何かが置かれている。
ラデクはそれに歩み寄ると、無造作にカバーを剥ぎとる。
そこに鎮座していたのは巨大な「鉄の塊」だった。
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