レストラン ミルティユ〜あたなのための一皿を〜

第1話 雨の日のミネストローネ

雨の匂いを含んだ風が店の扉を押した。

 夜八時。まだ客の少ない時間帯に、その女性はふらりと入ってきた。


 濡れた髪を雑にまとめたまま、スーツの袖を握りしめている。泣いたのか、目の縁が赤い。

 蒼井透は、カウンター越しに一瞬だけ彼女を見て、静かに微笑んだ。


「いらっしゃいませ。……今日は、どんな日でしたか?」


 女性は驚き、口を開きかけて、なぜかそのまま頬を濡らした。


「最悪……です。仕事も、恋も。全部、駄目でした」


 それだけ言うと、カウンターの端に座る。

 蒼井は軽く頷き、厨房へ目線で合図を送った。


「春名。頼む」


 「はあ? なんで私?」

 奥から出てきたのは、毒舌イタリアンシェフ・春名玲花。

 不満げに眉をしかめながらも、客の顔を見るとほんの少し表情を和らげた。


「……はいはい。優しい味ね」


 玲花は野菜を切り始める。

 トマト、玉ねぎ、にんじん、セロリ。

 テンポよく刻む包丁の音に、女性の肩から少しずつ力が抜けていく。


 鍋が火にかけられ、店内に温かい香りが満ちていく頃、フレンチ担当の篠宮翔がひょいと顔を出した。


「おい玲花、またパスタか?」


「違うわよ。今日はスープ」


「スープ? お前が? ……え、珍しっ」


「うっさい!」


 そんなやり取りに、女性は思わず笑った。

 自分でも驚いたように、口を押さえる。


「……あの、皆さん仲良いんですね」


「全然仲良くないわよ」

 玲花は即答したが、その横顔はどこか照れている。


 やがてスープができあがり、蒼井がそっと女性の前に置いた。


「どうぞ。温かいうちに」


 ほんのり湯気を上げる、赤みがかったミネストローネ。

 派手さはない。でも、見ただけで心がほどけるような一皿だった。


 一口。

 女性は目を閉じ、頬を伝って涙がこぼれた。


「優しい……

 ……こんなの、久しぶりです」


 蒼井は静かに微笑む。


「今日は、心が冷えていましたからね。温める必要があったんです」


 女性はスプーンを握りしめながら、ぽつりぽつりと自分のことを語った。

 失敗続きの仕事、やり直したかった恋、積み重なった疲れ。

 誰にも言えなかったことを、なぜかここでは話せた。


 全部話し終えた頃には、皿は空になっていた。

 気づけば雨は上がり、ガラス越しに街灯の光が滲んでいる。


「……なんだか、少しだけ前を向けそうです」


「それはよかった」

 蒼井は軽く頭を下げた。


「また辛い日があったら、お立ち寄りください。

 次は、今日とは違うひと皿をご用意します」


 女性は深く礼をし、店を出た。

 扉が閉まると、玲花が小さく息を吐く。


「……はあ。あれくらいのことで泣かれると、こっちまで泣きそうになるじゃない」


「玲花、泣いてたの?」

 篠宮が茶化す。


「泣いてない!」


 厨房に笑い声が広がる。

 蒼井はそんな彼らを見て、満足げに頷いた。


「さあ、夜はまだまだこれからですよ。

 ――次のひと皿を作りましょう」


 その夜もまた、小さなレストランで静かな奇跡が生まれていた。

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