第一章 水の章ー世界のリライト
第1話 静止した水の都
頁(ページ)が開いた瞬間、足もとで微かな水音が弾けた。
けれどそれは、音と呼べるほど確かなものではない。
静寂の膜にそっと触れたような、曖昧な揺れだった。
リョウはゆっくりと顔を上げた。
――ここは、どこだ?
目の前には、灰色に沈んだ水の都が広がっていた。
石畳の通りは色を失い、家屋の影はぼんやりと薄い。
まるで古い写真の中に踏み込んだような景色だ。
風がない。
音がない。
そして――港町なら必ずあるはずの、潮の匂いがしない。
塩の刺激も、濡れた木材の香りも、魚の気配もない。
深呼吸すると、胸の奥まで“無臭の空白”が入り込んでくる。
気づけば、アウリアが隣に立っていた。
薄闇のような街並みの中で、彼女の淡い青だけが鮮やかだった。
「……ここは?」
リョウの問いは、この街の静けさに吸い込まれた。
「記憶の水都。
あなたがかつて立っていた世界の、最初の頁です。」
説明のようで、説明になっていない。
その曖昧さが、むしろ現実感を遠ざけた。
「なんで……俺、ここに?」
「それも、この先できっと分かります。」
答えを避けたというより、“まだ語れない”気配がこもっていた。
――――――――――
ふたりで歩き出す。
一歩進むたび、違和感が積み重なる。
石畳の感触は確かに足裏にある。
なのに、地面そのものの重みがどこか欠けている。
絵画の上を歩いているような、薄い現実感。
運河沿いの家々には人影も気配もない。
窓にはカーテンすら揺れていない。
そして――潮風の匂いは驚くほど“完全に”途切れていた。
「ここは……ゲームの街、なのか?」
自分に言い聞かせるような声に、アウリアは静かに首を横に振る。
「“そうだったもの”の、写しです。
いまのあなたが覚えている姿――
それがまず最初に、頁へと現れたのです。」
答えを得たようでいて、得ていない。
理解しようとすると、霧のように輪郭がぼやけていく。
――――――――――
やがて運河の先に、大きな波止場が現れた。
石造りの階段が水面へと降り、そこから木造の桟橋が伸びている。
置かれた木箱や樽は影を持たず、存在だけが浮いて見えた。
視線の先には巨大な帆船――キャラック船が数隻。
帆は垂れ下がり、ロープは強張り、
世界の停止に縫いつけられたように微動だにしない。
「……止まりすぎてるな。なんか、怖いくらいだ。」
「世界がまだ、開かれていないのです。」
アウリアの声は柔らかいが、言葉はこの世界の不確かさと奇妙に呼応していた。
ここがどこなのか。
なぜ自分はここに立っているのか。
その問いだけが胸の底で冷たく沈み続ける。
――――――――――
桟橋に足を踏み出すと、世界の薄さはさらに濃くなる。
水面は透明なのに、深さを感じない。
波があるように見えて、近づいた瞬間に止まる。
まるで“動くことを許されていない”水だ。
「アウリア……俺、本当にここにいるのか?」
「ええ。
でも、まだ完全には写っていません。」
「写って……?」
「世界があなたの存在を、
まだ“形として”受け取れていないのです。
だから、この街は薄いまま。」
説明が理解の外側をすり抜けていく。
不安だけが胸の内で静かに膨らんだ。
――――――――――
そのとき――
――コツ。
風のない世界では本来ありえない、木材が軋む小さな音がした。
リョウは反射的に顔を上げた。
キャラック船の帆が、ほんの一瞬だけ――ふわり、と揺れた。
「……揺れた……?」
自分の声がやけに小さく響く。
世界が一瞬、呼吸を取り戻したように感じた。
アウリアは帆を見つめ、静かに息を吸うように言った。
「……始まりましたね。」
説明でも、結論でもない。
ただ現象を受け止めた一言。
リョウの胸にざわめきが走る。
次の瞬間――
運河の水面に、一滴の青が落ちた。
空には存在しないはずの青が、水の上で淡く広がり、世界をほんのわずかに染めていく。
静止していた世界が、余白から“最初の文字”へ変わる瞬間。
アウリアはその青を見つめ、静かに言った。
「リョウ。
これは、この世界の“はじまり”です。」
一滴の青は小さかった。
けれど、それだけで世界はもう完全な沈黙ではなかった。
そしてリョウの胸の奥で揺れ始めたものが、
何を呼び起こすのか――
このときのリョウには、まだ分からなかった。
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