第2話 味のない弁当

昼の賑わいが落ち着き、夜の支度が整いはじめる頃。

 レストラン「ミルティユ」の扉が、カランと軽い音を立てて開いた。


 入ってきたのは、小学生くらいの男の子と、その母親だった。

 母親は深く頭を下げながら、息を切らせている。


「すみません……予約もしてないのに」

「大丈夫ですよ。どうぞ、おかけください」


 蒼井透は柔らかく微笑み、親子を窓際のテーブルへ案内する。

 母親は椅子に座るなり、息子の弁当箱をカバンから取り出した。


「実は……この子のお弁当が“味がしない”と言いまして……。

 病院では異常なしと言われたのですが、どうしても心配で……」


 男の子は視線を落とし、ぽつりと言った。


「お母さんのお弁当は好きだよ。

 でも、最近は何食べても味がわかんないんだ」


 蒼井は短く息を吸い、厨房に目を向けた。


「黒江、頼めるか?」


 奥から「……ああ」と返事が聞こえ、黒江隼斗が無言で姿を見せる。

 頑なな表情だが、子どもを見る眼差しだけは驚くほど優しい。


「……任せろ」

 黒江は弁当箱を受け取ると、そっと蓋を開けた。


 彩りのいい卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のおひたし。

 どれも家庭の優しさが詰まった、丁寧な手作り弁当だ。


 黒江は静かに呟く。


「味は……ちゃんと、あるはずだ」


 母親は肩を落とした。


「そうですよね。やっぱり私の作り方が悪いのかと……」


「いや、そうじゃない。……これは、“心の味”だ」


 手を止めずに、黒江は包丁を動かし始めた。

 昆布と鰹の香りが店に広がる。


「人間、悲しいとき、苦しいとき……味がしなくなることがある。

 舌じゃなくて、心のほうが疲れてる」


 男の子は黙って聞いている。


「……ねえ坊主、最近、何かあったか?」

「……パパが、仕事で遠くに行っちゃった」

「そっか」


 黒江は子どもと目線を合わせ、うっすら笑った。


「よく頑張ってるな」


 鍋に具材が落ち、出汁がゆっくり色づいていく。

 湯気の向こうで、黒江の横顔が温かかった。


 できあがったのは、小さな土鍋の “鯛の潮汁”。

 湯気は透明で、香りは静かに胸に染みていく。


「飲んでみろ」


 男の子は一口すすった。

 途端に目を見開く。


「……味する!」

「だろ?」


 母親の目に涙が浮かんだ。


「よかった……本当に……!」


 黒江は照れくさそうに頭をかいた。


「ただの出汁だ。君の弁当も、ちゃんと味がする。

 きっと、“寂しさ”が邪魔してただけだ」


 蒼井がそっと言葉を添える。


「お母さんの料理は、心がこもっています。

 だからこそ、また味がわかるようになったんでしょうね」


 男の子は母親を見て、小さく笑った。


「帰ったら、お弁当食べるよ。ちゃんと味わって」


「……ありがとう」


 親子は何度も頭を下げて帰っていった。

 扉が閉まったあと、篠宮が黒江の肩を軽く叩く。


「お前、いいこと言うじゃん」

「別に。ただ……子どもは弱い。だから、助ける」


「黒江……好き……」

 玲花が半分からかいながら言うと、黒江は顔を真っ赤にした。


「やめろ! からかうな!」


 厨房に笑いが満ちる。

 蒼井は満足げに頷いた。


「――次のひと皿を準備しましょう」


 その夜もまた、ミルティユでは小さな心の灯がひとつ、静かにともされた。

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